第5話

「御子にはどれくらいの裁量権が与えられていますか?」

 翌朝、僕は礼拝堂で主席枢機卿であるガランド・カーディナルに疑問をぶつけていた。

 顔を会わせるなり質問した僕に、ガランドは長い顎髭を撫でながら、ふむ、と一呼吸置いた。

「裁量権とは具体的に何を指しているのですか?」

「率直に言うとお金です。法王ですらない御子が動かせる資金はどれくらいのものですか?」

「お金、ですか」

 ガランドの目に警戒の色が宿る。

 貧民街の出身の僕がお金を欲している事を快く思っていないのだろう。

「人を雇いたいと思っています。それから飢えを凌ぐためのパンも大量に必要です」

「……人ですか。それは侍女のアリア・ミラーなど、神殿内部の人間を動かすだけでは難しい事ですか?」

「はい。貧民街に拠点を築き、常駐させる者が必要です。貧民街に常駐しても良い、という方がいるなら新たに雇う必要はないんですが……」

 貧民街に常駐したい、なんて酔狂な人間がいるわけがない。

 ガランドは唸るように息を吐き出し、それから目を閉じた。

「先に使途と概算を出してください。枢機卿団が承認するような正当な事由があれば資金を準備します」

「突然の無理に応じてくださってありがとうございます。もう一点確認したい事があるんですが……」

 ガランドの老いた瞳が僕を真っ直ぐ見据え、先を促す。

「法王選により法王が決定した時、残った二人の御子はどうなりますか? どれほどの権限が残されますか?」

「残った二人の御子様は法王聖下を助ける立場になります。権限としては枢機卿団と同等のものが与えられます。ただし、これは歴代の御子様によって異なっています。法王聖下が自らそれぞれの御子様に特別な権限を与えた事例が多数あるためです」

 御子は法王の直下の駒であり、その処遇は法王に全て委ねられる、という事なのだろう。

 これは予想の範疇だ。他人から与えられるあらゆる権限は個人的な利害関係や信頼関係に左右される。法王や御子も例外ではない、ということ。

「資金を動かしたい、と願い出たのはルイ聖猊下が初めてです。その行動力はヴィクトール聖下を思い出します」

「ヴィクトール聖下、ですか」

 思わず先代の名前を繰り返すと、ガランドは皺の入った顔をくしゃくしゃに丸めた。

「ええ。今から四十年前になります。法王選においてヴィクトール聖下は先陣を切って動きました。先代の支配の御子であるラティア聖猊下を連れて、中央街に蔓延していた薬物の根絶に取り組まれました。聖下は資金を動かすどころか、僅か五日で神殿騎士と中央即応軍を動かしたんです。我々枢機卿団は慌てふためきました」

 懐かしむようなガランドの言葉に、僕は思わず聞き入った。

「法王選の真っ只中であるというのに、ヴィクトール聖下は多くの敵を作り上げていきました。敵と味方を明確に線引きし、聖都の複雑な勢力図を単純化しました。当時のヴィクトール聖下はまだ二十四歳でしたが、今思えば既に完成した精神性を有されていたように思います。迷いなく重大な決定を積み重ねていく聖下は、あっという間に多くの人々を麾下に取り込んでいきました」

 クーミリア・フォン・エヴァンディッシュから聞いた印象と違う。

 彼女の話では温厚な印象が強かったが、ガランドの話では苛烈な印象を受ける。年を重ねて丸くなったのだろうか。

 中空を見つめていたガランドの眦が優しい皺を作って、こちらを見る。

 年を重ねて濁ってしまった水晶体は、僕を見ているようで僕を見ていない。僕の後ろにいる何かを見ている。

「ルイ聖猊下。貴方からはヴィクトール聖下と似たものを感じます。期待していますよ」




 馬車に乗ったのは、一体何年ぶりだろう。

 枢機卿団が用意した馬車の中で、僕は幼かった頃の記憶を振り返った。

 確か、イーラが高熱を出した時だ。

 乱暴な客にやられた複数の傷口が化膿していた。彼女は苦しそうに呻きながら、傷口を必死に隠した。こんな姿を見ないでくれ、と懇願するように泣きじゃくった。

 誰も助けてくれなかった。彼女を雇っていた大人だって、見てみぬ振りをした。 

 僕は彼女を抱きかかえて、馬車に乗った。御者は嫌そうな顔をしていたが、僕がなけなしの銀貨を握らせると渋々了承した。

 何もかもが最悪だった。

 辿り着いた医者だって、僕の汚い身なりを見ると門前払いしようとした。罵声を浴びながら頭を下げた。

「よく見たら、綺麗な目と顔をしているじゃないか」

 突然態度を変えた医者の手が、僕の首筋を撫でた。

 そのまま僕は身体を売った。

 初めてだった。

 医者は僕の事をひどく気に入って、そのまま三日間そこで治療に専念できるようになった。三日耐えた。

 何もかもが最悪だった。

 イーラの傷口の処置が終わると、僕たちはすぐに診療所から放り出された。

 帰りの持ち合わせはなかったから、歩いて帰る事になった。

 イーラは何度も僕に許しを乞うように泣いていた。

 街角で寒風を凌げそうな場所を探して、施しを受けたパン一切れを二人で分けて飢えを誤魔化した。

 イーラが仕事の前に精神が不安定になるようになったのは、それからだった。

 何もかもが最悪で、全てが憎かった。

 それが、初めて馬車に乗った時の記憶だ。ろくな思い出じゃない。

「ルイ聖猊下、一体どこに向かうんですか?」

 護衛として馬車に同乗している神殿騎士団の副団長、クーミリア・フォン・エヴァンディッシュが不安そうに言う。

 馬車は今、貧民街を走っている。貴族である彼女は貧民街に足を運んだ事が恐らくないのだろう。不測の事態に対応できるよう、常に剣に手がかけられている。

「娼館街だよ」

 娼館街は中央街から比較的近い位置にある。それほど遠くはない。

「娼館、ですか?」

 クーミリアの顔に嫌悪の色が混じる。

 そこで馬車が止まった。

「着きましたよ」

 御者が言う。

 僕は馬車から飛び降りて、すぐ後ろのクーミリアに手を伸ばした。彼女がおずおずと周囲を警戒しながら手をとって降りてくる。

「ここが……」

「そう、娼館街の入り口。と言っても昼の内はただの貧民街と変わらないけれど」

 説明しながら、娼館街を進んでいく。クーミリアが半歩後ろを維持して着いてくる。

「ルイ!」

 不意に声がかけられる。

 振り返ると、胸を強調する服を身にまとった女性が立っていた。

 レミア。この辺りを縄張りにする娼婦の一人だった。

 彼女には両腕がない。

 数年前に窃盗の容疑で肘から先を切り落とされてしまった。中身のない袖口はふらふらと振り子のように揺れている。

 駆けつけてくるレミアを威圧するように、クーミリアが僕の前に出る。しかし、レミアは気にせず話しかけてくる。

「あー、本当に御子様になったんだ。横の人、護衛?」

「汚らしい売春婦め。ルイ聖猊下に不用意に近づかないでください。危険であると判断すれば斬ります」

 クーミリアが冷たく言い放つと、レミアは大声で笑った。

「聖猊下? 聖猊下だって!」

 馬鹿笑いするレミアを前に、クーミリアの手が腰の剣に伸びる。

 レミアはすぐに笑うのをやめて、卑屈で媚びるような視線を向けた。

「ま、待った。悪気はないんだよ。私バカだから、仰々しい言い回しに慣れてなくて。それで、ルイ聖猊下は何をしに?」

「アインズヘルムに向かうところだよ」

 短く言うと、レミアは首を傾げた。

「アインズヘルム?」

「イーラに会いに」

 レミアの瞳に、理解の色が宿る。

「そっか。羨ましいな」

 一瞬、寂しそうな表情が浮かんだ。

「元気でね、ルイ」

「……レミア。僕はしばらく、貧民街と神殿を往復する事になる。これで今生の別れじゃない」

「え?」

 意外そうな顔をする彼女に笑いかけて、それから僕は歩き出した。クーミリアが後に付き従う。

 すぐ先に娼館アインズヘルムが見えた。周囲の建物より外装に金がかかっている為、すぐにソレと分かるようになっている。

 店先で腕を組んで立っていた用心棒のロイが僕に気づき、怪訝そうな表情を浮かべる。

 彼は周囲を見回してから、僕の元へ駆け寄ってきて小声で言った。

「ルイ、ここは神殿騎士を連れてきていい所じゃない」

「わかってる。でも護衛が必要だった」

 僕はそれだけ言って、彼の横を通り過ぎてアインズヘルムの扉を開けた。視界の端で、ロイが困ったような顔をしているのが見えた。

 アインズヘルムのロビーにはまだ客がいない。この娼館を取り仕切る女主人のエマがいるだけだった。

 エマは元高級娼婦だ。白髪が混じる程度に年齢を重ねた今は引退して、娼婦を管理する側に回った。

 その彼女が、娼館に入ってきた僕とクーミリアを見て目を丸くしてた。

「ルイ。これはどういう……」

「エマさん、イーラはいますか?」

 事情も告げずに要件だけ簡素に伝えると、エマは慌ただしく奥の部屋に入っていった。イーラを呼びにいったのだろう。

「ルイ聖猊下、ここで一体なにを……」

 後ろでクーミリアが不安そうに言う。

 僕は迷いながら、クーミリアには最後まで伏せておく事にした。ここで反対されるわけにはいかない。

「エヴァンディッシュさん。資金をお願いします」

 クーミリアがおずおずと金貨の入った麻袋を取り出す。枢機卿団が承認した資金だ。

 僕はそれを受け取ると、中を確かめた。見たこともないような数の金貨が詰め込まれている。

 部屋の奥から足音が聞こえた。

 少しだけ、緊張するのが分かった。

 多分これは、僕の立場を一時的に悪くする。しかし、必要な事だった。

 先代のヴィクトール聖下がそうしたように、僕も敵と味方を明確にしていく必要がある。そして、僕が知る明確な味方はあまりにも少ない。

「ルイ?」

 奥からイーラが顔を出した。

 突然の来訪に、彼女は不思議そうに首を傾げている。

 僕は金貨の詰まった麻袋を身体の前に突き出して、イーラの後ろに立つエマに言い放った。

「慈愛の御子ルイの名において、娼館アインズヘルムからイーラを身請けしたいと考えています。今日はその商談に参りました」

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