第8話

 ルイは重い足どりで、神殿の中を進んでいた。

 立哨している神殿騎士たちが次々に頭を下げる。そして、彼らは僕の後ろを歩くイーラとクーミリアを一瞬だけ盗み見てから、何もなかったように真っ直ぐと姿勢を正すのだった。

 イーラの外見は目立つ。すぐに噂が広がるだろう。

 長い廊下を抜け、礼拝堂に出る。

 天窓から降り注ぐ陽光の中、主席枢機卿のガランド・カーディナルは膝を折り、大いなる主の意志を示す古代の石版に頭を垂れていた。

 礼拝堂の奥に立ち並ぶ石版は、僕には読めない。法科学校に一度身を置いた人しか読む事が出来ないと聞いたことがあった。

 僕たちの足音に気づいたのだろう。ガランド・カーディナルはゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返った。

 老いた優しい眦が、真っ直ぐとイーラに注がれる。そして彼は説明を求めるように、ボクを見た。

「彼女はイーラ。娼館アインズヘルムから身請けしてきました。僕に文字を教えてくださった方です」

「身請け、ですか」

 ガランド・カーディナルは驚いた様子もなく、しかし、見定めるようにイーラを見る。

「あなたはきっと、勤勉なのでしょう。良い事です」

「恪勤(かっきん)であれ、精励(せいれん)であれ。あらゆる事は三絶(さんぜつ)によって成されるのだと主は説かれております」

 恭しく頭を下げたイーラは、大いなる主の教えからいくつかを引用してみせた。

 ガランド・カーディナルの目の奥に、驚きの色が宿る。

 イーラは上流階級の人間が好む言葉を多く知っていて、それを糧に生きてきた高級娼婦だ。僕の交友関係において、彼女ほど高度な知識を持つ人はいない。

「イーラは多くの事に精通しています。そして貧民街にも詳しい立場にあります。貧民街の識字率をあげるため、安宿を借り上げて文字を教える拠点を作りたいと考えています」

 ガランド・カーディナルは無言で僕とイーラを見る。

 長い顎髭を撫でながら、考えるようにじっと目を閉じた。

 沈黙が落ちかけた時、それまで後ろに無言で控えていたクーミリアが口を開いた。

「お言葉ですが、ガランド猊下。神聖なる神殿が主導で元娼婦を動かすのは問題になるのではないでしょうか」

 クーミリア・フォン・エヴァンディッシュは貴族だ。

 彼女の価値観は、僕たちとは相容れない。

 ガランド・カーディナルに進言する彼女の横顔に、迷いや躊躇はない。

「加えて、多くの娼婦が身請けを希望して神殿に押し寄せる恐れがございます。神殿に不要な混乱を招く事になりかねません」

 ガランド・カーディナルはすぐに答えを出さず、目を閉じたままじっとしていた。

 そこへ、突然凛とした声が響いた。

「その者の言う通りだ」

 振り返ると、礼拝堂の入り口に支配の御子フランツィスカ・フォン・グランデーレが立っていた。

 人形のように整った顔立ちが、今は怒りよって人間らしく歪んでいた。

「言ったはずだ。汚らしい娼婦と密会するような真似は控えろと」

 フランツィスカ・フォン・グランデーレがゆっくりと近づいてくる。

 彼女の足音が、広い礼拝堂に響き渡った。

 ガランド・カーディナルとクーミリア・フォン・エヴァンディッシュが膝を折り、頭を垂れる。

 生まれながらの支配者は、その緋色の双眸で僕を射抜くように見た。

「ここは大いなる主の聖前(みまえ)だ。娼婦が来るような所ではない」

「イーラはもう娼婦ではありません。僕が身請けしました」

 フランツィスカの堂々とした振る舞いは、上流階級特有のものだ。

 彼女の作り出す威圧的な空気に呑まれないよう、彼女の瞳を正面から受け止める。

 イーラを身請けした以上、彼女との衝突が避けられない事は分かっていた。

「つまり神殿が、慈愛の御子が女を買ったと、そういう事か」

 フランツィスカ・フォン・グランデーレは怒りでその身を震わせていた。

 恐らく、今の彼女にはどんな言葉も通じないだろう。

 上流階級で形成された価値観と、神殿に対する信心がそれを許さない。

「君は自分が何をやったのか、理解しているのか。慈愛を司る御子が娼婦を買ったなどと広まれば神殿に対する疑心が生まれるだろう。法王選における君の勝ち筋はこれで潰えたも同然だ。神聖なる儀式を台無しにするつもりか」

 そもそも、とフランツィスカが声を震わせる。

「いわゆる貧民街は、聖都ではない。知っているはずだ。法王選に影響しない場所の為に穢れを被るなど、正気ではないぞ」

 彼女の言う通りだった。

 貧民街は、厳密に言えば聖都ではない。

 法王選は開かれた場であるが、それは聖都に限っての事であり、貧民街の者が法王を選択する自由は与えられていない。

 だからこそ、神殿の目が届かない貧民街は暗黒街と呼ばれるまでに劣悪な世界を築き上げてしまった。

 ――この暗黒街は、法王様が不在なのよ。

 いつか、イーラが言っていた。

 自虐するように笑って、どこか諦めるように笑って。

 ――衛兵もそう。彼らは中央街の衛兵であって、暗黒街の衛兵ではないの。

 あれは確か、やってもいない盗みの容疑をかけられてボクが衛兵に腕を折られた時だった。

 彼女は僕の腕を固定しながら、悲しそうに言った。

 ――大いなる主はきっと、私達を救ってはくれない。

 きっと、暗黒街に不在なのは法王だけではない。

 何もかもが、暗黒街には足りていない。

 大きく息を吸う。

 肺腑の中に、冷たい空気が入ってくる。

 そして、言った。

「僕はかつて、身体を売ったことがあります」

 その声は、広い礼拝堂に思いのほか大きく響いた。

 フランツィスカとクーミリアの瞳が驚愕で大きく開かれる。

 このカードは、隠し持っていると後々大きな弱点になりうる。

 イーラを守るためにも、今この場で切ってしまう方がいい。

「暗黒街で生きていく方法は二つしかありません。奪うか、奪われるかです」

 フランツィスカの口が何かを言おうと動く。

 それを無視して僕は言葉を続けた。

「僕たちの前には、奪う選択肢が常に用意されています。そういう仕事を斡旋する組織が多くいて、毎日多くの人たちが身を沈めていきます」

 多分それは、フランツィスカのような上流階級の人間には理解出来ない事だろう。

 奪われるのが嫌ならば、奪う側になるしかない。

 暗黒街には、その二択しかない。

「娼婦というのは、他人から奪う事を良しとしなかった人たちです。他人から奪う生き方を拒絶し、自ら奪われる側である事を選んだ人たちです」

 本当は、それほど綺麗な事ではない。

 レミアのように両腕を失った娼婦は、奪われる側になるしかない。

 しかしそれでも暗黒街の、とりわけ娼館街で育った僕は彼女たちに親近感を持っている。

「大いなる主は、僕を慈愛の御子に選びました。身体を売ったことのある僕を、です。大いなる主はどこまでも公平で、これはきっと意味がある事です」

 だから。

「僕はこの聖都の法王ではなく、長らく不在だった暗黒街の法王になりたいと、そう思うんです」

 遠くで鐘が鳴った。

 礼拝を告げる鐘だ。

 荘厳なる響きの中、不意にイーラが動いた。

 彼女は奥に並んだ石版を見ると、それをそっと読み上げた。

「彼らは嘉言(かげん)を口にするが、他人の為に指一本動かそうとはしないであろう。高き者は洋々たる躬行(きゅうこう)によって盛徳大業(せいとくたいぎょう)を成す。貴賤老若(きせんろうにゃく)旗鼓堂々(きこどうどう)と当たり、聖徒なるべし」

 大いなる主の言葉と、礼拝の鐘が木霊する。

 静観していた主席枢機卿ガランド・カーディナルは微笑みを浮かべ、静かに頭を垂れた。

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