第19話 相合傘で登校

「お兄ちゃん、一緒に学校行こ!」

窓の外は薄暗いのに、一夜明けてからの明梨はハイテンションだった。

いつも俺の方が早く家を出るし、今朝はそれよりも更に早く家を出ようとしていたのに、何故か明梨がついてくる。

明梨と一緒に学校へ行くなんて、それこそ中学に上がって間もない頃が最後だったはずだ。

玄関を出ると、陰鬱な空と雨音に包まれる。

「明梨、傘は?」

団地の廊下が濡れるほどではないが、それでも傘無しで歩けるような雨ではない。

「忘れたから入れて!」

いや、玄関はすぐそこだし。

「お願いだから入れてよ」

入れてが挿入てという文字に変換されそうになったが、天使明梨の顔を見れば、そんな汚れた感情は浄化される。

「先っちょだけでいいから」

先っちょって何だ!? 傘の先っぽ? 

天使じゃなくて、小悪魔みたいな明梨と駅までの道を歩く。

何だかんだ言いながら、明梨は遠慮して傘からはみ出る位置にいる。

「おい、濡れるぞ」

明梨を引き寄せると、何故か俯き加減になった。

やっぱり俺と歩くのは恥ずかしいのかな、という懸念と、もしかしたら照れているのかな、という妄想が同居する。


いつもより時間が早いせいか、いつもより少し空いた電車に乗り込む。

それでも一応、明梨を扉の横隅に立たせ、俺はそこを防御する位置に立つ。

結局のところ明梨は、おもちゃを取られる子供のような心理になっているのだろうと思う。

友達が少なく、異性の影すら無かった俺に、佐倉みたいな女性がそばに現れたから、条件反射的に取られまいとしているに違いない。

恋愛感情なんてあるはずが無いし、それは俺も同じだ。

だから、明梨が今みたいに甘えてくるのは一過性のもので、しばらくすればまた離れていくだろう。

取り敢えずは現状のまま放置して、変な独占欲みたいなものが冷めるのを待った方がいい。

下手に色々と問い詰めたり注意することで、兄妹としての関係までぎくしゃくするのは嫌だしな。

ん?

電車が揺れる度、俺の胸元が明梨の鼻先に触れる。

明梨が鼻をすんすんと鳴らした。

「どうした、明梨」

「……お兄ちゃんの匂いがする」

え? クサイ? 

そう問いかけて、明梨がどこかウットリとしたような顔で、頬を赤らめていることに気付く。

すんすん。

「いや、嗅ぐな」

「もうちょっとだけぇ」

上目遣いの懇願。

……放置して問題ない……よな?


まだほとんど人影の無い学校に着く。

何とか明梨を一年の教室へと向かわせ、俺は自分の教室で勉強をする。

雨のせいか、今日はいつもより肌寒い。

少し冷える教室は、しん、と静まり返って、頭が冴えていくような気がする。

西原先生も退院しているので、花瓶の花はまた賑やかになったし、涼しくなって長持ちするようになった。

運動部の朝練の掛声が聞こえ出した頃、佐倉が教室に入ってきた。

美旗に対抗しているのか、このところ二番手登校が増えてきたようだ。

俺を一瞥だけして席に着くのは毎朝のことだけど、俺はいつもと違い、席を離れ佐倉の前に立った。

佐倉は俺を見上げて、何か言いたげに唇を動かしかけたものの、結局なにも言わずに口を噤んだ。

どんな仕草ひとつも見逃したくないくらいに綺麗だと思った。

「連絡先を教えてほしい」

どうしてだか、今更な気もするその言葉を言うのに緊張した。

静かな教室に、俺の緊張が増幅して響いたように思えて、少し恥ずかしくなる。

「嫌よ?」

なぜ疑問形なのだろう?

小首を傾げるようにそう言った佐倉は、小さく笑った。

愛らしくて、どこか悲しげにも見えて、俺は戸惑う。

とくん、と胸が跳ねてしまったことにも、戸惑う。

「どうしたの?」

「いや、何でもない」

誤魔化すように笑ってから、自分の笑顔が不評であることを思い出し、慌てて顔を引き締める。

佐倉は、ただ真っ直ぐに俺を見ていた。

「えっと……やっぱり連絡先を教えてほしい」

「あなたの電話番号を私に教えて」

「でも、それって」

「ええ、私から連絡しない限り、あなたには私の連絡先が判らないままね」

意地悪なことを言う、と思ったが、佐倉の笑顔はどこまでもあどけなくて、今度は胸がチクリとした。

今日の佐倉は、いつもと少し違う。

いや、違うのは俺の方だろうか?

佐倉が連絡先を教えてくれないのは予想した通りだったし、自分は教えないのに俺には教えろという我儘さもいつも通りだ。

だったら、俺はいつもと何が違うのだろう?


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