第18話
土曜日。
一週間ぶりの、二度目のデートだった。
駅前で待っていた椎の元に、優香が駆け寄ってくる。約束よりも三十分早い邂逅だった。
「椎くん、早いね」
息を切らせながら優香が言う。
「前は優香ちゃんの方が早かったから、今度は頑張ろうと思って」
「これだと段々待ち合わせが早くなっていきそうだね」
優香が肩を竦める。椎は小さく笑った。
「そうだね。お互い早く来過ぎたら徐々に気疲れするかも。これからは待ち合わせ十分前より早く来たらダメってことにしよっか」
「あ、それ凄く恋人っぽい。二人だけのデートのルール決めていくのって、なんだか凄く良い!」
優香が幸せそうに笑い、それからどこか恥ずかしそうに言う。
「あ、あのね、まだご飯には早いし、ご飯行く前にカラオケ行きたいな」
「カラオケ? いいよ」
頷くと優香はどこか緊張した様子で笑って、そっと椎の手を取った。
「じゃあ、行こっか」
優香が椎を引っ張るようにして歩き出す。
いつもより、動きがぎこちない気がした。
「優香ちゃん? 緊張してるの?」
「……椎くんといる時は、いつだって緊張してます」
優香が冗談っぽく頬を膨らませて言う。
「それに、カラオケって密室に二人きりになるから尚更だよ」
その言葉に、椎も奇妙な気まずさを覚えて黙りこんだ。
「あ、椎くん、今、変なこと考えた」
「……少しだけ」
「やっぱりー」
優香がころころと笑う。椎も釣られて微笑んだ。
店につき、受付へ向かう。
前回と同様に、待ち時間もなくそのまま個室へ向かう事ができた。
部屋に入るなり、ディスプレイ前のマイクを二つ取りにいく。
その時、部屋の中が突然暗くなった。振り返ると、入口に立った優香が調光スイッチを操作しているところだった。
ドアが、静かに閉まる。
薄暗い密室の中で、優香が微笑んだ気がした。ディスプレイの放つ仄かな光が優香の瞳に反射し、暗闇で光った。
「曲、入れるね」
優香が無言で端末を手に取り、素早く選曲する。
入力が正しく行われた事を示すように、室内に有名な曲のイントロがかかった。
「優香ちゃん?」
椎の声は、音楽に掻き消される。
優香は暗闇の中で頬を赤らめながら、椎をじっと見つめて微笑を浮かべた。それから、ゆっくりと椎のもとへ歩み始める。
「椎くんは」
優香が恥ずかしそうに椎の方を見つめながら口を開く。
その間にも、距離は縮まっていく。
「どれくらいの速度で恋人同士が距離を縮めていけばいいか知ってる?」
優香の発言の意図が掴めなかった。
椎が困惑している間に、優香との距離がすぐ触れ合う距離まで近づく。
「私、よくわからなくて。だから調べたんだ。三回目のデートでエッチする人が、多いんだって」
吐息がかかるほどまで、優香の顔が眼前に迫る。
暗闇の中で開く瞳孔すらはっきりと見える距離。
そこでようやく、優香の足が止まる。
「今、私達は二回目のデート。キスまではもうしたよね。だから、あの、もうちょっと、進みたいなって」
そして、優香はそっと顔を近づけた。
唇が触れあう。
この一週間、何度もしたことだった。
突然の行為に少し驚いたものの、椎はそっと優香の肩に手を添えた。
そして、ゆっくりと唇を離そうとする。その時、反発するように優香が強く身を寄せた。
唇が押し付けられ、生温かい舌が、口腔内に入ってくる。直後、優香の腕が椎の背中に回され、 優香の身体が椎と密着する。
弥生との行為が咄嗟に脳裏によぎり、反射的に筋肉が強張った。優香はそれを抑え込むように、強く身体を絡めてくる。
後ろのソファへ崩れ込むと、そこでようやく優香は唇を離した。
「雰囲気も何もなくて、ごめんね」
暗闇の中、上から覆いかぶさった優香は赤く上気した顔で、どこか媚びるような表情で謝る。
室内には、どこかで聞いたような音楽が鳴り響き続いている。
心臓が怖いほど脈打っていた。
鼻腔を甘い香りがくすぐり、判断能力を奪っていく。
「もう、キスはしちゃった。次の三回目は、エッチ。じゃあ、今日はどこまでする?」
優香の手がそっと椎の胸元に触れ、すうっと撫でる。
椎はその手を握り、止めた。
そして、優香の瞳を正面からじっと見つめる。
「優香ちゃん。無理に他人とペース合わせる必要ないよ。僕たちは、僕たちなんだから」
その言葉で、優香は慌てたように飛び退いた。
「ご、ごめんなさい! 私、そういうつもりじゃなくって、ただ、あの、ごめんなさい……椎くんがどれくらいのスピードで距離を縮めたいのかわからなくって、だから、一般的な――」
「うん。わかってるよ。気を遣わせて、ごめんね」
椎はそう言って、ソファから起き上がった。部屋にかかった曲が間奏に入るところだった。
「優香ちゃんは」
椎は少し乱れた服をなおしながら、おどおどとした様子の優香に目を向けた。
「そういうのに、興味があったの?」
「あの、別に誰でも良かったとかじゃなくて、違う、そうじゃなくて、椎くん相手でも、別に、あの、そういう事だけが特別したい訳じゃないけど――」
「うん。大丈夫。わかってるよ」
次第に声が小さくなっていく優香を誘導するように、椎は言葉を選んだ。
「優香ちゃんが、特別そういう事がしたい訳じゃないなら、急がなくていいと思う。困ったり、迷ったりしたら、まず話して欲しいな。言いづらいことでも、ちゃんと話し合えるような関係が一番だと、僕は思うから」
「……うん。そう、だね。私、何となく恋人って関係に縛られてて、他の人達はどうなのかなって気になって……うん、でも、これは私達二人の事だもんね。周りは、関係ないよね」
「少なくとも、僕はそう思うよ」
優香はそこで考える素振りを見せた後、恐る恐る口を開いた。
「……じゃあ、キスして欲しいかな」
「キス?」
唐突な言葉に、思わず聞き返す。
「うん。キス。あの、まだ、エッチは早いかなって思うんだけど、でも、キスはいっぱいしたい。椎くんは……その、そういうのあまり好きじゃない? つまり、迷惑じゃないかな?」
椎は何度か瞬いた後、微笑み、そっと優香の頬に手を添えて顔を寄せた。
室内に響く間奏は激しい三重奏へ繋がり、まだ終わる様子を見せない。
◇◆◇
「幸せ過ぎて、怖いな、って時々思います」
帰り道。
カラオケの後は昼食を食べ、最後に映画を見てそのまま解散の流れとなった。
椎は優香と並び、集合場所に指定していた駅に向かっていた。
「告白して良かったなって。何もかも、上手くいきすぎて凄く怖いの。何かの拍子でこの幸せが突然なくなるんじゃないかって」
だから、と隣を歩く優香は椎の手を強く握った。
「この幸せが続くように、私、頑張るから。駄目なところがあったら、言ってね」
「……うん」
椎は、短く頷いた。
駅が近づいていた。
すなわち、デートの終わりだった。
「じゃあ、私、あっちだから」
ロータリーの前で、優香が立ち止まる。椎も立ち止まって、うん、と微笑んだ。
「じゃあ、また月曜日に」
「うん。またメールするから」
最後の言葉を交わし、それぞれの帰路につく。
椎は駅の方へ進み、改札へ繋がる階段をのぼった。
風が吹く。
夕方の、涼しい風だった。
「椎」
風に混ざり、そんな声が聞こえた。
足を止める。
階段の向こう、改札口の前に神無月弥生が立っていた。
「椎、待ってたよ」
弥生はそう言って、能面のように表情のない顔で近づいてくる。
「ずっと待ってた」
頭上の蛍光灯が、瞬いた。
明滅する光の中、弥生の手が椎に伸びた。
「今から私に付き合って。嫌とは、言わないよね?」
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