第16話
「ね、今日も見学行っていい?」
次の日。
終礼が終わると同時に、優香が声をかけてきた。
椎は鞄に教科書を詰め込みながら、目を瞬いた。
「いいけど、毎日見てても暇じゃないかな?」
「ううん。そうしたいの。一緒に帰りたいしね」
優香の手が、椎の手をそっと掴む。
周囲の女子から、小さくどよめきが上がった。
「行こ?」
優香は周囲の反応を気にした風もなく、にっこりと首を傾げて、ほら、と廊下に向かって歩き出す。
教室の中央にいた数人の女子グループの中から囃し立てるような声が届いた。
「うわ、やっぱりバカップルになった」
呆れたような玲奈の声も、喧騒に混じって聞こえた。
優香は一度教室を振り返って、だって大好きなんだもん、と悪戯っぽく笑った。教室から女子たちの悲鳴のような声が轟く。
そのまま廊下に出て、帰路につく生徒の間を縫って歩く。
「まだまだ外は暑そうだねー」
廊下の窓の向こうには、雲ひとつない青空が広がっていた。
階段を降りて一階に辿り着き、靴を履き替える。その間も優香はぴったりと引っ付くように傍にいた。
いつもより随分と距離の近い優香に、思わず首を傾げる。
「……何かあったの?」
「ううん。ただずっと一緒にいたいなって思っただけ」
それより、と優香が言う。
「部室、一緒に入ってもいい? 一度だけ見てみたいなあ」
「部室? うーん、どうせ傑しか来ないからいいけど……」
途端、優香が嬉しそうに手を引く。
「よし。じゃあ決定! 早速見に行こ!」
何が楽しいのか、優香はころころ表情を変える。
椎は釣られるように微笑んで、彼女と一緒にクラブハウスへ向かった。
「そういえば」
校庭の端を歩きながら、優香が思い出したように口を開く。
「土曜日、晴れるみたいだよ。降水確率ゼロだって」
ふと、空を見上げる。
暖かい日差しが眩しい。
「そっか。どこか行きたいところある?」
「んー。椎くんとなら、どこでも良いよ」
なんちゃって、と彼女は照れを誤魔化すように冗談っぽく言う。
「先にご飯食べるところだけ決めておいて、後は適当にぶらぶらしない? 服屋さんとか一緒に周りたいな」
「うん。そうだね。その時に決めようか」
クラブハウスが見えてくる。
手前の部室から騒がしい声がした。着替えている最中らしい。
そこを通り過ぎて、一番奥の扉をノックしてから開く。
「おはよう」
部室の中には、青いベンチに座ってこちらを見つめる神無月弥生の姿があった。
彼女は椎を見た途端、口端を吊り上げた。
そして何かを言おうと彼女の唇が動いた時、その表情が凍りついた。
「あれ? 神無月さん?」
椎の隣から、優香が部室内を覗き込むように顔を出す。
「へえ、中はこうなってるんだ。薄暗いし、ちょっとした倉庫みたいな感じだね」
優香が興味深そうにゆっくりと部室に足を踏み入れ、きょろきょろと首を回す。
「水無月……」
ベンチに座ったままの弥生が、昏い瞳で優香を姿を追う。
優香は視線に気づいて振り返ると、小さく首を傾げた。
「あ、ごめんね。休んでるところだったかな?」
弥生は何も言わないまま、固い表情で弥生をじっと見つめるだけだった。
「椎くん、これから着替えるんだって。出ないとセクハラになっちゃうよ」
冗談っぽく言う優香に、弥生が無言で席を立つ。
それから、僅かな沈黙が落ちた。
弥生は部室を出ていこうとはせず、じっと優香を睨みつける。
「ここはテニス部の部室だから。部外者が入っていい場所じゃない」
「あ、うん、ごめんね。見学してみたくって。すぐ出るから」
優香はそう言って、言葉通り外に出た。それからドアノブを持って扉を開けたまま、にこにこと動きを止める。
「神無月さんも早く外に出ようよ」
弥生はすぐには動かなかった。
場の不穏な空気に、椎の視線が不自然に泳ぐ。
喉がカラカラだった。
外では、扉を開けたままの優香がじっと弥生を見ている。
椎は二人を交互に見た後、意を決して口を開いた。
「……弥生、ボクはこれから着替えるから、少しだけ外に出ていてくれないかな」
弥生の目が、ゆっくりと椎を見る。
薄暗い部室の中、僅かに開いた瞳孔がくっきりと見えた。
「……わかった」
短く言葉を残して、優香が開けたままのドアから部室の外に出ていく。
弥生の後ろ姿が、いつもより小さく見えた。
◇◆◇
コートに、ボールを打つ音が響く。
校舎の影に座り込んで、弥生はじっと練習風景を眺めていた。
テニス部のマネージャーの仕事は、決して多くない。
お茶を作って、部室を整理して、たまに球拾いを手伝う。それが主な仕事だった。
データの集計や計算をするような規模ではないし、外部のコートを予約することもない。
殆どは待機時間で、弥生は二人が練習する光景をじっと眺めながら二年を過ごしてきた。
特に、如月椎の動きはずっと見てきた。
テニスにおける椎の動きは単調で読みやすい。
反射的に対角へ返す癖があるし、膂力に自信がないからか、バックに来たボールを必要以上に浮かせてしまう事が多い。
如月椎に、テニスの才能はなかった。
それは恐らく弥生だけでなく、本人も含めて全員が分かっている事だった。
それでも椎は、傑の練習に付き合うためにずっとテニスを続けている。
弥生はそれを好ましく思う。
愚直で単調なプレイスタイルも含めて、如月椎は素直でどうしようもない善人だった。
弥生はそれを、一人でずっと見てきた。
ずっと。
「流石に夕方になると涼しくなってくるね」
横から、柔らかい声が聞こえる。
水無月優香だ。
弥生はテニスコートに目を向けたまま、相槌すら打たずにそれを無視した。
「神無月さんは、私のこと嫌ってるのかな」
独り言のようなか細い声が、涼しい風に乗って届く。
「椎くんにはまだ言ってないけど、私、母子家庭なんだ」
弥生はようやく、隣に座る優香に目を向けた。
優香は制服のスカートの端を指で弄りながら、淡々と言葉を続ける。
「小学生の時に親が離婚しちゃったの。原因は色々あって。母親のギャンブル好きとか酒好きとか、父親の残業とか親戚付き合いとか」
小さな溜息。
「お母さんは今でもお父さんの事を悪く言うけれど、私から見ればどっちもどっちだったかな。小さな事が積み重なって、どうにもならなくなって、離れていっちゃって」
弥生は何も言わなかった。
夕陽がコンクリートで照り返し、世界がオレンジ色に染まっていく。
「昔はね、仲が良かったんだよ。家族三人で遊園地に出かけたり、温泉に行ったり。でも、ダメになっちゃった。ちょっとずつ壊れていったの。大きなきっかけなんてなかった。気づけばバラバラになってたの」
だから、と優香の視線が弥生を射貫いた。いつもの穏やかな眦だったが、その奥には冷たい色が宿っている。
「私は隙を作りたくないの。心が離れないように、バラバラにならないように、ずっと好きになって、ずっと好きになってもらって。ずっとそうありたい」
弥生は彼女の視線を正面から受け止め、いつもの気怠そうな笑みを浮かべた。
「だから?」
飛び出したのは、挑発的な言葉だった。
優香の瞳が、一度だけ怯んだように揺れ動く。
「私はずっと椎くんの傍にいて、隙を見せないから。ずっと私が一緒にいるから。だから、怨まないでね」
弥生は薄い笑みを浮かべたまま何も言わず視線を外した。
コートから練習を終えた椎と傑が出てくるところだった。
「今日もお疲れさま」
優香が立ち上がって労いの言葉をかける。
弥生はそれを横目で見ながら、準備していた容器からお茶を紙コップに注ぎ、椎と傑に手渡した。
「ありがと」
椎が微笑む。
無防備な笑みだ。
だから、繰り返してしまう。
「後の整地、俺がやっておくから。先に水無月と帰ってろ」
そう言い残して、傑が再びコートに向かう。
「あ、ごめんね。ありがとう」
椎が飲み終えた紙コップをゴミ箱に放り投げて、立ち上がる。
「着替えてくるね」
当然のように優香も立ち上がって椎に寄り添うように並んで部室へ歩き出す。
残された弥生は、肺腑の奥から深く息を吐いた。
身体の芯で、何かが軋みをあげた。
燃えるような怒りと、凍えるような冷たさが胸の内に同居していた。
離れていく椎の背中を見ながら、思う。
まだだ。
まだやれる。
水無月優香は、未だに気づいていない。
あくまで正攻法に拘る彼女の裏を突くのは難しい事ではないはずだった。
お茶の入った容器を手にして立ち上がる。
重い。
弥生は手元の容器に視線を落とし、それから上部の蓋を開けた。
なみなみと残ったお茶が、中で揺れている。
弥生は躊躇なく容器を蹴飛ばして、横倒しにした。
音を立てて容器が転がり、中からお茶が溢れ出してくる。
汚れていくコンクリートをじっと眺めた後、弥生は軽くなった容器を持ち上げた。
滴り落ちた水が、ぽつぽつと涙のように落ちていった。
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