第13話
「疲れてるみたいだが、睡眠不足か?」
月曜日の朝。
昇降口で偶然出会った傑が、椎の顔を見るなり心配そうな様子を見せた。
「ううん。ちゃんと眠れたよ。今日は体調も大丈夫」
答えながら、機械的な動作で靴を履き替える。
その傍を、数人の生徒が通り過ぎた。
大きな笑い声が耳に響く。
そうした喧騒が、妙に遠く聞こえた。
「……無理に部活来なくていいぞ」
「大丈夫だよ」
大丈夫、と繰り返して椎は歩き出した。傑は何か言いたそうな顔をした後、結局何も言わず、肩に担いたラケットケースを目で示した。
「教室に行く前に部室にラケット置いてくる」
「うん。じゃあ、また教室でね」
部室に向かう傑を見送ってから、椎は騒がしい昇降口から教室に続く廊下へ向かった。
「おはよう」
喧騒の中、女の子の声が耳にはっきりと届いた。
足を止め、声のした方に首を向ける。予想通り、神無月弥生が気怠い微笑を浮かべて立っていた。
「今来たところ?」
ゆっくりと弥生が近づいてくる。
距離がゼロになると同時に、弥生の手が制服越しに椎の太股を撫でた。
「今日も、部活頑張らないとね」
そう言いながら、弥生は自分の身体で椎を人混みから隠すように立ち、さわさわと太股の上へゆっくりと手を這わせる。椎は身を硬くして、辺りを見渡した。幸い、弥生の行為に気付いている生徒はいないようだった。
弥生の手が、椎のお尻を撫でまわし始める。椎が弥生の腕を掴んで控えめに抵抗すると、彼女はクスっと小さく笑ってすぐに手を離した。
「教室、行かないと」
椎は震える声でそう言って、弥生から逃げるように歩き出した。弥生がその後を追うように、ゆっくりと歩く。
階段を昇り終えた時、椎の暗い気持と反するような明るい声が背後から投げかけられた。
「うっす、おはよう」
振り返ると、怜奈の顔がすぐ近くにあった。
先程まですぐ後ろにいた弥生は、無表情に椎の横を通り過ぎていく。
「……おはよう」
「なに? 元気ないじゃん。優香とのデート失敗したの?」
怜奈がずい、と顔を近づけてくる。
椎は苦笑して、首を横に振った。
「上手くいったと思うよ。来週も一緒に出かける事になったし」
「お、ちゃんと次に繋げたんだ。よしよし。順調そうで安心だ」
怜奈が自分のことのように嬉しそうに笑う。
椎は前方を歩く弥生をチラりと見た後、後ろめたさを隠すように曖昧な笑みを返した。
教室につき、怜奈と別れて自分の席に向かう。その途中、教室の中心で数人の女子と雑談している優香と目が合った。こっそりと優香が手を振るのが見え、椎は、おはよう、と軽く声だけかけた。
自分の机の上に鞄を置いて、席につく。そして、椎は何となく黒板に目を向けた。今日の掃除当番欄に椎と怜奈の名前が書かれているのが見えた。
◆◇◆
「はあ、疲れた。もう帰ろうかな」
放課後の教室に怜奈の呟きが響く。
「まだ掃除始めてすらいないよ」
椎は苦笑しながら箒を怜奈に差し出した。それから黒板前のゴミ箱に向かい、ゴミ袋の交換を始める。
「それ、結構重いんだよな」
やる気なさそうに床を掃きながら、怜奈が椎に向かって言う。
「ゴミ袋のこと?」
中の空気を抜きながら聞き返す。紙類が大半だった為、あっという間にゴミ袋が圧縮されていくのが少し面白かった。
「そう。それ、重いから面倒な上にしんどくない?」
「……確かに、女子だとしんどいかも」
括り終えた後、椎はそれを両手で持って戸口の横に持っていった。
そして、立てかけていた箒を手に取り、ちりとりに埃を集める。
「……如月ってさ、本当に真面目だよな」
さっきからずっと同じところを掃いている怜奈がやる気なさそうに言う。
「誰だってこれくらいはやってると思うけど……」
椎はそう言って、教室から目立つ汚れがなくなったことを確認した。それから怜奈の箒を受け取って、掃除用具入れにしまう。
「ゴミはボクが出しとくから、島田さんは先に帰ってていいよ」
「いや、流石に悪いから私も行くよ」
ゴミ袋を持って教室を出ようとすると、怜奈が慌てたようについてくる。その様子に椎は小さく笑ってから、教室に残っている女子グループに向かって声をかけた。
「最後の人、施錠お願いします」
「はーい」
女子グループの一人が元気よく返事する。
椎は怜奈に目を向けて、行こっか、と告げてから廊下に出た。
「本当に先帰っていいよ。わざわざ二人で行かなくてもいいし」
「いや、だから流石に丸投げはできないって」
怜奈がそう言って、椎の持っていたゴミ袋を奪う。
「……結構重いな」
「やっぱり、ボクが持つよ」
椎はそう言って、手を差し出した。怜奈が一瞬迷うような素振りを見せるが、渋々といった様子で椎にゴミ袋を預けた。
「なんかさ」
階段を降りた時、怜奈がポツリと言った。
「ずっと小さいと思ってた弟が意外と背が伸びてる事に気付いた時みたいな感じなんだけど」
「なにそれ」
怜奈のよくわからない例えに小さく笑う。
それっきり会話が途絶え、椎は怜奈と並んで上履きのまま裏口から外に出た。
裏口方面には基本的に人がいない。
「なあ」
裏門までもう少しというところで、怜奈が口を開く。
「優香とは、上手くやっていけそうか?」
「うん。今のところは大丈夫だよ」
その答えに、怜奈が笑みを見せる。
「あいつ、周囲の顔色うかがうところが結構あるからな。がんがん距離詰めた方がいいぞ」
「……うん、ありがと。考えとく」
裏門につき、ゴミ置き場にゴミ袋を置く。
「まあ、如月が良い奴そうで安心したよ」
怜奈が笑いながら踵を返す。椎もそれに続いた。
「じゃあ、私こっちからショートカットするから」
そう言って、裏口の方に怜奈が歩き出す。
「うん。ボクは部活があるから。また明日」
椎はそう言って、校庭の方へ足を進めた。
その時、正面の第二クラブハウスの影から優香が姿を現した。偶然顔を合わせたという雰囲気ではなく、掃除が終わるのを待っていた様子だった。
「あ、ごめん。もしかして掃除が終わるの待っててくれてた?」
「うん。今日はあまりお話しできなかったから、最後にちょっとでもって……」
どこか暗い表情で優香が言う。
「ねえ、椎君……」
「うん」
「椎君って、怜奈と仲良かったんだ」
その言葉に、椎は首を傾げた。
「島田さんと? そんなに仲良くないと思うけど」
「だって今朝も一緒に教室入ってきたし、放課後だって……」
「朝はたまたまだよ。放課後は掃除当番だっただけだし」
椎は苦笑して、それから校庭の方へ目を向けた。
「ごめん。部活これ以上遅れる訳にいかないから」
「え、あ、ごめんね」
「またメールするね」
椎はそう言って駆け出した。
これからのことを考えると、優香の顔をまともに見る事ができなかった。
校庭の端を抜けて、テニスコートに向かう。既に傑がコートに入り、一人でサーブ練習をしているのが見えた。
「傑、遅れてごめん!」
声をあげると、椎に気付いた傑が動きを止める。
「ああ。掃除当番だったんだろ。良いから着替えてこい」
「うん! ちょっと待ってて!」
そう言って。コート脇を通ってクラブハウスに向かう。
チラリと周囲を見渡してみるも、弥生の姿は見当たらなかった。
恐らく、部室にいるのだろう。
重い足取りで、クラブハウスに辿りつく。
奥のテニス部の扉を開くと、予想通り弥生の姿があった。
「待ってたよ」
暗がりの中、弥生が気怠そうに微笑を浮かべて言う。
椎は何も言わず、明かりをつけた。そして、鞄を床に下ろす。後ろで扉が嫌な金属音を立てて閉まった。
「ほら、早く着替えないと」
弥生が促す。
椎は何も言わず、ネクタイをほどいて、シャツを脱いだ。
弥生の視線が絡まるように集中するのがわかった。極力それを無視して、テニスウェアに袖を通す。
「……そういうの、楽しい?」
着替えをじっと観察してくる弥生に堪りかねて、問いかける。
弥生は気怠そうにクスクスと笑いながら頷いた。
「私ね、椎の恥ずかしそうな顔とか仕草が凄く好きなの」
椎は視線を外して、ベルトに手をかけた。素早くズボンを脱ぎ、着替える。
そのまま急いで部室を出ようとした時、背後から声がかけられた。
「また、後でね」
椎はそれを無視して外に出た。
うだるような暑さが広がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます