第14話

 薄暗くなったコートに、ボールを打つ音が響く。

 走り回りながら椎は小柄な身体を精一杯使って、ラケットを振り抜いた。

 身体を動かしている間は何も考えなくて良い。

 ネットの向こうでは、傑が荒い息を吐きながらテニスボールに食らいつこうとしていた。

 次の瞬間にはボールはネットに吸い込まれ、コート上に転がった。

 椎は肩で息をしながら、薄暗くなった空を見上げた。

「そろそろ、終わりにするか」

 傑がボールを拾いながら、疲れたように言う。

 椎は手で額の汗を拭って、そうだね、と息をついた。

「整地、今日は俺の番だったな」

 傑が立てかけていたトンボの方へ向かう。

「うん。後、お願いしていい?」

「ああ。お疲れ」

「お疲れ様」

 最後に短い言葉を交わして、コートから外に出た。

 外で座りこんでいた弥生が立ち上がり、お茶の入った紙コップを差し出してくる。

「お疲れ。ちゃんと水分摂っておきなよ」

「……ありがと」

 礼を言って、紙コップを受け取る。

「汗、かいてる。早く着替えないと風邪ひくよ」

「……うん」

 お茶を飲み干し、近くのゴミ箱に紙コップを放り投げる。

 それから椎は部室の方へ歩き出した。弥生も立ち上がり、その後からついてくる。

「ねえ」

 後ろから囁くように弥生が言う。

「今日は、口でしてあげる。いつも私だけ気持ちよくなってるもんね」

 椎は何も言わず、足を速めた。

「そうやって強がるところも、可愛いな」

 クス、と弥生が気怠そうに笑う。

 しかし、次の瞬間、その笑みが消え失せた。

 前方に、一つの影があった。

 椎は足を止め、その影を見つめた。影がゆっくりと近づいてきて、夕闇の中で徐々にはっきりとした形を帯びてくる。

「優香、ちゃん?」

 前から歩いてきたのは、先に帰ったはずの優香だった。

 優香はおずおずと椎の顔色を窺うように見つめてくる。

「あの、今日はあまりお話し出来なくて、椎くんも忙しいみたいだったから、やっぱり残って、一緒に帰ろうかなって……ごめんなさい、私、ちょっとうざいかなって思ったんだけど、もう少しお話ししたくて……」

「声、かけてくれれば良かったのに」

 椎が微笑むと、優香は安心したように笑った。

「うん、でも、椎くん、部活中だから迷惑かなって思って」

 そこで優香は初めて椎の隣にいる弥生に気付いた様子を見せた。

「あ、ごめんなさい。マネージャーさんと何か話とかあった?」

「別に」

 弥生が素っ気なく言う。その顔からは先程までの表情が抜け落ちていた。

 注意深く弥生の顔をうかがう。弥生は椎の視線に気づかないように、優香を睨みつけるように見つめていた。

 優香は弥生の視線を気にするような素振りを見せた後、椎に視線を戻して躊躇するように言った。

「あの、それなら、途中まで一緒に帰れないかな?」

 逡巡が生まれる。

 弥生の表情を確認するのが怖かった。

 僅かな沈黙の後、結局頷く事にする。

「……うん。いいよ」

 途端、優香は花が咲いたような笑顔を見せた。

「じゃあ着替えるの待ってるね」

 それから優香は思い出したように椎のもとへ駆け寄り、小さく唇を突き出した。

 一瞬の、交錯。

 ふわり、と柔らかい感触。

 椎が事態を理解した時には既に優香は一歩後ろへ下がり、恥ずかしそうに笑っていた。

「じゃあ、待ってるから」

 そう言って、彼女は背を向けて駆け出した。

 残された椎は呆気にとられ、その姿を見送る事しかできなかった。

「へえ」

 弥生の低い声が耳に届き、ようやく現実に帰る。

「あの女、ああいうことするんだ」

 振り返ると、弥生は表情のない顔をしていた。

 彼女の粘りつくような視線は、夕闇の中に消えていく優香の後ろ姿へ注がれている。

 椎は警戒するように一歩後ろへ下がった。今の弥生を刺激したくなかった。

「ねえ、あの女、私に見せつけたんだよ。あいつ、椎が他の女といるだけで、不安なんだ」

 底冷えするような、低い声だった。

 弥生が椎に向かって一歩距離を詰める。彼女の影が椎を食らうように動いた。

「馬鹿みたい。もう、椎は私のものなのに」

 弥生の手が、椎の胸元を撫でる。

 椎は全身を強張らせながら、目を閉じた。

 頭の奥で警鐘が鳴っていた。

「なのに今更キス一つで、一体何が変わるんだろうね」

 椎は、何も答えなかった。

 肺腑の奥から息を吐き出し、踵を返す。

 無言で逃げ出すように部室へ足を向けた。その後を、弥生が無言で着いてくる。

 心臓が、嫌な鼓動を打っていた。

 唇を重ねた後、恥ずかしそうに笑う優香。昏い瞳で見つめてくる弥生。

 二人の顔が、頭の中で交互に浮かんでは消えていった。

 クラブハウスに辿りつき、一番奥の部室に入る。

 明かりをつけると、頼りない光が室内を照らした。途端、弥生が乱暴に椎の肩を抱き、唇を押しつけてくる。

 舌が絡まり、弥生の腕に力が込められる。唾液が流し込まれるのを、椎はただ機械的に受け止めた。

「いいよ、椎。行ってきたら良い。それだけであの女が満足するなら。本当、めでたい女」

 唇が離れると、弥生は上気した顔でそう囁いた。

 椎は黙って口元を拭うと、テニスウェアを脱いで制服に着替えた。

 ネクタイを結び、鞄を手に持つ。最後に弥生の顔色をうかがうと、彼女はクスと笑って、小さく手を振った。

「また、明日」

「……うん」

 短く返して、部室を出る。

 一層深くなった夕闇の中、椎は正門の方へ向かった。

 優香は門に背を預けるように待っていて、椎に気付くと笑顔で駆け寄ってきた。

「さっきはいきなりごめんね」

 開口一番に、優香は恥ずかしそうに謝った。

 暗闇の中でも、顔が赤くなってるのがわかった。

「椎くんって神無月さんとよく一緒にいるよね。そういうのじゃないってわかってても、なんだか不安になって、衝動的に……ごめんなさい」

 椎はどういう表情をしていいか、わからなかった。

 世界が暗闇に包まれている事に、安堵する。

「うん。別に、ボクは、気にしてないよ」

「うん。うん。なんか、私、駄目だ。昼は、怜奈にも嫉妬しちゃった。椎くんがね。他の女の人といるとすっごく不安になるの」

 でも、と優香は言葉を続けた。

「でも、キスしたら、全部吹っ飛んじゃった。えへへ。私達、付き合ってるんだもんね。椎くんが他の女の人と何とかなるなんて、ありえないもん」

 世界が、暗闇に包まれていて本当に良かった。

 今、自分は一体どんな顔をしているんだろう。

 椎は表情を隠すように、視線を逸らした。

 優香の顔を直視する事ができなかった。

「……帰ろっか」

 溢れだしそうになる感情を押し殺し、呟く。

「うんっ」

 今にも弾みそうな優香の返事。

 彼女の手が、そっと椎の手に絡まる。

 椎はその手を強く握り返した。

 優香が幸せそうに笑う。

 椎も、笑った。

 上手く笑えたか自信はなかったが、それでも笑みを返した。

 ゆっくりと歩き始めると、優香も歩調を合わせるように歩き出す。

 日が落ち、前には暗闇が広がっていた。

 先の見えない暗闇の中、繋いだ優香の手は燃えるように熱く、栄養を求める蔦のように絡まっている。

「ねえ、椎くん」

 彼女の呼びかけに振り返る。

 ふわっと甘い香りがした。

 すぐ眼前に彼女の整った顔があり、唇に柔らかいものが触れた。

 そっと触れたそれは、暗闇の中、離れる事なくいつまでもじっとしていた。

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