第31話 甘い空気

「なんか、変な母親ですまん」

「どうして? いいお母さんじゃない」

「……まあ、少しズレてるけど、子供思いではある」

俺の言葉に、佐倉はにっこり笑った。

今日は佐倉の笑顔成分が多い気がして、幸せな気分になる。

部屋がノックされた。

ドアではなく襖というのが年頃の男子にはツライところだが、いちおうノックは義務付けてある。

いつもより静かに襖が開いて、母親がお盆を抱えて部屋に入ってきた。

お茶と茶菓子をガラステーブルの上に置くと、

「誠の母です」

と言って頭を下げた。

今更かよ……。

「この度は、こんなせせこましくも薄汚い我が家に来ていただきまして、ありがとうございます」

「いえ、あの、佐倉美由紀です。いつも誠君にはお世話になっていて」

「ふふふ」

なんなんだ、その不気味な笑いは。

「ご承知の通り、この子はこんなでしょう? ええっと、ヒドメン、じゃなくて、オワメン? だったかしら?」

ヒドイ! 終わってる!

「それでも、親の私が言うのもアレなんですが、優しい子でして、妹には何もかも譲ってしまうし、去年の秋には台風被害のボランティア、冬には雪下ろしをしに北国まで行ったりしてまして」

「そういうアピールはいいから! そんなこと佐倉も知ってるし!」

「雪下ろしの話は知らなかったわ」

「でしょう! この子ったら、ただ旅行に行くとしか言わないものだから、私も全然知らなかったんですけど、北国の老夫婦からお礼状が来ましてね……」

「あー、もう、泣くな、鬱陶しい!」

「学校でも、似たような感じです」

佐倉……。

佐倉から見れば、俺はそんな風に見えているのだろうか。

俺には出しゃばってくる母親が疎ましいけれど、佐倉はそうでもないのだろうか?

正直、俺は学校であまり評価されているわけでは無いと思う。

便利屋、都合のいいヤツ、お人好しのバカ、概ねそういったところだろう。

「小さい頃は、随分と苛められたこともあったようで、捻くれたり、引き籠りになるんじゃないかと心配したりしましたが、意外と鈍感だったようで、それなりに真っ直ぐ育ってくれました」

おい! 俺は別に鈍感じゃねー!

「この度は、こんな息子に、ひと時の夢を与えて下さってありがとうございます」

ひと時って確定してんのかよBBA!

「では、何のおもてなしも出来ませんが、ごゆっくり」

慎ましやかな母親を演じつつ、わりと言いたいことだけ言って出て行った……。


静かになったことだし、しばらくは勉強に没頭しようとする。

だが、母親が去ってから、部屋の空気が微妙に変わった。

最初は特に意識しなかったのに、一度三人になってから二人になると、二人きりの部屋というのが強調されてしまう。

大袈裟に言えば、たった襖一枚で仕切られただけの部屋が密室になったかのような。

四畳半の部屋は、いつも以上に狭くなり、そのくせ、味気の無い空間に、まるで花が咲いたみたいな彩りが生まれる。

なんだこれ?

俺は戸惑いながらも、教科書とノートに目を走らせた。

俺の向かいにちょこんと座っている佐倉も、俺と同じように何か戸惑っているように見えた。

いつになく緊張を覚えたので、それを誤魔化すようにノートに文字を書き込んでいく。

実際のところ、何も頭に入ってこない。

ふと顔を上げると佐倉もこちらを見ていて、お互い慌てて目を逸らす。

なんなんだこれは。

消しゴムがテーブルの上を転がる。

二人のちょうど真ん中で、それは悪戯っぽく止まった。

何を躊躇うことがあろうか、こんなもの、さっさと取ればいいではないか。

お互いが出方を窺うような状況になる前に、俺は消しゴムに手を伸ばす。

だがそれは佐倉も同じ思惑だったようで、二人の指先が触れて、互いに手を引っ込めるというお約束なことをしてしまう。

「ほっぺたペロペロしたヤツが、なんでそんなウブな反応してんだよ」

この気まずい空気を打開しようと、つい憎まれ口を叩いた。

「なっ!? そっちこそ、ほっぺたペロペロされたことがあるとは思えない余裕の無さね!」

佐倉も応酬するが、お互いあの行為を思い出して恥ずかしくなってしまう。

「……その、嫌じゃなかった?」

「何を今更。俺は顔を洗わないって言っただろ」

佐倉は恥ずかしげに俯いてから、俺を窺うようにゆっくりと顔を上げた。

また目が合う。

今度はどちらも目を逸らさなかった。

なんなんだ、この甘々な空気は。

「美由紀」

「な、何?」

「お前、俺のことストーカーみたいに詳しいのに、どうして雪下ろしのこと知らなかったんだ?」

「……今それを訊く?」

えらくご立腹な様子。

「答はストーカーじゃないからよ。冬休みや土日の私的な行動まで把握してるわけないじゃない。私が知ってるのは、住所とか誕生日とか身長とか成績とか、とにかく学校が持っているデータくらいよ」

いや、充分だろ。

でもまあ嫌な気はしない。

「名前を呼ばれたとき、キスでもされるのかと思ったわ」

「もし、してたらどうなったんだ?」

「彼氏でも無いのにそんなことしたら、平手打ちじゃ済まないわよ?」

睨むような笑みに、どこまで本気なのか判らず戸惑う俺がいる。

「じゃあ彼女になってくれ」

本日二度目の告白な気がする。

「ダ、メ、よ」

そして本日二度目の失恋を味わったわけなんだが、それなのにこの甘々な空気なのは何故なんだ。

佐倉はにっこり笑い、俺は何度でも挑戦してやると意気込む。

だけど、お互い判っていたはずなんだ。

こんな空気、こんな平穏な時間が長くは続かないってことを。

「ただいまー」

可愛らしい声。

だけど二人を固まらせる声だ。

明梨が、帰ってきた。

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