第17話
「亜樹ってさ、ちょっとうざくない?」
二年生に上がったばかりの、五月の出来事だった。
昼休憩中に、そんな声が聞こえた。
声のした方をそっと振り返ると、目立つ女子グループが集まって嫌な笑い方をしているところだった。
その中に、話題に上がっている倉井亜樹の姿は見られない。
陰口なのだとすぐに分かった。
「うちらが話してる時でもずっと携帯いじってるしね。成績いいし他を見下してるんじゃない?」
「あー、前々からそんな感じだよね」
陰口で盛り上がっている女子は五人。
粘りつくような悪意が、椎の耳に流れ込んでくる。
「今度さ、亜樹が話してる時に皆で携帯いじって無視しようよ」
嫌な笑い声があがった。
そこに、どこかのんびりとした声が重なった。
「亜樹が成績良いのは亜樹が頑張ってるからだし、携帯依存症なのは前からだし、亜樹にはそんなつもりないんじゃないかな」
水無月優香だった。
彼女はにこにこと、隙のない笑顔で言う。
「示し合わせたように、そんな事するのって良くないよ。それっていじめみたいじゃない?」
一瞬の沈黙。
誰かが誤魔化すように笑う。
「うっわー、優香って本当に天使すぎでしょ」
「本当に可愛いー」
冗談っぽく抱きついてくる他の女子に対し、優香は表情を崩さずにこにこと笑い続けている。
その笑顔から視線が離せなかった。
教室の扉が開かれ、亜樹と玲奈が姿を現す。
「おかえりー」
女子グループは、何事もなかったように次々と亜樹に声をかけた。
同時に優香が輪から外れるように亜樹に方へ歩き出す。
「亜樹。自販機行こうよ。喉かわいちゃった」
「良いけど」
亜樹が無愛想に返事して、二人して教室から出ていく。
椎はその後ろ姿を、廊下に消えて見えなくなるまでずっと見ていた。
まだ肌寒い五月のゴールデンウィーク前の出来事だった。
◇◆◇
「今日は火星が綺麗だね」
部活の帰り道。
住宅街で足を止めて、優香は空を見上げていた。
手を繋いでいた椎も足を止めて、並ぶように夜空を仰いだ。
「えっと、火星ってどれ?」
「一番赤く光ってる星だよ。今年は地球に接近する年なんだって」
夜空には数えるほどしか星がない。それらしいものはすぐに見つかった。
「火星って地球と離れたり、近づいたりを繰り返すんだって」
優香の視線が、椎に向かう。
椎もそれに答えるように、彼女の視線を正面から受け止めた。
「私はね」
闇夜に溶ける優香の瞳は、何かを期待するように濡れている。
「椎くんとずっと近づいていたいよ」
繋いだ手が離れ、優香の手が頬に触れた。
距離が近づく。
椎は思わず一歩下がった。
「ま、待って、いま、汗かいてるから……」
今更のように部活後の汗をかいた身体が気になった。
そんな椎を見て、優香がクスッと笑う。
「大丈夫だよ」
今度は優香の手が頬ではなく、首に回された。
少しだけ彼女の踵が浮くのがわかった。
そして、柔らかいものが唇に触れる。
一瞬だった。
気づけば、数センチ先にはにかむ優香の顔があった。
「私、椎くんの匂い好きだよ」
そう言って、もう一度距離がゼロになった。
今度は、肩に顔を埋めるように。
「なんだか、安心する」
すんすんと鼻を鳴らす優香に椎は思わず苦笑して、そのまま彼女の肩を抱き寄せた。
「なんだかそれ、犬みたいだよ」
「そうだね。私は椎くんの犬だよ。ずっと着いていくの」
遠くでクラクションの音がした。
目を閉じると、優香の体温を感じられた。
「ね、私邪魔じゃないかな。ずっと部活に張り付くみたいに見学してるけど」
肩に顔を埋めたまま、優香が静かに言った。
「ううん。大丈夫だよ」
「ほんと? 学校も一緒だし、部活も一緒だし、帰りも一緒だし。うざくないかな?」
「ううん。ずっと一緒にいられて嬉しいよ」
腕の中で身動ぎする感覚があった。
「そっか」
優香が顔をあげて、嬉しそうに笑う。
椎も笑い返した。
「ね、もう一度」
そう言って、彼女の唇が再度触れた。
今度は一瞬ではなく、長い口付けだった。
どこかで、子供の騒ぐ声がした。
慌てて口を離し、周囲を見渡す。
住宅街に人影は見られない。
互いに顔を見合わせ、小さく笑い合う。
優香の頬が仄かに赤く染まっているのが暗闇の中でもわかった。
「じゃあ、また明日。朝、家まで向かいに行くから」
名残惜しそうに、優香が別れの言葉を口にする。
「うん。またね。お疲れ様」
それから、週末の事を思い出す。
「それと、土曜楽しみにしてるね」
「……うん。私も」
屈託のない笑顔が、街灯の下でも眩しかった。
◇◆◇
コートにボールを打ち合う音が響く。
五月のゴールデンウィークが明けた後だった。
傑と打ち合う中、新入生の見学者が三名、コート外にいた。
少し遅めの見学者にいいところを見せようと出来るだけラリーを繰り返す。
「もらい」
浮いてしまったボールを、傑が力強く叩く。
角度がついたそれは、椎の数歩先を勢いよく抜けていった。
荒い息を吐きながら、見学者に目を向ける。
あまり興味はなさそうだった。入部する見込みは少ないだろう。
椎はラケットを手の中でくるくる回転させながら、傑がサービスラインに立つのを待った。
その時、校舎に沿うようにテニスコート横の道を水無月優香と倉井亜樹、島田玲奈の三人が歩いてくるのが見えた。
「お、如月じゃん。頑張れよー」
こっちに気づいた玲奈が大声を出す。
その横でつまらなさそうに携帯をいじる亜樹と、静かに微笑む優香。
答えるようにラケットを頭上で振った時、優香と目が合った気がした。
「椎」
傑の声。
振り返ると、既にサーブの準備が整っていた。
構えると同時に、傑がボールを頭上に放り投げ力強くサーブする。深く入り込んできたボール目指して地面を蹴り、いつものようにラケットを振り抜く。
手応えがなかった。
後ろで跳ねるボールの音で空振りしたのだと気づき、羞恥心で顔が赤くなるのが分かった。
「下手くそぉ!」
玲奈のからかうような声。
「玲奈、ダメだよ」
嗜めるような優香の声。
「ごめんね。如月くん。邪魔しちゃって」
「……ううん。見学は自由だから」
優香は微笑んで、そのままコート外からこちらを見ている。立ち去る様子はない。
ラケットを持つ手に汗が滲んでいた。
「椎」
傑の声。
サーブの準備が整った彼に向き直り、腰を落として構える。
「行くぞ」
さっきと同じように頭上に放り投げられたボールが、綺麗なフォームで叩き込まれる。やや手前に落ちたそれを拾おうと地面を蹴った。
「がんばれー!」
優の声援。
それだけで全身の筋肉が硬くなるのがわかった。
手前のボールを拾い上げ、ネットの向こうに返す。すぐに傑が動き、いつも通り走らされるようにボールが反対側に打ち込まれる。
コート上を駆けながら、視界の隅に優香の目があった。
優香、亜樹、玲奈の三人が並ぶ中、優香の視線だけがはっきりと意識の中に上った。
心臓の鼓動がいつもより早い。
汗で乱れた髪が気になった。
無様な姿を見せたくない、と思った。
前方から放物線を描いてボールが迫る。いつもなら無難に拾おうとするだけのコース。それを無理やり前に出て、相手コートに力の限り叩き込む。
「お、意外とやるじゃん」
傑の横を抜けていったボールに、玲奈が歓声をあげた。
荒い息を吐きながら、ちらりとコート外を見る。
微笑む優香と目が合った。
とくん、と心臓が跳ねた。
熱を持ったように全身が熱い。
少しだけ、乱れた前髪を整える。
唾を飲み込んだ音が、妙に大きく聞こえた。
「椎」
傑の声。
椎は小さく頷いて、腰を落として構えた。
視界の隅には、優香の視線。
もう、新入生の見学者の事なんて頭になかった。
まだ肌寒い、五月の出来事だった。
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