第11話 一日一善

「……あの人のこと、追いかけるの?」

再び般若明梨が顔を出す。

はんにゃ明梨って、平仮名で書くと可愛くない? なんて馬鹿なことを思う。

「違う違う。実はさっきから、そこの茂みにあるものが気になっててさ」

公園の片隅、雑草が繁っているから見えにくいが、黒い物体が二つ転がっている。

「タイヤ?」

明梨が怪訝な顔をする。

「さっき、走り回ってた子供がそこで躓いたから気付いたんだけど、誰かが捨てていったみたいだな」

「……あ、まさか」

さすが妹、俺がこれからしようとしていることに思い当たったらしく、あからさまに顔を顰めた。

「そういうのもうやめなよ。子供が躓いて危ないっていうなら、もっと端っこに立て掛けとけばいいじゃん」

「まあそう言うなよ、はんにゃ明梨」

「はんにゃ?」

おお、明梨が言うと萌え言葉みたいだ。

「廃タイヤってさ、放置しとくと中に水が溜まって蚊の発生源にもなるんだ」

「それとお兄ちゃんに何の関係があるの? あとはんにゃって何?」

「俺は蚊の存在が我慢ならんのだ」

すまん蚊よ、そこまで疎ましく思っているわけではないが、ここは悪者になっておいてくれ。

「川沿いの道に自動車整備工場があっただろ? ここからなら10分もかからないし、大した手間じゃない」

「それって、タダで引き取ってもらえるの? あとはんにゃって何?」

「以前、持って行ったときには一本300円だったかな」

「バッカじゃないの!? 二本あるから600円も払うわけ!? しかも以前って何? それからはんにゃって何よ?」

意外としつこいなコイツ。

「別にいいだろ? お前が払うわけでもないし、俺がそれで満足できるんだから」

去年は半年ほどバイトしたし、今年は夏休みに短期バイトをしたから貯金はある。

本当はもっとバイトしたいんだけど、成績を維持するのが厳しくて、学業を優先するなら長期は無理だった。

「……一つ私が持つから」

「ばーか、兄貴を舐めんな。こんなの片手で充分だっつーの」

俺は二本のタイヤを右腕に通し、余裕で持ち上げてみせた。

軽自動車のタイヤで良かった。

明梨は何故か、口惜しいような悲しいような顔をしていて、その理由が思い当たらない俺は、ただ笑って、調子のいいことを言うしかなかった。

「明梨、家はもうそこに見えているが気は抜くな。家に帰り着くまでが通学だからな」

俺は、遠足の解散場所での教師みたいなセリフを吐いて、明梨の背中を押す。

「早く帰ってきてよ」

「ん? あ、ああ」

小学校以来と思える明梨の言葉に戸惑いつつ、その小さな後ろ姿を見送る。

寂し気に、足の運びに躊躇いがあるかのような歩み。

夕陽に染まった黒髪も、足の運びと同じものを含んで揺れる。

その黒髪が翻って、振り返った明梨が俺を見た。

綺麗だ、と思った。

「帰ったらはんにゃについて聞くから!」

マジでしつこい……。


普段から筋トレしているから、軽自動車のタイヤの二本くらい、どうってことないと思っていたが、10分近くも歩けば腕がだるくなってくる。

何より、両腕にタイヤを抱えた制服姿の高校生、というのは、思っていた以上に通行人の注目を集めた。

こういうとき、イケメンなら堂々としているのかも知れないけど、俺はついつい俯きがちになってしまう。

俯くから余計に怪しく見えるって判ってはいるんだけどね。

「おいおい兄ちゃん、まるでどっかからタイヤ盗んできたみたいに見えるぞ」

いつの間にか自動車整備工場の前まで来ていたようで、顔見知りのおやっさんが声を掛けてくる。

「いや、これは近所の公園に捨てられていたもので、決して盗んでなんか──」

「判ってるって。そんな擦り減ったタイヤ、誰も盗まねぇよ」

金属を叩く音、何か判らない工具の騒音。

おやっさんの、それらに負けない大きな声。

音が止まって、小さな工場で働く五人くらいの作業員が笑う。

嫌な感じはしない。

笑われているんじゃなくて、笑ってくれてると思えるから。

「えっと、引き取ってもらえますか?」

「ああ、いいけど、兄ちゃん何かボランティアでもしてんの?」

「いえ、そんな大層なもんじゃないです。えっと、600円ですよね?」

俺は財布を出して小銭を確認する。

げっ、500円玉と1円玉しかないや。

1,000円札でお釣りを貰おう。

「500円でいいよ」

「え? マジっすか?」

「兄ちゃんこれで三回目だろ? 負けとくよ」

「あ、ありがとうございま──」

「おやっさん、ケチくさいぞ!」

え?

「そうだそうだ!」

「高校生から金取るなー!」

作業員の人達から湧き上がる声。

「うっせーぞお前ら! 給料から天引きすっからな!」

「一人100円くらい構わねーよ! おやっさん、いつも俺達に晩飯奢ってくれる太っ腹はどうしたー!」

「そうだそうだ!」

どっと響く笑い声。

「ったく。兄ちゃん、タダでいいから。これからも好きなだけ持ってこい」

「え? でも──」

「うおぉぉぉ!」

「坊主、今度晩飯食いに来い!」

「さっすがおやっさん!」

夕暮れ時の川辺の工場が、歓声に包まれる。

なんだコレ?

はは、この人達、お人好しすぎだろ。

何だか涙が出そうで、そして嬉しすぎて、俺は人生で一番と言っていいくらい深々とお辞儀をした。

だって、それ以外、どうしていいか判らなかったんだ。


帰り道でコンビニに寄って、俺は明梨のために500円分のデザートを買った。

それはきっと、どんな高級店のデザートより、美味しいはずなのだから。


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