第26話 消毒します
「何か言った?」
弱い抵抗を見せながらも、とにかく保健室まで着いてきた佐倉は、心持ち拗ねたような顔をして俺に訊ねた。
俺は何を呟いたんだろう?
傷付いても傷付かないで、って意味が判らん。
でも、何があっても、どんなに傷付いても、傷付かないでほしいと俺は思ったんだ。
保健の先生は見当たらなかったので、取り敢えず佐倉を椅子に座らせ、消毒液と絆創膏を探す。
幸い、それらは簡単に見つかり、すぐに佐倉の許に戻ろうとして、俺は一瞬足を止めた。
椅子に座って項垂れている佐倉が、あまりに弱々しく見えたからだ。
「痛いのか?」
俺は佐倉に近付きながら、出来うる限り優しく訊ねた。
佐倉はいやいやをする子供みたいに首を振って、痛くないと答える。
俺はしゃがんで、怪我をした佐倉の手を取った。
赤く染まったティッシュは痛々しいが、傷口からの出血はほぼ止まっているようだ。
「沁みるかも知れないけど我慢しろ」
消毒液を含ませた脱脂綿を傷口にゆっくりと当てると、佐倉はその瞬間だけ手をビクッとさせたものの声は出さなかった。
ただ、ひどく強く俺の手を握り締めるので、傷口からまた少し血が滲み出していた。
「佐倉、力を抜け」
なのに、より込められる力。
「何がしたいんだ佐倉」
「二人でしょう?」
俯いたままの声はくぐもっていて、まるで泣いてるようにも聞こえた。
「もう呼んでくれないの?」
ああ、俺は馬鹿だと思った。
佐倉は怒るよりも何よりも、不安で傷付いていたんだ。
「美由紀」
そう呼ぶと、やっと少し顔を上げた。
保健室は静かで、まるで二人の他には学校に誰もいないような気すらした。
俺は佐倉の指に、丁寧に絆創膏を貼って、どういうわけか佐倉に微笑みかけてしまった。
自分の笑顔が佐倉に安心をもたらすことなど無いと判っているのに、何故かそうしたかったんだ。
また罵倒するなら、してくれていいと思う。
なのに佐倉は、ずっと泣くのを我慢していた子供が、やっと甘えられる親と出会えたときのように、その端整な顔をくしゃくしゃにした。
「本当に、キスしたの?」
振り絞るみたいに、佐倉は言った。
「お礼の意味で、ほっぺに、突然……」
「ほっぺ?」
「うん」
もしかしたら佐倉は、唇を合わせたと思っていたのかも知れない。
どこか少しだけ力の抜けた様子で、俺の顔をじっと見つめて来た。
「どっち?」
「え?」
「どっちにされたの?」
「あ、えっと、右側」
俺は右の頬を指さす。
「そこに立って目を瞑りなさい」
少し力の戻った声に従い、固く目を閉じる。
きっと叩かれるのだろう。
俺は歯を食いしばって、そのときを待った。
「私がいいと言うまで、絶対に目を開けちゃ駄目よ?」
かなり近くから届く声に戸惑いながら、うんうんと頷く。
右の頬だから、佐倉は左手で叩くのだろうか。
いや、グーで殴られる可能性だってあるかも知れない。
俺がそのことに思い当たって、更に身体に力を入れた瞬間、右の頬に柔らかいものが触れた。
だが、触れたという表現が正しくないことにすぐ気付く。
それは俺の頬を這い、時に強く押し当てられ、時に優しく撫でるように動き回った。
息遣いが耳をくすぐる。
艶めかしく、それでいて苦しいような、ひたむきなものも感じさせた。
こそばゆいとか、気持ちいいとかいう感覚は無かった。
佐倉の匂いが俺の鼻腔を満たし、佐倉の身体の一部が自分に触れているという事実に、俺はただ陶然とする。
やがてそれは、あと少しで俺の唇に触れてしまう、というところで離れた。
佐倉の顔が俺の胸元に降りる気配があって、今度はワイシャツに顔をごしごしと擦り付けた。
何となく、猫が毛繕いをしているようなイメージが浮かぶ。
ややあって、ゆっくりと佐倉が俺から離れる。
「もういいわ」
俺は夢から覚めるように目を開けた。
「消毒、しておいたから」
佐倉の右手には、確かに消毒液の容器が握られていた。
先端がスポンジタイプのもので、さっき俺が、そこから脱脂綿に消毒液を染み込ませたから知っているが、当然、頬を撫でたものとは柔らかさも感触も全然違う。
「今日は俺、顔を洗わないから」
その一言だけで、佐倉の顔は一瞬で真っ赤になった。
判り切った嘘で取り繕おうとしたようだが、それで無駄になった。
……もしかしたら、今ならいけるんじゃないだろうか?
流れとか、雰囲気とか、色々と状況が後押ししてくれそうな気がする。
いや、寧ろ今しか無いとすら思える。
俺は再び歯を食いしばった後、大きくはない、だけど強い声を出した。
「美由紀、俺と付き合ってくれ」
よし、言ってやった!
ブサメンでも言うときは言う!
「だ、駄目よ?」
……。
なんで?
ぶっちゃけると、あなたさっき、俺のほっぺたペロペロしましたよね?
胸元に顔すりすりしましたよね?
それでも駄目なの?
俺と付き合ったら死ぬの?
しかも何故か疑問形だし。
でも、前は「嫌よ」だったから、何か変わったのだろうか?
嫌より駄目の方が、まだ可能性はあるような……。
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