第10話

 暗黒街は総じて治安が悪い。

 しかし、著しく治安の良い場所がいくつか存在する。

 その地域を庇護下に置く犯罪集団の拠点周辺だ。

 衛兵を呼び寄せるような事態を引き起こせば報復を受ける事になるため、誰もがその周辺では問題を起こそうとはしない。

 水タバコ専門店ブレーンバーンもその一つで、僕がイーラと神殿騎士のクーミリアを連れてやってくると、緊張が走るのがわかった。

「水タバコ専門店、ですか……」

 店内に並べられたパイプを見て、クーミリアは物珍しそうに感嘆の声を漏らした。

 聖都の人間は、あまり水タバコを利用しない。聖職者が服用を禁じられているのが一番の理由だろう。

 混ざりあったフレーバーの香りが鼻をついた。僕もあまり水タバコは好きじゃない。

「エヴァンディッシュさん、イーラと一緒に店の前で見張りをお願いしていいですか? 商談をまとめて来ます」

「承知しました」

 彼女は店内を興味深そうに見回した後、イーラと共に素直に外に出ていった。臭いが嫌だったのだろう。

 ここへは安宿の借り上げ交渉、という名目で来ている。早めに話をまとめあげる必要があった。

「ルイ、勝手な事されたら困るな」

 狭い店内の奥から、髪を短く刈り上げた大男が睨むように口を開く。

 当然のように僕らは歓迎されていない。

「事情があるんです。アイシャ様に話があります。いますか?」

 大男は小さく息をついて、考えるように外のクーミリアを見やった。彼女は外でイーラと何かを話しながら大人しく見張りをしている。

「二階へ」

 大男は短くそう言った。

 頷いて、彼の言う通り二階に続く階段を登る。

 暗い階段を抜けると、暗くて小さいロビーが広がっていた。

 並んだソファで水タバコのパイプを吸っている客が数人いる。その全員の視線が僕に集まった。

「聖衣? なんだボクちゃん。神殿から迷子か?」

 客の一人が、怪訝な視線を送ってくる。

 慈愛の御子である事を知らないようだった。

「ルイ。何しに来た」

 奥の席で、一人の女が立った。

 褐色の肌に、黒い長髪。

 この一帯を取り仕切っている犯罪組織"天秤"の頭、アイシャだ。

「話があります」

 そう切り出すと、アイシャはすぐに手を叩いた。

「商談だ。今日は店じまいにする。支払いはいらないから即刻全員出て行け」

 水タバコは通常、一時間ほど燃焼が持続する。

 客たちはまだ燃焼を続ける葉を名残惜しそうに見ながらも、支払いが不要という言葉で次々と立ち上がって一階に降りていった。

 一人残された僕に、アイシャは警戒するように距離を取りながら口を開いた。

「吸うか? シトラスベリーの新しいフレーバーが入ったんだ」

「いえ、不要です」

「そうか」

 彼女は小さく息をついて、それからゆっくりと近づいてくる。

「一階に神殿騎士を待たせています」

 途端、アイシャの目が鋭く僕を見た。

「何しに来た。私は、お前を可愛がってたはずだが」

「交渉がしたいです」

 彼女はすぐ目の前で足を止めて、見下ろすように言った。

「ルイ。私はお前を可愛がってきたよな。この掃き溜めで、どうしようもないガキだったお前を厚遇してやった」

 アイシャの褐色の細い腕が、僕の頬に伸びた。

 彼女の鋭い双眸の奥で、刃物のような鋭く危険な光が宿った。

「お気に入りだったんだ。随分と可愛がってきた。ここで生きる術を教えてやった。ベッドの上だって優しくしてやった。そうだろう?」

 彼女の冷たい指が、すうっと首筋を撫でる。

 その指は、正確に頸動脈を沿うように動いた。

「交渉、か。なんだ。また身体を売りにきたのか? 聖なる御子様とやらを抱くのも悪くないな。それとも――」

 彼女の声が一段と低くなる。

「――私を脅しにきたか? 神殿騎士一人で私を動かせるとでも思ったか?」

 背中を嫌な汗が伝った。

「言葉を間違えました。今日はお願いに来たんです」

 途端、アイシャの危ない雰囲気が払拭される。

「お願いか。この天秤のアイシャに何を望む。何を差し出す?」

 刃物のように冷たかった彼女の指先に熱が籠もり、聖衣の上から胸元をなぞるように動く。

「貧民街には、奪う側が多すぎる。そう思いませんか?」

「ああ、そうだ。奪い合うしかない。何もかもが足りていないんだ。この腐った世界で私たちは残飯を奪い合って生きている」

「僕はこれを減らそうと思っています。特に薬物はどうしようもありません。取り扱っている組織の殲滅を考えています」

 彼女が率いる"天秤"は色街の後ろ盾や高利貸し、暗殺、密造を主な活動内容としている。薬物には関わっていない。

 アイシャの瞳がすうっと細くなる。

「薬物か。頭痛の種だった。あれのせいで何人もの娼婦たちが売り物にならなくなっている」

 しかし、とアイシャは言葉を続ける。

「ルイ。勘違いしてはいけない。私達は、お前の駒じゃない。簡単に潰し合いを誘発できるとでも思ったか?」

 囁くような声だったが、その声色にはぞっとするような何かが含まれていた。

 平静を装いながら、淡々と今後の予定を話す。

「これから、他の組織の幹部たちが死んでいきます。瓦解した組織から天秤に流れてくる者がいれば順番に処刑して欲しいんです。抗争は望んでいません」

 僕の胸元を撫でていたアイシャの指が止まる。

「処刑?」

「そうです。瓦解した別の組織から必ず流れてきます。その中で妻子を持たず、かつ成人している者は全て処刑してください。一人ずつ秘密裏に処分していくなら問題にはなりづらいはずです」

 アイシャの瞳が僕を見る。

「ルイ、お前は――」

「他の組織の瓦解は、僕たちがやります。"天秤"はただ残党を処刑し、空白地帯になった場所を統一してください。無法者を取り仕切る組織が必要で、そしてその数をコントロールする必要があります」

 そして、もう一度言う。

「今の暗黒街には奪う側が多すぎる。そう思いませんか?」

 沈黙が落ちた。

 アイシャの瞳が揺らぐ。

 あと一歩だった。

「先のヴィクトール聖下は四十年前の法王選で、中央街に広がった薬物を撲滅するため神殿騎士と中央即応軍を動かしたそうです」

 脅しだった。

「不要な血を流したくありません。それに、暗黒街をまとめるには"天秤"のような裏の組織が必要です。だからこうしてお願いに来ました」

 アイシャがゆっくりと目を閉じる。

 それから彼女は小さく息をついた。

「なるほど。悪い話じゃない。しかし――」

 彼女の手が、腰に回った。

 一瞬の出来事だった。

 気づいた時には既に、銀刃が僕の首筋に当てられていた。

「――ご自慢の神殿騎士や中央即応軍が動くのと、このナイフがお前の喉を掻っ捌くの、どっちが早いと思う?」

「……アイシャ様、これは……」

「私は"天秤"のアイシャだ。昔の部下から一方的に脅されて言う事を聞くなんて、そんな事はできな――」

 アイシャの後ろで、何かが立ち上がるのが見えた。

 レイだ。

 アイシャの影から出てきたレイは、そっとアイシャの首筋にナイフを当てた。

「やあ、アイシャ。今日も肌荒れが酷い。働きすぎだな」

 アイシャは自身の首筋に当てられたナイフに、目を大きくした。

「……レイもいたのか。いや、ルイが正面から出てきたなら真っ先に警戒するべきだったか。二人揃って元雇い主に反抗か?」

「アイシャ。ボクはルイの影であって、あんたの影じゃない。一度だってあんたをボスだなんて思った事はないよ」

 レイは舌なめずりしながら、そっとナイフを動かす。

 アイシャの褐色の首筋から一筋の血が流れた。

「そろそろ外の神殿騎士に怪しまれる。早く格付けを済ませよう。聖なる御子たるルイが一番上で、あんたにナイフを突きつけてる私が二番。"天秤"のアイシャは一番下だ。分かったか?」

「……ああ、分かった。お前たちが上だ」

 アイシャが僕に向けていたナイフを諦めたように落とす。

 重い音とともに床に落ちたそれを僕はそっと拾い上げた。良く研がれたナイフだった。

「確認です。先手は僕たちが勝手に打ちます。"天秤"は他の組織から流れてきた無法者のうち、妻子を持たず成人している者を全て処刑してください。そして空白地帯を統一し、相応の秩序を築いてください。構成員のうち、やりすぎた者も同様に処刑してください」

「わかった。元々悪い話じゃない。全て呑もう」

 首筋にナイフを当てられたままのアイシャは、淡々と承諾していく。

「加えて、売上の出ていない安宿を一件貸してください。今日は表向き、そういう商談に来た事になっています」

 アイシャの目に困惑の色が宿る。

「まさか衛兵の詰所を暗黒街に作るわけじゃないだろうね」

「違います。文字を教える場所を作りたいんです。"天秤"の管轄である事を広め、そこでは絶対に問題が起こらないようにしてください」

「文字……ルイ、お前は本気で暗黒街をどうにかしようって思ってるのか」

「はい」

 頷くと、アイシャの口端が吊り上げった。

「面白い。やってみるがいい。ならば多少の力添えは惜しまない」

 話はまとまった。

 怪しんだ神殿騎士のクーミリアが乗り込んで来る前に引き上げなければならない。

「そうだ。最後に一つ」

 不意に、レイが口を開く。

「アイシャ。あんたは子供好きの変態で、何度もルイを買ってたな」

 レイの殴る音が、部屋に一発響いた。

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