第9話

 鐘が鳴り終わる。

 頭を垂れていたガランドは顔をあげ、それから深く息を吸って、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「大いなる主は何者にも公平です。我々の考える貴賤など、大いなる主には関係ありません。そして、それは聖都の在り方についても同様です」

 ガランドはそう言って、礼拝堂に連なる古代の石版に目を向けた。

 天窓から降り注ぐ陽光が照らし出すそれは、大いなる主の絶対的な意志だ。この神殿において、これに逆らえる者はいない。

「俗に言う貧民街はグランデーレ聖猊下のおっしゃる通り、正式には聖都に属しておりません。貧民街の者は法王聖下を決定する資格を持たない。しかし、大いなる主は貧民街で暮らしていたルイ聖猊下をお選びになりました。大いなる主と我々の認識には僅かながら齟齬が存在致します」

 そして、とガランドは言う。

「このような場合、我々は大いなる主の意志に従うべきだとそのように思うのです。これはきっと、導きでございます。ただし、法王選の投票権を早急に拡大するべき、と考えているわけではありません。事を急いでは混乱を招きます。ただ私はこう思うのです。ルイ聖猊下のなされる事には意味があるのだろう、と」

 ガランドの穏やかな眦が、再び僕に向けられる。

「今回、枢機卿団はルイ聖猊下の行動を支援致します。イーラ様の身請け、及び貧民街における識字率の向上。その他、貧民街の貧困に対する政策は枢機卿団が承認致します。もちろん、グランデーレ聖猊下やベルタ聖猊下のなさる事についても同様に支援致します。我々枢機卿団は、御子様をお助けするために存在します。我々は御子様の行動を阻害するために存在しているのではない。その原点に戻った判断でございます」

 ガランドはそう告げて、穏やかな眦をフランツィスカに目を向けた。

「如何でしょうか?」

 フランツィスカ・フォン・グランデーレは、苦虫を潰したような顔をして暫くの間無言を貫いていた。

 ガランド・カーディナルは言葉を撤回する事もなく、ただ静かに彼女の言葉を待っている。

 広大な礼拝堂に落ちた静寂が、耳鳴りがしそうなほど強くなった。

「……娼婦を買うのは今回だけにしておけ」

 彼女はそう言って、踵を返した。

 礼拝堂に靴音が響く中、ガランドに向き直る。

「ご迷惑をおかけしました。感謝致します」

「ルイ聖猊下はただ、救おうとされているだけです。我々枢機卿団はそれを承認したに過ぎません」

 ガランド・カーディナルはどこまでも優しい笑みを浮かべる。

 その姿はどこまでも無欲で、慈愛に満ち溢れていた。

 眩しい、と思った。

 貧民街では見たことがない人種だった。

「イーラ様、でしたね。部屋をご用意致しましょう」

「明日には旅立つため不要です」

 ガランドの申し出を、イーラが即座に否定する。

「明日には貧民街に戻る。そうでしょう、ルイ」

 僕は頷いた。

「明日、もう一度貧民街に出て安宿を借り上げます。イーラにはそこを拠点に、識字率の向上に努めてもらいます」

「……良いのですか」

 ガランドは短く、そう言った。

 僕は頷いて、それから彼に背を向けた。

 すべき事と、考えるべき事が山ほどある。

 イーラを連れて、礼拝堂の出口を目指す。

 廊下に出た時、後ろから小さく声がかけられた。

「ルイ聖猊下」

 震えた声だった。

 振り返ると、クーミリアが真っ青な顔をして立っていた。

「先程は無礼を……」

 恐らくは、イーラを売春婦と呼んだ事だろう。貧民街ではレミアにも似たような侮辱を浴びせていた。

 それは、身体を売った事のある僕にもあてはまる。

「気にしていません。気遣いは不要です」

 クーミリア・フォン・エヴァンディッシュのような意見は予想の範疇のものだった。

 上流階級の、特に神殿に属しているような者の価値観と衝突するのは仕方がない。

 それに、味方になる人間と敵になる人間は早めに判明したほうが動きやすい。

「護衛、ありがとうございました。持ち場に戻って頂いて大丈夫です」

 クーミリアが頭を深々と下げる。

 神殿騎士はやはり、僕のような人間とは合わない。

 その指揮系統の全てを掌握するのは現実的ではないだろう。

 信頼できる上に簡単に動かせる兵力を他に作る必要があった。




 イーラと共に私室に戻り、扉を閉める。

「良い部屋ね」

 内装を見たイーラが小さく零す。

 貧民街の宿では決して見られないような部屋だ。

 彼女は周囲を見渡しながらゆっくりとベッドへ向かい、そこに腰掛けた。

「それで」

 足元から低い声がした。

 僕の影から、ぬうっとレイが姿を出す。

 文字通り影から出てきた彼女は、僕に凶悪な笑みを向けた。

「本当にあいつらは殺さなくていいのかい? あの支配の御子と神殿騎士は排除しても良いんじゃないか?」

 魔術師、と呼ばれる人種がいる。

 血統によって継承されるこれは、遥か昔、隣接する帝国によって多くの魔術師が接収され、この聖都には殆ど残っていないと聞く。

 レイはその数少ない魔術を扱う事ができる上、彼女の持つ固有の魔力特性は暗殺業と相性が良い。

「レイも合流していたのね」

 影から姿を現したレイに、イーラが薄い笑みを向ける。

「ああ、お先にね。それで、これからどうするんだい」

 レイの爛々と光る双眸が、期待を込めて僕を見る。

 僕は考えながら、慎重に言葉を選んだ。

「表向きは、識字率向上と飢えを凌ぐための地道な支援のために動いていこうと思う」

「肝心の裏はどうするんだい?」

 問われて、僕は答えに窮した。

 結局良い言葉が見つからず、そのまま口にする。

「間引こうと思う。今の暗黒街は、奪う側が多すぎる」

 途端、レイは破顔した。

 彼女は満足そうに嘲笑って、それから囁くように言った。

「いいぞ。昔みたいな切れ味を取り戻してきたじゃないか」

 それにしても、と彼女は皮肉気味に言う。

「大いなる主は公平である、だったかな。ああ、あの聖職者が言ってた言葉、面白いと思わないかい。だって――」

 レイの指先が、そっと僕の頬を撫でた。

「――元暗殺者を法王候補に選ぶんだからさ」

 僕は何も言わなかった。

「ああ、これ以上ないほど大いなる主は公平だ。どれだけ返り血に塗れていようと、全ての罪を許してくださる。ああ、主よ。我々の暗殺を許したまえ」

 僕は、レイの元同業者だ。

 奪われるだけの立場に嫌気が差して、奪う側に立つ事を選んだ。

 暗黒街では、そういう選択肢が目の前に常に用意されている。

 ――ルイ。俺はそんな事をさせるために、剣を教えたわけじゃあないんだ。

 脳裏に、かつてのロイの言葉が甦った。

 返り血に濡れた僕を見て悲しそうに呟いたロイの顔はきっと、生涯忘れる事は出来ないだろう。

 それから、ガランド・カーディナルの優しい眦が頭に浮かんだ。

 無私無欲の聖職者。

 その存在が、とても眩しく思えた。

 恐らく、僕はそういう生き方はできない。

 彼のようにはなれない。

「ルイ」

 イーラの声。

 気づけば、彼女の憂いを帯びた瞳が僕を見ていた。

「それで、どうするの。大きく動くのは危険でしょう」

「僕たちが動くのは初動だけだよ。後は全部、奪う側でやって貰う」

 人は多分、簡単に救う事はできない。

 僕は聖職者じゃない。

 元暗殺者だ。

 ただ殺す事しか、僕は知らなかった。

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