第36話 告白
もうすぐ予鈴が鳴る時間のせいか、トイレには佐倉しかいなかった。
「ちょっと、ここ女子トイレよ!?」
洗面台の前にいた佐倉は、いつになく驚いた表情を見せる。
そりゃそうだ、教師に見られたら停学ものだ。
俺は黙って佐倉の左手を掴んだ。
「ちょっ、何?」
咄嗟のことに驚いた佐倉は手を振り解いたけど、確かにそこに絆創膏はあった。
くたびれて、ふにゃふにゃになって、佐倉の細い薬指に、辛うじて巻き付いていた。
一瞬だったのではっきりとは見えなかったが、傷口はもう塞がっているらしく、どこにあるのか判らなかった。
佐倉は戸惑いながらも、いつもとは違う俺の様子に心配そうな顔をする。
きりっとした綺麗な眉毛も、意思の強そうな目も、柔らかで優しいものになる。
「どうしたの?」
佐倉は小首を傾げて微笑んだ。
まるで、駄々っ子をあやすみたいに。
そうだ、俺は駄々っ子で、佐倉に言わずにはいられないんだ。
「佐倉はいつも、俺を罵倒したりしても愛情を見せてくれた。好きだって気持ちを伝えてくれた。なのに俺が見せてきたのは、優しさはあっても愛情じゃ無かった。付き合ってくれとは言っても、好きだとは言わなかった」
佐倉の唇が動いたけれど、結局それは言葉を放つことなく結ばれた。
黙って、俺の言いたいことを言わせてくれるみたいだ。
「いつも俺は、どうすればお前と付き合えるかとか、認めてもらえるかとか考えてばかりで、お前が望むものや悩んでいることに思いが至らなかった。お前の口の悪さも、お前の我儘も、受け止めているつもりで受け流していた。俺はいつも、自信が無くて卑屈になって、それを言い訳に、自分の気持ちを誤魔化してきた。だから俺は」
「あなたが好き」
俺を遮るように佐倉は言った。
真正面から何の迷いも無い言葉に、俺は圧倒されそうになる。
俺は佐倉が好きだ。
でも本当に、こんなにも真っ直ぐな佐倉の気持ちに応えられるのだろうか?
俺のせいで佐倉は両親に責められることになるんじゃないか?
俺のせいで、周りの人間に馬鹿にされたり、嘲笑されたりすることになるんじゃないか?
俺は本当に、佐倉の傍にいていいのか?
俺は……俯いてしまった。
「無理しないで」
っ!
「私のために勉強なんてする必要は無いわ。私のために身体を鍛えることなんて無駄よ。最初から、ただの我儘なんだから」
……。
まただ。
また同じことを繰り返すところだった。
俯いた俺の視線の先に、佐倉の左手があった。
そこにある絆創膏はもう取れかけていて、今にも落ちそうになっていたけれど、佐倉はたぶん無意識に、それを右手でそっと包んだ。
俺のハンカチを取ったり、俺と同じ本を買ったり、俺が貼った絆創膏を大事にしたり、そんな女の思いに応えられなくてどうするんだ。
俺は、自身を鼓舞する。
卑屈になるな!
佐倉の望むことを考えろ!
俺のせいで佐倉を馬鹿にするような奴らがいたら、俺はそいつらを見返してやればいい。
俺は顔を上げた。
佐倉は優しく微笑み返した。
「私の一番の我儘は、あなたに彼女をつくらないでって言ったこと」
「待ってくれ!」
「最初からただの我儘なんだから、守る必要なんて無いの」
「違う! 俺が望んでそうした! そりゃあ最初は何言ってんだコイツとか思ったけど、今はそんなもの我儘でもなんでも無い!」
佐倉は綺麗で、勉強も出来て、非の打ち所が無いくらいのお嬢様だけど、気が付けは大抵一人でいて、無愛想で、他人に媚びることもせず不器用で、そんな奴が、こんな俺なんかを好きでいてくれて、それでもやっぱり不器用で、気持ちの伝え方は拙くて……そんな奴、他にいない。
佐倉しかいない。
だから俺は言う。
「美由紀」
「な、なに?」
ほら、下の名前を呼んだくらいで、お前はまだ動揺を隠せなくて、それでも口許に出る嬉しさは隠せずにいて、馬鹿みたいに可憐な女の子になる。
だから俺が口にする言葉は、当たり前のことで有り触れたものでしかない。
「好きだ」
たぶん、佐倉には聞き慣れた言葉。
今までに何度も、こういった告白は受けてきただろう。
だから佐倉は冷静に、穏やかな瞳で俺を見て、静かな口調で話し出す。
「私なんかと付き合ったところで──」
え?
「ぎっとい゛ーごどなんでぬぁいがらあ」
泣き崩れた。
しゃがみ込んで、びっくりするくらいに泣くから、俺がその手を握り締めたら、ぎゅっと握り返してきた。
まるで赤ん坊みたいで、こんなにも弱さを曝け出す佐倉は初めて見る。
気が付けば何故か俺も泣いていた。
もうとっくに授業は始まっていて、しかも場所はトイレで、でも、とても静かで、俺は佐倉の髪を撫でながら、少しずつ小さく、穏やかになっていく佐倉の嗚咽を、ずっと聞いていた。
俺は、俺が好きな女の子が笑うのを、いつまでも待っていた。
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