第7話
エヴァンディッシュ家は代々、大神殿に身を捧げてきた名家である。
クーミリアの年が離れた兄もまた神殿に身を捧げており、先代のヴィクトール聖下の崩御に伴い、その身を天上の主へ捧げた。
新たな神殿騎士に任命されたクーミリアもまた、次の法王の命尽きる時、その身を天上の主へ捧げなければならない。
神殿騎士クーミリア・フォン・エヴァンディッシュの命は、常に法王と共に在る。
法王選とは、彼女にとって命を預ける者の選択に等しい。市井の者とは法王選に臨む意味が全く異なる。
だからこそ、クーミリアは目の前の光景が許せなかった。
馬車の中、慈愛の御子ルイは高級娼婦と並んでいた。
遥かなる貴き存在である御子が、汚らしい娼婦と共に。
ありえない事だった。
高級娼婦がいくら社交界と繋がりがあろうと、神殿に身を置くクーミリアにしてみれば道端に立っている娼婦と何ら変わらない穢らわしい存在でしかなかった。
その娼婦はあろう事か御子であるルイに身を寄せ、安心したように目を閉じている。
対するルイもまた、身を寄せるイーラに対して苦言を呈すどころか、気を許しているようだった。
クーミリアの中で、言い知れない不快感が沸き起こった。
「ルイ聖猊下」
自然と低い声が喉から飛び出た。
ルイの透き通った瞳が、クーミリアを見る。
何の警戒もしていない、無防備な目だ。
御子の貴き立場に反して、あまりにも無垢なように思えた。クーミリアの中で急速に危機意識が生まれ、肥大化していく。
「その者は、娼婦でしょう」
「はい。でも、小さい頃からよく知った人です」
ルイはそう言って、嬉しそうに頬を綻ばせた。
反対にクーミリアの表情が固くなる。
「……信頼できるのですか」
「はい。僕が最も信頼している人です」
嘘だ、とクーミリアは思った。
この女は娼婦だ。男に媚びる事を生業にしている。金で何でもするような不誠実な生き方をしてきた女だ。
慈愛の御子ルイは、まだ背も低く、やや幼い顔立ちを残している。このような女を上手く躱す術を、恐らく知らないだろう。
神の子と言われようと、慈愛の御子ルイはまだ成長途中にある。御子を利用しようと企む、こうした外敵から庇護する存在が必要に思えた。
枢機卿団は干渉を嫌い、あまりにも中立すぎる。侍女のアリア・ミラーもまだ幼く、慈愛の御子ルイを守れるような存在ではない。
ならば、私が。
神殿騎士は、法王の盾でなければならない。
神聖で無垢な御子を穢れから守るのも務めだ。
ルイの隣で目を閉じて眠るイーラを、クーミリアはじっと睨むように見つめた。
「エヴァンディッシュさんは」
馬車の中、ルイの透き通った声がよく通った。
「剣がうまいんですか?」
「え? ああ、剣術ですか。エヴァンディッシュ家は代々神殿騎士として身を捧げており、それなりに覚えがあります」
「興味があるんです。今度、教えてくださいませんか?」
覗き込むように首を傾げるルイの瞳は、驚くほど透き通って見えた。
「……危険です。その御身にもしもの事があれば……」
「実は、少しだけ教わった事があるんです。帝国の騎傑団から流れてきたロイという友人がいまして、その方から基礎だけ教わりました。もっとやってみたくて」
「帝国の、騎傑団……」
周辺各国へ名を轟かせる武芸者の集団だ。虐殺幼帝と呼ばれる狂人の子飼いの者たち。
それだけの者から手ほどきを受けた事があるならば、軽い訓練程度でひどい怪我をすることはないだろう。
「……承知しました。ルイ聖猊下のご都合のいい時に、いつでも仰ってください。不肖ながら、このクーミリア・フォン・エヴァンディッシュがお相手致します」
「はい。楽しみにしていますね」
ルイが無邪気な笑みを見せる。
その時、彼に寄りかかっていたイーラが目を覚ました。
彼女は眠たそうにゆっくりと周囲を見渡した後、すぐ隣のルイを見て安心したように笑みを浮かべた。
「……夢じゃなかった」
囁くような声。
対して、ルイが笑みを返す。
「大丈夫。もう自由だから」
二人のやり取りを見ながら、クーミリアは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
イーラの笑みには、どこか陰がある。声もそうだ。目を離したら消えてしまいそうな、そんな儚さがある。
この女は、どうすれば男が自分を気にしてくれるか知っている。そういう所作を意図的にやっている。クーミリアにはそう見えた。
――気に入らない。
慈愛の御子を利用しようとするこの女は危険だ、とクーミリアは警戒の目で彼女の一挙一動を注意深く観察した。
それからふと、先程の両腕のない娼婦を思い出す。
イーラを身請けした後、あの女は道端でじっとルイの事を見ていた。絡みつくような目でずっと。
気持ち悪い女だ、と思った。
貧民街で育ったルイはきっと、娼婦にも優しくしてきたのだろう。慈愛の御子に恥じぬ行いだ。
その優しさを勘違いをしている娼婦が大勢いるのではないか、という危惧が生まれる。
ルイがイーラを身請けした事が広まれば、同じように身請けを希望する娼婦が大勢出てくるだろう。まだ年端もいかないルイに対して、穢らわしい誘惑を振りまく女も出てくるかもしれない。
神殿騎士は、法王の盾でなければならない。
加えて、クーミリア・フォン・エヴァンディッシュは神殿騎士でも珍しい女騎士だ。同性のそういう動きには、愚鈍な男よりも機微に反応できる自信があった。
慈愛の御子ルイの盾には自分こそが最も相応しいのではないか、という思いが芽生え、それこそが神殿に身を捧げてきたエヴァンディッシュ家の使命なのではないか、とクーミリア・フォン・エヴァンディッシュは命を預けるべき小さな法王候補に目を向ける。
馬車の中で揺れる彼のさらさらした髪と、その間から見える透き通った瞳を、ただ綺麗だと思った。
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