第16話 明梨の懺悔
幼い頃から、兄は何でも譲ってくれた。
おやつだろうが、オモチャだろうが、お母さんに甘えることですら譲ってくれた。
兄のおさがり、というものも使った記憶が無い。
もちろん男女の違いがあったせいもあるが、共用できるものですら、それは無かった。
兄が使っていたものが古くなり、買い替えることになっても、新品は私に与えられ、私のお古を兄が使った。
親が私に贔屓したわけじゃなくて、兄がいつも笑って譲ってくれるのだ。
たった一つしか年が違わないのに、何だかずっと年上みたいで、いつしか私は兄の気持ちに甘えることが当たり前になっていた。
中学に入る頃から、兄を小馬鹿にするような言葉を耳にするようになった。
兄は誰に対しても腰が低かったし、頼まれごとを簡単に引き受けるから、私の同級生達にとって上級生の威厳みたいなものも感じなかったのだろう。
最初は曖昧に笑って遣り過ごしていたのが、だんだんと同調して笑い飛ばすようになり、気が付けば自分から率先して兄を馬鹿にして、それをネタに友達と笑い合っていた。
頑張って勉強して、自分の成績では少し厳しい高校を選んだのは何故だろう。
他にも自転車で通える同じ程度の高校もあったのに、わざわざ電車通学の高校を選んだのは何故だろう?
校舎が綺麗だった、自転車通学って雨の日が嫌、制服がちょっと可愛い、あるいは、ただ何となく。
そんな風に誤魔化しながら、それが嘘だと気付いていた。
兄がいるからだ。
兄を馬鹿にした奴らが殆どいないからだ。
だから選んだ。
なのに、また同じことを繰り返してた。
曖昧に笑って、やがて同調し、身体が軋むような痛みを感じながら、兄を馬鹿にして友人と束の間の笑いを共有した。
最初から私が嫌そうな顔をすれば、こんな風にはならなかっただろう。
最初から友達に言い返せば、周りの人も調子に乗って馬鹿にすることも無かっただろう。
だから私のせいだ。
明梨はそのような内容を、訥々と、時に涙混じりに語った。
「だから、私が悪いんです」
胸が痛い。
俺は兄として不甲斐なくて、明梨がずっと悩んでいたことに気付いてやれなくて、かけてやる言葉さえ見つからなくて、ただいつかみたいに、笑顔を向けることしか出来なかった。
「明梨ちゃんは、何も悪くないわ」
そんな俺の代わりに、佐倉は明梨の頭に手を置いた。
「それに、明梨ちゃんが抵抗したところで、結局、彼は誰かに馬鹿にされたり悪く言われるのは変わらないわ」
うぉい! 年上っぽく何かいいこと言うのかと思いきや、非情な現実を突きつけるだけかい!
ていうかお前、初対面の時は明梨にビビりまくってたくせに、えらくお姉さん風吹かすじゃねーか。
「クラスメートとして彼を見てきた私に言わせれば、彼を馬鹿にするのは例外なく馬鹿な子よ。ちゃんと彼のこと尊敬してる子もいるし、さっきの明梨ちゃんの話を聞いてたら、この私ですら、彼のこと好きになっちゃいそうだったわ」
いや、アンタ、俺のこと好きじゃなかったの?
まあ、最終的にはいい話に持って行ってくれたから、佐倉には感謝し──
あ、鬼だ。
「そこの水浸しのみっともない姿を晒したあなた」
やっぱり、このまま終わらなかったか。
それにしても、自分が水浸しにしておいてひどい言いようだ。
「何か言うことはある?」
佐那って子が、おずおずと顔を上げる。
最初の威勢など微塵も感じられず、それどころか震えているのではないかと思わせるほど縮こまっている。
いや、もしかしたらずぶ濡れになったせいで、本当に寒いのかもだけど。
「ごめんなさい」
「私に言っても仕方ないのよ」
「あの、明梨、本当にごめん」
「謝るのは明梨ちゃんにだけじゃないでしょう?」
佐那って子が、今度は俺に向かって何度も頭を下げる。
「すいませんでした。ごめんなさい」
「いや、いいから。それより早くティッシュ使って」
せっかく二人の間が丸く収まりそうなんだ。
俺のことはどうでもいいから、この辺りで佐倉と一緒に立ち去ったほうがいい。
「佐倉、もう行こう」
「え? もっと徹底的に屈辱を与えなくていいの?」
本当に鬼か、この女。
「いいから行くぞ」
「行くって、どうせ同じ電車に──」
「佐倉先輩!」
佐倉の腕を掴み、引き摺り気味にその場から立ち去りかけた俺達を明梨が呼び止めた。
あ、そうか、ちゃんと佐倉にお礼言わなきゃな。
やっぱりはんにゃ明梨は出来た妹だ──って、般若!?
「佐倉先輩、お兄ちゃんのこと、好きなんですか?」
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