第10話 般若
明梨は肉類、特に鶏肉が嫌いだ。
だから玉子丼は食べても親子丼は食べない。
飴玉が嫌いなのは、小さい頃、喉に詰まらせたことがあるからだ。
歌が上手いけれど、それを知っているのは家族だけ。
極度のあがり症なのは、いったい誰に似たのか。
最近は、割と明るく社交的に振る舞えているようだが、本来は引っ込み思案で、自分の意見を主張するようなことはあまりない。
昔は俺の後ばかり付いてくるようなヤツだった明梨が、何となく距離を置き出したのは中学になった頃だったろうか。
「えー、あれが明梨のお兄さん?」
なんていう否定的な響きで、俺と兄妹であることを揶揄するような同級生が何人かいたらしい。
あれ? 距離を置くようになったのは、明梨じゃなく、俺からだったっけ?
よくは憶えていないが、とにかく、高校は地元ではなく、電車通学の場所を選んだので、そういったことも無くなると思っていた。
思っていたのに、一年後、何故か明梨も同じ高校に進学してきた。
訊けば、「学力レベルが自分に合っていたから」と言う。
正直、昔のように明梨のことは把握していないから、そうなのか、と思うだけで、本当のところは判らない。
「い、い妹さん?」
普段、堂々としている佐倉が、何故かあがり症の明梨を差し置いて緊張しているらしく、戸惑いながら俺に訊ねてくる。
先ほど「お兄ちゃん」と呼ばれたのが幻聴でないのなら、この世で俺をお兄ちゃんと呼ぶのは一人しかおらず、綺麗な脚から、華奢な腰、控えめな胸、細い首へと視線を上げた先には当然のように明梨がいて────般若だ、と俺は思った。
そう言えば、今朝、「鬼だ」と思ったことがあったばかりだが、俺の周りには魑魅魍魎が跋扈しているのだろうか?
「誰、それ?」
それと来たか!
ブサメンだとかイケメンなどという概念が芽生える以前の小さな頃、当時、俺の金魚の糞のようだった明梨がよく言ったセリフだ。
俺が自分の知らないヤツと遊んでいると、俺の袖をギュッと握って、まるで取られまいとするかのように言うのだ。
あの頃の明梨は可愛かったなぁ……。
けど、なんで?
「どうした、明梨」
俺の笑顔はキモい、という固定観念が出来上がっているのに、何故か自然に、昔の、明梨をあやすときのような笑顔が出てしまった。
「きゅん」
朝は鬼の形相だった隣の人が、変な擬音を発する。
明梨は一瞬、鬼の形相だった隣の人に不快そうな視線を向けた後、俺に満面の笑みを浮かべた。
一触即発の緊張状態、鬼と般若の戦いが繰り広げられるのかと思われたが、どうやら回避されたようだ。
兄の俺が言うのもなんだが、明梨の笑顔は人々を幸せにする力がある。
「お兄ちゃん、帰ろ」
あ、もしかして、佐倉はいないという設定に変わった?
「あの、私、そろそろそろ帰るわね」
落ちつけ佐倉、そろが一回多いぞ。
「だったら送るよ」
いつの間にか、公園にいる子供達も少なくなっていた。
夕方の公園というのは、何となく寂しい気持ちにさせるし、一人で帰らせるのは申し訳ないような気もする。
家がどこだか知らないが、隣の駅が最寄り駅ということは、たぶん二十分くらいはかかるだろうし。
「い、いいわ。じゃあまた明日! 妹さんにもよろしく!」
佐倉は逃げるように駆けていく。
妹が目の前にいるのに、妹さんによろしくって言われてもなぁ……。
「ほら、帰るよ、お兄ちゃん」
「あ、佐倉が妹さんによろしくって」
「聞いてたから! 律儀に伝えなくていいから!」
だよね。
まあそれはともかく、俺はこのまま明梨と一緒に帰れない理由があった。
「明梨、悪いけど先に帰ってて」
出来るだけ優しい声で、俺はそう言った。
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