第19話
いつもと違う駅で、椎は電車を降りた。
椎の横には無表情な神無月弥生が並び、その手を強く握っている。
「こっち。西口から出た方が、近い」
弥生がそう言って、先導する。椎は黙ってそれに続いた。
夕暮れの駅は、会社帰りの人たちで溢れている。
人混みの中を抜けていく弥生が、いつもよりも小さく見えた。
階段を下りて、駅を出る。
少し、肌寒かった。
「椎は」
不意に弥生が口を開いた。
やや前を歩く彼女の表情は、椎からは見えない。
「水無月優香が、好きなの」
「……好きだよ」
はっきりと答えた。
弥生は前を向いたまま、どこか他人事のように、そう、と呟く。
「水無月優香の、どこが好きなの? 顔? 身体? 性格?」
「……どこが好きなのか、自分でもわからないよ。明確なきっかけも特になかった。人を好きになるって、そういうことだと思う」
以前、似たようなことを優香と話したことを思い出し、最後に彼女の言っていた言葉を付け足す。
優香の言う通りだと思った。
気づけば好きになっていて、それ故に悩むのではないか。そう結論づける。
「ふうん」
弥生は興味なさそうに言って、それっきり黙り込んだ。
椎も、それ以上口を開こうとはしなかった。
景色は、住宅街へと徐々に姿を変えていく。
歩きながら、過去の記憶を辿った。
過去に、無断欠席した弥生を心配して家を訪れた事があった。確か、もう少し歩くと辿りつくはずだった。
「もうすぐだから」
椎の思考に答えるように、弥生がポツリと言う。
同時に、手を握る力が強くなった。
ある二階建て建築物の前で、弥生は足を止めた。
比較的大きい家で、小さな庭がある。表札には、神無月の文字があった。
門扉を開けて、弥生が先に進む。椎はやや躊躇した後、ゆっくりと彼女に続いた。
まず視界に入ってきたのは、荒れた庭だった。ろくに手入れもされておらず、伸び切った雑草が枯れている。
寂しい庭だと思った。
庭を横目で眺めている間に、弥生が鍵を取り出して鍵穴に差し込む。
「入って」
弥生がドアを開け、先に入るように促す。
玄関ドアの向こうには、暗い廊下が広がっていた。人の気配はない。
椎は弥生の表情をチラリと確認した後、ゆっくりと中に入った。
ドアが軋みながら閉まる。同時に明かりがついた。
「あがって」
弥生が催促する。
椎は黙って靴を脱ぎ、廊下を進んだ。弥生が後ろから椎の腕を強く握る。
「こっち」
そう言って、彼女は入れ替わるように先に廊下を進む。
廊下を歩いている間、明かりがついている部屋は見当たらなかった。
家が広い為に薄暗さが強調され、無機質な印象を受ける。
階段をのぼり、二階にあがる。
そこに、彼女の寝室があった。物が少なく、整然とした印象を受ける部屋だった。
「……家に、誰もいないの? おばあちゃんは?」
椎の問いかけに、弥生はゆっくりと振り返った。
いつも通りの、無表情な顔。
表情がないというよりは、表情を殺しているように見えた。見た事のない弥生の顔だった。
その瞳に、感情は見られない。
ただ昏い瞳が、そこにあった。
「死んだよ」
呟くように、弥生はそう言った。
「脳梗塞だった」
「……え」
思わず、意味のない言葉が口から零れた。
弥生は表情のない顔で、言葉を続ける。
「だから、この家には私一人しかいない。財産管理だけ後見人に任せてるけど」
椎は言葉を失って、ただ弥生を見つめることしかできなかった。
荒れた庭。
広い家。
暗い廊下。
椎は整然とした部屋をゆっくりと見渡した。その中で、ポツリと佇む弥生が酷く寂しそうに見えた。
「ねえ、椎はさっき、人を好きになるきっかけなんてないって言ったよね」
弥生が一歩前に踏み出す。
椎は動けなかった。
「私は、あるよ。椎を好きになったきっかけ。椎は、もう覚えていないのかもしれない。でも、私は、ずっと覚えてる。だから、私は――」
弥生はそう言って、椎の胸に飛び込んだ。弥生の腕が椎の背中に回される。
「――こんな奪われるだけの世界で、まだ生きてるんだよ」
唇が、触れる。
椎は本当の意味で初めて抵抗できなかった。
抵抗しなかった。
その腕を振り払う事なく、顔を逸らすこともなく。
華奢な弥生の身体を、抱きしめてしまった。
◇◆◇
神無月弥生が物心ついた時には既に両親は他界していた。
母親は肺癌で、父親は胃癌。
闘病の末に亡くなったと後に聞いた。
まだ幼かった弥生は、祖母の手によって育てられる事になった。祖母は人格的にも優れていたし、経済的な余裕もあった。比較的恵まれた環境だったと言える。
ただ、物心ついた時から自分の居場所がどこにもないような、漠然とした孤独感があった。
祖母に迷惑をかけては駄目だ、という出所不明の抑圧感があった。
そうした捉えどころのない気持ちが、弥生を内向的な少女へと成長させた。
自己主張は悪で、沈黙は美徳。
何故そうなったのか、弥生自身にもよくわからなかった。
わからないが、弥生はそう育った。
そして無口な少女時代を送る事になった。
祖母は厳しくもあり、優しくもあった。
過失は諭し、故意的な悪事には厳しく当たり、褒めるべきところは褒めてくれた。怒ることと、叱ることの区別がついている人だった。
弥生は、祖母が好きだった。尊敬していた。
だからこそ、祖母は、親の代わりにはならなかった。
祖母は無条件で弥生を受け入れてくれる存在では、なかった。
弥生の中の孤独感は、癒える事がなかった。
入学式。授業参観日。運動会。
行事がある度に、自分には親がいないということがはっきりと感じ取れた。
ただ、そうした理不尽に対する反発心を祖母に向ける事はできなかった。弥生は祖母が好きで、祖母を悲しませたくなかった。弥生の孤独感は外部へ出力されることなく、ひたすら内部へ蓄積していくことになった。
そうした鬱積は弥生の内向的な性格を、他人に無関心な性格へと徐々に変容させていくことになった。
他人はどこまでいっても他人で、孤独感を癒す事はできず、心を開く事ができなかった。
そうした心情は自然と周囲にも伝わり、弥生の周りからは人が消えていった。弥生の孤独感はますます加速し、他者への関心も薄れていった。
両親の闘病について祖母から詳しい話を聞かされたのが、この頃だった。
癌。
その概念が、まだ弥生にはよくわからなかった。
ただ、死亡率が高い病気という漠然とした知識しかなかった。
そのメカニズムについても、祖母は説明してくれた。
人体を構成する数十兆の細胞の中の一部の異常変異。
正常なコントロール下を離れ、自律的な増殖を行い、その増殖の為に多大なエネルギーを奪い始め、その生体は急激に弱っていく。
やがて増殖した異常細胞は正常な臓器を侵食し、機能不全を引き起こしてその生体構造を破壊していく。
その話を聞いた時、弥生は奇妙な納得を覚えた。
父と母は、裏切られたのだ。
自己に、自己を構成する細胞に裏切られたのだ。
エネルギーを奪われ、その人体を侵食され、遂には殺された。
自分自身の身体すら裏切るというのに、他人など一体どうして信用できるのだろう。
物心ついた時から胸の内にあった孤独感が、両親を死に追いやった癌によって肯定された気がした。
理屈は、どうでもよかった。
ただ、ストン、と何かが落ちた。
それから、弥生はますます他人との接触を嫌うようになった。
感情の起伏は薄れ、他者への無関心は世界への無関心へと移ろっていく。
ただ、それでも、弥生は祖母が好きなままだった。
尊敬していたし、感謝もしていた。
だから、神無月弥生は生きていた。
空虚な世界を祖母の為に、怠惰に生きた。
高校へ入学すると、祖母を心配させない為にテニス部のマネージャーとなった。
人数が少なく、やるべきことが殆どないのがテニス部を選んだ理由だった。
そして、神無月弥生は如月椎と出会った。
椎に対する第一印象を、弥生は覚えていない。つまり、どうでもいい存在だった。
何ヶ月か同じテニス部で過ごすうちに、とても人懐っこい人だと感じるようになった。同じテニス部の傑と非常に仲がよく、クラスの中でも誰とでも気軽に話していた。自分とは反対の人種だ、と思った。
弥生の評価通り、椎は人懐っこい性格で弥生が最低限の受け答えしかしなくても気にせず話しかけてきた。悪い人ではないのだろう、と思って特別邪険に扱うことはなかった。次第に椎は弥生の学校生活の中で、最も会話の多い人物となった。
そのまま、緩やかに時が過ぎた。
転機が訪れたのは、一年生の夏休み明けだった。
九月。
残暑が残る中、弥生は風邪で寝込む事となった。
中々熱が引かず、家で安静にする日々が続いた。
その三日目。チャイムが鳴った。
祖母が応対に出て、弥生は二階の自室で横になったままだった。
祖母は応対に出たまま、中々戻らなかった。
気になった弥生は、重い身体を起こして一階へと下りた。
そこで、応接間から響く声に気付き、足を止めた。
客人のようだった。
「あの子は、学校でうまくやっていますか?」
祖母の声が届き、心臓がとくんと跳ねた。
「あの子は、昔から感情表現があまり得意ではありません。友達と遊ぶ姿も、殆ど見たことがありませんでした。あの子は、ちゃんとクラスに馴染めていますか?」
ばれている。
心配させてしまっている。
その事実に心が揺れた。
「……正直に言うと、馴染めているとは言えないです。愛想が良くないから、怖いっていう人もいます」
如月椎の声がした。
彼の言葉に、嘘はなかった。
弥生はクラスに馴染めていなかった。ただ、そのことを祖母に知られたくなかった。心配をかけたくなかった。
でも、と椎の声が続く。
「大丈夫だと思います。感情表現が豊富って、良い事だけじゃないです。ネガティブな感情をすぐに表に出す人だっています。でも、弥生は、あの、弥生さんは絶対に人に悪意ある感情を見せないです。テニス部の仕事だって、嫌な顔一つせずやってます。少し一緒に過ごしたら、感情だって見えてきます。だから、大丈夫です。時間があれば、必ず馴染めると思います」
穏やかな声だった。
弥生は息をするのも忘れて、椎の言葉に聞き入った。
救われた気がした。
幼い頃に憧れた両親の温もり。ずっと感じてきた孤独性。
それが、満たされた気がした。
ダメな部分をも受け入れて、肯定してくれた。
そのことが、嬉しかった。
そして、椎は最後にこう締めくくった。
「少なくとも、僕は弥生さんのこと、好きです」
ひどく大人びた声だった。
周囲の同年代の男子とは違う気がした。
「あの子は、良い友人を持ったようです」
祖母の声。
「あの子は、あまり人を頼りません。甘え方を、知らないんです。この年齢まで、ついに教えることが叶いませんでした。どうか、あの子をよろしくお願いします」
最後に託すような言葉を残し、その三ヶ月に祖母は脳梗塞で倒れた。
意識が戻ることはなく、そのまま帰らぬ人となった。
享年七十四歳。
唯一心を許していた祖母の死によって、弥生は大きな家と莫大な資産を手に、一人で生きていく事になった。
「本当に一人になっちゃった」
墓前の前で、弥生は一人呟く。
「でも、おばあちゃん。私、大丈夫だよ。私、ちゃんと、生きていくから」
一人、語り続ける。
「好きな人が、できたから。その人は、こんな私でも肯定してくれて。だから、大事なものを神様に奪われ続けるだけの世界でも、ちゃんと、生きていくから。最後まで心配かけさせてごめんね。でも私はもう大丈夫。私一人でも、歩いていける。だから、安らかに眠ってください」
祖母との誓いを果たすように、弥生は少しずつ変わっていった。
性格はもうどうにもならなかったが、他人を拒絶することを止めた。
二年生になってからは特定の女子グループと関わり合いを持つようになり、食事もそのグループと食べるようになった。
徐々にではあったが、弥生は確実に変化していった。
ただ、如月椎との関係は何も進展しなかった。
椎は基本的に誰とでも話すタイプで、自分がその中の一人でしかないことがよくわかっていた為、弥生はそれ以上の関係を望まなかった。ただ、椎のそばにいるだけで幸せだった。
椎が、水無月優香と付き合うまでは。
その日、部活には秋村傑しか来ていなかった。
元々集まりが悪いテニス部では、珍しい事ではない。
誰も来ないと判断した傑はそのまま帰路につき、暇を持て余していた弥生はコートの横で椎を待ち続けていた。
今日はもう来ないだろう、という予想に反し、如月椎は夕暮れのコートに現れた。
どこか、そわそわした様子だった。
胸騒ぎがした。
遅れた理由をたずねると、椎はにこりを笑い、わざとらしく胸を張った。
「えっとね、それが何と! 女子に呼び出されて告白されたのです!」
世界が暗闇に包まれた。
全ての音が遠のき、光が消えていく。
神無月弥生という人格を形成していた何かが崩壊を始めた。
「誰? 誰に告白されたの?」
自分でも驚くほど低い声が、口から零れた。
夕焼けの中、世界が燃え尽きていくような錯覚。
「あ……あの、同じクラスの水無月さん……えっと、弥生?」
「へえ……それで、椎は何て答えたの?」
「あの、ボクも前から好きでしたって……」
燃えていた世界は、黒ずんでいく。
夕陽は落ち、暗闇が世界を覆う。
頭の中がぐちゃぐちゃになった。
これ以上、奪われたくないと思った。
だから、弥生は、選んだのだ。
「……部室、行こっか」
致命的な一言だった。
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