第11話

 きっかけは、単なる気まぐれだった。

 "天秤"の中でも大きな収入源となっている娼館アインズヘルムの視察に行った時の事だった。

 入り口で用心棒のロイと共に立っていた少年を見て、興味を持った。

 小柄で華奢な身体は、与しやすく思えた。どこか少女めいた顔つきと柔らかい髪質は同年代の男と違い、好ましく思えた。

 アイシャは思わず舌なめずりをした。

 "天秤"のアイシャは男嫌いで有名だったが、子供は例外だった。

「なんだ、ロイ。お前子持ちだったのか?」

「まさか。用心棒は身軽であるべきだ」

 帝国出身の用心棒はそう言って肩を竦めた。

「そうか。では借りるぞ」

 アイシャは笑みを浮かべ、ロイの横で不思議そうにこちらを見上げる少年の頭を撫でた。

「お前、名は?」

「ルイです」

「私は"天秤"のアイシャだ。ここのオーナーの、まあ良き友人みたいなものだ。銀貨二枚やる。ついてこい」

 不思議そうに首を傾げるルイの手を取り、そのままアインズヘルムの扉をくぐる。

 中に入った途端、甘ったるい香炉の匂いがした。受付にいた女主人のエマが驚いたように出てくる。

「アイシャ様。本日はどういった御用で?」

「部屋を借りたい。どこが空いている?」

 エマはアイシャの横にいるルイを見て、にんまりと笑った。

「左様でございますか。二階の左手突き当りの部屋が空いております。どうぞお使いください」

「助かる」

 アイシャは頷くと同時に、ルイの手を引いて歩き出した。

「アイシャ、様? 何をされるのですか?」

 ルイの無垢な問いかけに、アイシャは口元を歪めた。

 アイシャは男が嫌いだった。

 それは特段、珍しい事ではない。

 過去の経験から、同年代の男を受け付けない女というのは暗黒街に多くいた。

 しかし、ルイのような無垢な子供は別だった。彼らは奪う側ではない。奪われる側だ。それがアイシャを安心させた。

 数多の娼婦を斡旋し、色街の裏の顔として"天秤"の幹部に登りつめた彼女は、奪われる側であってはならない。

 二階の突き当りの部屋に入り、ルイを引きずり込むようにしてドアを閉める。

「ルイ。私の指を舐めるんだ。糖粽(あめちまき)を舐めるように優しく、そっとだ」

 ドアにルイを押し付けるようにしながら、身を屈めて囁く。

「あの……?」

「私の言う通りに出来たら銀貨二枚だ」

 告げると、ルイはおずおずとアイシャの手を取って、そっと指先を舐めた。

 僅かに躊躇するように、アイシャの顔色を伺いながら控えめに。

 その姿が、アイシャを興奮させた。

「いい子だ」

 頭を撫でる。

 さらさらとした髪が、指の間に絡まった。

「ルイ」

 自然と声が低くなった。

 ルイが上目遣いにアイシャを見上げる。

「今度は、逆にしよう。私がルイの指を舐める。ルイはその間、私の頭を撫でるんだ。いいね?」

 こくこくと頷くルイに微笑み、床に膝をつく。

 それからルイの手を優しく手にとって、唇を近づけた。子供特有の仄かに甘い香りがした。 

 小さく細い指を口に含める。噛めば簡単に折れてしまうような、儚さを感じるものだった。それがアイシャにとっては好ましかった。

「アイシャ様、失礼します」

 ルイの手が、そっとアイシャの頭を撫でる。

 その心地よさにアイシャは目を閉じた。

 アイシャは男嫌いであったが、同時に男に対して父性を求めていた。

 物心ついた時には既に失っていた父親の庇護を無意識のうちに求めていたのかもしれない。

 矛盾した欲求は、少年に対する父性の要求となって顕在化した。

 金の介在した関係は単純で、割り切りやすい。

 "天秤"のアイシャとして決して表に出せない屈折した願望は、こうして裏で吐き出すごとに膨張していった。

 そしてそれはいつしか、甘えるだけでなく溺れるという表現に近しいものになった。




「ルイはいるか?」

 アイシャは娼館アインズヘルムに何度も足を運び、ルイを買うようになった。

 出迎えたエマが頭を下げる。

「イーラの部屋におります。少々お待ち下さい」

「……イーラ。高級娼婦の一人だったな」

 思わず低い声が出た。

「左様でございます」

「その女は、ルイと出来ているのか」

 エマが怯えたように後ずさり、首を振る。

「イーラはルイが小さい頃から一緒に育ってきた姉のようなものです。店として問題のある行動は決して……」

 姉弟。

 暗黒街では珍しい。

 誰もが自分一人だけの事で精一杯で、そんな絆を大事にしている者は少ない。

「……そうか。ならばいい。ルイを連れてこい」

「かしこまりました」

 逃げるように去るエマの後ろ姿を見送りながら、アイシャはこの後の夢のような時間の事を考えて舌なめずりした。

 エマはすぐに戻ってきた。ルイだけでなく、見知らぬ女も連れて。

 陰気な女だ、と思った。それが第一印象だった。

 簡単に殺せる。それが次に思った事だった。

 ルイの姉のような存在と聞かせていたイーラは、アイシャにしてみれば取るに足りない相手だった。

 顔はいいが、高級娼婦としては華やかさが足りない。静かに佇むそれは人形のようだった。

 すぐにイーラから興味を失くし、ルイに視線を向けてアイシャは微笑んだ。

「ルイ。空いてる部屋に案内してくれ。銀貨二枚だ」

「はい。アイシャ様」

 ルイが頭を下げる。

 さらさらとした髪が揺れ、そうした仕草も愛らしい、と思った。

 そのまま案内された部屋に入るなり、アイシャはルイの手を取り、その指先を口に含めた。

 "天秤"のアイシャには、指しゃぶりの癖がある。

 寝る時だって、いつも自分の指を口に入れていた。吸引癖もあり指にはたこが出来ている。

 誰にも明かせないアイシャの秘密は、金を払う事によって成り立つルイとの関係において存分に発露することができた。

「ルイ、いつものをやってくれ」

 ねだるように囁くと、ルイの手がそっとアイシャの髪を撫でた。

 それだけで背筋が震えた。

 いつものように床に膝をつき、指をしゃぶったままルイの胸元に顔を埋める。

 幼子のように指をしゃぶりながら、美しい少年の胸元に抱かれると心から安寧を感じる事ができた。

 屈折しきった心を唯一満たせる時間が、ここにあった。

「ルイ……ルイッ………もっと強く抱いてくれ……ルイ……」

 "天秤"のアイシャは、どうしようもない子供好きの変態だった。




「アイシャ。あんたは子供好きの変態で、何度もルイを買ってたな」

 レイの拳が、アイシャの頬を打った。

 思わず鑪を踏み、アイシャは数歩後ろに下がった。

 口の中が切れたせいか、血の味がした。

「二度とルイに手を出すな。わかったな?」

 影の暗殺者レイは、そう言ってアイシャを睨みつける。

 アイシャは血の混じった唾を吐き出して、薄く笑った。

 "天秤"のアイシャは、こんな程度の低い暴力に屈したりはしない。そんな事は許されない。

「ルイは聖なる御子様だ。もう私が買えるような存在じゃあない。そうだろう?」

 レイは何も答えず、アイシャを注意深く見ている。

「なあ、最後にルイと一対一で話がしたい。レイ、席を外してくれないか?」

「ダメだ」

 返答が早い。

 影の暗殺者レイは、"天秤"のアイシャを警戒している。

 しかし、ルイは違う。

「レイ。一階で待っていて。すぐ行くから」

 案の定、ルイは許可を出した。アイシャの考えた通りだった。

「ルイ……」

「大丈夫だから」

 抗議の声をあげるレイを、ルイが宥める。

「決まりだ。時間は取らせない」

 アイシャの言葉に、レイはじっと観察するような目を向けた後、無言で階段を降りていった。

 周囲に階段から繋がる影が出来ていない事を確認しながら、アイシャはそっとルイに目を向けた。

「改めて慈愛の御子に選ばれた事を祝福しよう。おめでとう、ルイ。いや、ルイ聖猊下と呼ぶべきかな?」

「ルイで大丈夫です。聖猊下という呼び方は好きではありません」

 返ってきた言葉にアイシャは微笑んだ。ルイは何一つ変わっていない。

「……さっきはナイフを突きつけて悪かった」

 アイシャは言葉を続けながら、ゆっくりと円を描くようにルイとの距離を詰めていった。

「私は"天秤"のアイシャだ。舐められるわけにはいかないんだ。ルイ。お前なら分かるだろう? 私はいつだって孤独なんだ」

 声が震えた。

「ル、ルイに危害を加えるつもりなんてなかった。本当だ。でも私は"天秤"のアイシャでなければならない。わ、私は演じているだけだ。ルイ、本当なんだ。信じて欲しい。ナイフを突きつけたのだって演技だ。本気でやったわけじゃあないんだ」

「大丈夫です。わかっています」

「わ、私は――」

 ルイのすぐ近くで、アイシャは膝を折った。ルイの手を取り、そっと口元へ近づける。

「――うまくやってみせる。望む事をきっと上手くやれる。だから許して欲しい」

 そして、ルイの指をアイシャは口に含んだ。ルイの指もまた、たこが出来ていた。

「わかりました。期待しています」

 ルイの手がそっとアイシャの髪を撫でる。

 アイシャは身を預けるように瞳を閉じた。

 沈黙が落ちる。

「もう行かないと」

 頭を撫でていたルイの手が、すぐに離れた。しゃぶっていた指も、そっと離される。

「うまく併合してください」

 そう言って、ルイは一階へ続く階段を降りていく。

 残されたアイシャは、その姿が見えなくなるまで床に膝をついたままじっとしていた。

 そして、ルイの姿が見えなくなった途端、すくっと立ち上がる。

 アイシャは窓際に足を運び、慎重に外を観察した。

 純白のプレートメイルを着込んだ神殿騎士が見えた。後ろで結った髪で、遠目でもすぐに女だと分かった。

 それから路地の向こう。建物の影に両腕のない女が立っていた。女は身を隠しながらも、明らかにこちらを観察していた。

「女ばかりだな……」

 呟きながら、腰のナイフの柄をそっと撫でる。

「殺すか」

 呟いた声は、誰もいない部屋に沈んでいった。

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