第10話
「今日はありがと。凄く楽しかったよ」
帰り道。
赤く染まった空を見上げながら、優香が穏やかな笑みを浮かべて言う。
隣に並ぶ椎は、それを見て頬を緩め、それから迷ったようにずっと気にかかっていた事を尋ねた。
「ずっと疑問だったんだけど、優香ちゃんは何でボクに告白してきたの?」
「何でって」
駅前の雑踏の中、優香は足を止めた。
「椎君のことが、好きだからだよ」
椎も立ち止まり、正面から優香の瞳を見つめた。
「うん。それはわかるよ。でも、優香ちゃんに好意を寄せられるようなきっかけに心当たりがなくて」
椎の言葉に優香は微かに首を傾げて、それから微笑んだ。
「椎君は、人を好きになるのに理由がないと納得できないの?」
「納得できないというか、不思議というか。なんで僕なんだろうって思って」
椎の言葉に、優香は何かを思い出そうとするように空を見上げた。椎は通行の邪魔にならないよう、歩道の端に寄って優香の返答を待った。
「そうだね。きっかけは、何だったかな。うん。椎くんと一緒の委員会になった友達から良い人だよって話を耳にしたのが一番のきっかけだったかも。あるいは、あまり飾った言動がなくて、いつも素直な振る舞いをしてるところに惹かれた可能性もあるし、今思えば一目褒れだったのかもしれない」
私はね、と優香は優しい眦を椎に向けた。
「人を好きになるきっかけなんて、ないと思うよ。日頃の小さな事が積み重なって、好きとか嫌いって感情が生まれるんだと思う。ドラマみたいに何かトラブルが訪れて、情熱的な愛情が生まれて、なんて大きなきっかけがあるのは安っぽいとすら思う」
優香はそう言って、遠くを見るように視線を逸らした。
その横顔はどこか寂しそうで、今にも消え入りそうな儚さがあった。
「だって、離婚だってそうじゃない? 一度愛し合った人たちが、徐々に冷めていっちゃう。そこに明確なきっかけなんて、ないと思う。小さな事が積み重なって、ゆっくりと心が離れていくんじゃないかな」
優香はそこで言葉を止めて、再び椎に向き直った。優香の瞳が、真っすぐ椎に注がれる。
「だから私は、いつも椎くんの事を好きになるように意識してるよ。心が離れないように、もっと好きになるように。高校を卒業しても、互いに違う大学に進んでも、業種の違う仕事に就いても、ずっと一緒にいられるように」
そこで優香はにこりと笑い、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「なんてね。あー、偉そうに恋愛観なんて語っちゃって、恥ずかしいなあ」
行こっか、と照れを隠すように優香が歩き出す。椎は微笑んで、その後を追った。
夕陽を浴びて、街中に光が灯り始める。
赤く染まった景色の中、椎は彼女の小さい手を遠慮気味に握った。
一拍置いて、優香が強く握り返してくる。
「椎くんは」
前を向いたまま、優香が口を開く。
「私のことを好きになる明確なきっかけなんてあった?」
椎は少し考えて、首を横に振った。
「ないよ。初めは、何となく気になるくらいだった。それで、視線で追うようになって、そうしたら、色々と中身の事も見えてきて。優香ちゃん、人の悪口とか全然言わないよね。例えば誰かの悪口に同意を求められても、困ったように笑うだけで。そういう姿を見て、他人のことをちゃんと見ようと努力する子なんだなって思って。だから僕は――」
優香が振り向き、視線が絡み合う。
「――うん。優香ちゃんを好きになった明確なきっかけは、なかったと思う」
優香は優しく微笑んで、そっか、と嬉しそうに呟いた。
「きっかけなんて、ない方が良いんだよ。そうしたら、いつも、どんな時でも、きっかけなんていらないまま、ずっと好きになっていける」
そして優香は足を止め、可愛らしく小首を傾げた。
「いっぱい、好き合えるように頑張ろうね」
鮮やかな夕陽が世界を照らし、赤くなった優香の頬を覆い隠す。
優香の笑みに見惚れながら、椎はコクリと頷いた。
繋いだ手が、自然と深く絡み合う。
――心が離れないように。
優香の言葉が、妙に心に残った。
◇◆◇
自宅に帰ったのは、八時を回ったところだった。
椎は真っすぐと自室へ向かい、服を着替えた。
それから携帯を開く。優香からメッセージが届いていた。
『今日は、楽しかったよ。ありがとう』
椎はじっと画面上の文字を見つめて、それから微笑んだ。
『僕も楽しかったよ。来週も良かったらどこか遊びに行こうか』
すぐに返信を打ち、送信する。
それから椎はベッドに寝転がり、返信を待った。
遊び疲れたせいで、少し眠たい。
ウトウトとし始めた時、携帯が震えた。椎は緩慢な動作で携帯に手を伸ばし、寝転がったまま携帯の画面を見つめた。
如月弥生。
送信元の名前を見て、思考が止まる。
考えるより先に手が動き、メッセージを開く。
『今日は、楽しかった?』
とくん、と心臓が跳ねた。
椎は画面を見つめたまま固まり、息を止めた。
間を置かず、携帯が震える。優香からのメッセージだった。
『うん。来週もいっぱい遊ぼうね』
更に、携帯が震える。今度は弥生からだった。
『明日、暇だよね。十二時に駅前に来て』
椎は表情を強張らせてを、弥生に対して返信を打ち始めた。
「駅前で何をするの?」
簡素な一文を送る。
すぐに返信が届いた。
『何って、デートだよ』
椎は軽い眩暈を覚え、目を瞑った。
肺腑の底から、深い息を吐き出す。
神無月弥生の考えている事が、読めない。
彼女は一体何がしたいのだろう。
恋人になりたいのだろうか。それとも、都合の良い遊び相手が欲しいのだろうか。
着地点が見えない。読めない。
しかし、従わないわけにはいかない。逆らえば、弥生は何をしでかすか分からない。
椎には選択肢が用意されていなかった。主導権は神無月弥生が握っている。
椎は震える指で『わかった』と返信を打つしかなかった。
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