第4話

 イーラを見送った後、僕は本来の目的地だった書庫を探し当てた。

 殆ど人が来ないためか、室内全体が埃くさい。

 咳き込みながら、順番にそれらしい資料を取り出していく。

 そしてすぐ、この書庫には僕の欲しい情報が残されていない事がわかった。

 歴代の法王の記録は、ただ事実を羅列しただけの簡素なものだった。

 何年に即位し、何年に崩御したか。どの御子の力を宿していたか。そういった記録が淡々と残されているだけだった。

 歴代法王の思想や政策に関する記述はあまりにも少ない。法王選に関する記録も僕が探した限りでは見つからなかった。

 唯一、戦争に関する記録に聖女イリスの名前が出ているだけだ。しかし聖女イリスがどのように軍を率いたか、どのように侵略者を打ち払ったかは記述されていない。

 三度の会戦における動員数と、その損害がただ残されているだけだった。

 これが恐らく神殿書記官を縛る戒律なのだろう。私的な意見や考察が一切禁止されているのだと推測できた。

 厄介だ。

 先代のヴィクトール聖下は僕と同じ慈愛の御子だったと聞いている。

 しかし彼がどのような理想を描き、どのような政策を実行してきたのか参考に出来る記録が何もない。

 そして、慈愛の力をどのように行使したのかも分からない。

 そもそも慈愛の力というものが具体的に何を指しているのか、僕は知らなかった。先代のヴィクトール聖下が不思議な力を行使したという伝聞は残っていない。

 記録に残っていない以上、枢機卿団で特に先代聖下と親しかった人から直接話を聞くしかなさそうだった。とりあえず、主席枢機卿であるガランド・カーディナルを頼るのが自然だろう。

 そしてもう一つ気がかりな事があった。

 法王選に敗れた御子の記録が残っていないようなのだ。

 僕が気にしているのは、法王選の後に待ち受ける破壊の御子の動きだ。

 此度の破壊の御子であるベルタは野心を持っていないようだったが、過去には強い野心を持った破壊の御子がいてもおかしくはない。法王選で敗れたとしても、破壊の力によって法王の座を奪おうとする者が一人くらいいたのではないだろうか。しかし、そういった記録は特に残されていない。

 それほど広くはない書庫室を見渡す。

 御子に関する記録を大雑把に見ただけで、神殿騎士や神官、枢機卿団に関する記録は読んでいない。どこかに関連する記述があるかもしれない。これら全てに目を通すには多くの時間を要する。

 そこまで考えた時、廊下から足音が響いた。

 僕は手に持っていた資料を棚に戻し、戸口に目を向けた。

 扉が開き、神殿騎士が顔を覗かせる。神殿騎士としては珍しい若い女性だった。

 目が合うと彼女は背を伸ばし、仰々しく頭を下げた。後ろで結った栗色の髪が鞭のように舞う。

「神殿騎士団の副団長を務めるクーミリア・フォン・エヴァンディッシュです! 報告致します! 大神殿の庭園にて侵入者が見られました」

 侵入者。

 嫌な予感がした。

「現在、神殿騎士を総動員して侵入者を捜索中です。ルイ聖猊下にはご不便をおかけしますが、騒動が落ち着くまで私室での待機をお願い致します」

「わかりました。侵入者は一人ですか?」

「はい。小柄な女と聞いております。陽動の可能性もあり、団長が中央即応軍を率いて聖都中へ展開しております」

 今日は僕たち御子のお披露目があったばかりだ。その晩に神殿に侵入するとなると暗殺を目的としている可能性が高い。

 しかし、神殿騎士だけでなく中央即応軍まで動かすとは、やや大げさな気がした。

 クーミリア・エヴァンディッシュに案内される形で書庫を出て、私室へと向かう。

 廊下では神殿騎士が慌ただしく走り回っており、三人一組で行動していた。

 半歩前を歩くクーミリア・フォン・エヴァンディッシュを見る。白いプレートメイルを身に着けた彼女は、油断なく周囲を警戒している。

「エヴァンディッシュさんは、先代のヴィクトール聖下をご存知ですか?」

「は、ヴィクトール聖下ですか?」

 クーミリアは虚を突かれたように一瞬警戒を解いて僕を見た。

「はい。先代は僕と同じ慈愛の御子だったと聞いています。先代が考えていたこと、成し遂げたかった事を知っておきたい、と思いまして」

「……私が小さかった頃に一度だけお会いした事があります。神殿の庭園で、子供たちに祝福を授けてくださってたんです。私も慈愛の祝福を受けました」

 彼女は懐かしむように語り始める。

「不思議な方でした。聖下を前にしただけで心が温かくなるんです。不安や緊張が一瞬で消えてしまって、多幸感だけが残りました。ほんの一瞬の出来事でしたが、今もその祝福を受けた時の光景が記憶に焼き付いています」

 間違いない。慈愛の力だ。

「エヴァンディッシュさんがヴィクトール聖下にお会いしたのは、その一度だけですか?」

「はい。子供たちに祝福を授ける機会は何度かあったと聞いていますが、私が実際にお会いしたのはその一度きりです。とてもお優しい方でした」

 そういえば、と一旦言葉を切って真っ直ぐと僕を見据えた。

「ルイ聖猊下と雰囲気が似ていたかもしれません。穏やかで、物静かでした。だから私は、ルイ聖猊下を応援してるんですよ」

 応援。

 何気なく付け足した言葉は、三柱の御子に対して中立でなければならない神殿騎士として不適切な言葉だった。

 つまり彼女は、法王選において僕に投票すると暗に言っているのだ。

 僕はわざと、その言葉を無視した。

 彼女もその意図を汲んだのか、それから先は何も言わず周囲の警戒に戻った。

 無言のまま私室に辿り着くと、彼女は姿勢を正した。

「では、侵入者について続報があればすぐにご報告致します」

「わかりました。お気をつけて」

 最後に言葉をかけてから、私室の扉を開けて中に入る。

 侍女のアリア・ミラーはいなかった。広くて静かな部屋は、どこか冷たい空気が張り詰めている。

 部屋の奥の窓ガラスから漏れる月明かりを頼りに、明かりを灯す。

 遠くから虫の鳴き声が聞こえた。

 ベッドに向かおうとして、それから足を止める。

 服の下のベルトに手を伸ばすと、重い金属の感触があった。

 手に馴染むそれを掴んだまま、ゆっくりと窓ガラスに向かう。

 部屋の中に、僕の足音が妙に大きく響いた。

 窓の前で足を止め、ゆっくりと鍵を開ける。カチ、と小さな音とともに窓が勢いよく開いた。

 部屋が負圧になっていたのか、外から勢いよく空気が入り込んでくる。

 風の音とともに、おどけた声が響いた。

「これはこれは、偉大なる法王聖下ではありませんか」

 姿は見えない。

 彼女はそういう存在だった。

「まだ法王じゃないよ。法王選に勝たないといけない」

「ああ、聖なる法王聖下。ああ、聖なる御子聖猊下。人智果てなし無窮(むきゅう)の遠(おち)に洋々たる御身。汝を慕いあげ、我ら今日も主のお傍に」

 夜風に彼女の歌声が響く。

 庭園には神殿騎士も多くいるはずだ。あまり悠長に話している時間はない。

「要件は?」

「要件? 要件だって? ボクが君に会うのに要件が必要なのか?」

 演技じみた話し方だが、その声には確かに怒りの色が乗っていた。

「神殿騎士が総出で捜索に出てる。時間がない」

「神殿騎士だって? あいつらは戦場に出た事もないし、殺し合いをしたこともない。まるで警戒に値しないよ」

 それより、と彼女の声が低くなった。

「別れの挨拶もなく、ボクの前を去った理由を教えて貰おうか。随分と冷たいじゃないか」

「レイ。時間がなかったんだよ。何の前触れもなく枢機卿団と神殿騎士たちが迎えにきて、そのまま何も分からないまま神殿に連れて行かれた。いきなりだったんだ」

 貧民街には禄な仕事がなく、そんな掃き溜めで育った僕の友人たちも例外なく禄な仕事についていない。

 娼婦。用心棒。乞食。運び屋。傭兵。そんなのばっかりだ。

 その中でも彼女、レイの仕事はとびっきり禄じゃない。

 彼女は、暗殺業に手を染めていた。

 夜の世界は、彼女の縄張りだ。

「なるほど。じゃあイーラにも挨拶はしなかったんだね?」

「その場にいた父さんとロイにしかしてないよ。イーラは今日正面から面会に来たけど」

「そうかそうか。ボクを邪険にしたわけじゃないわけだ。まあいい。信じるよ」

 すっ、とそれまで姿を隠していた彼女が上から降ってきて、窓枠に足をかけて中に入ってくる。

 闇夜に溶けるような黒髪と黒曜石のような瞳に加え、彼女は視認しづらい黒装束を身にまとっていた。

 どこか飄々とした表情を浮かべながらも、その双眸は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされ、爛々と危険な色を放っている。

「それでどうするんだい。君はこれから聖なる法王聖下になりうるわけだ。良い機会だ。腐った貧民街を捨てて、このぬるま湯のような世界で生きていくのかい?」

 その瞳は、こう言っていた。

 裏切るのか、と。

「……正直、よく分からなかった。突然、御子様だとか聖猊下なんて呼ばれて、先の事なんて何も考えてなかった」

 でも、と今日の事を思い出す。

「大勢の観衆の前で、慈愛の御子だって紹介された。支配の御子には惰弱だって失望された。破壊の御子は既に答えを持ってた。それで覚悟が出来た」

 だから。

「僕は法王になるよ。せっかく表の世界に引っ張り出されたんだ。貧民街を変えられる唯一の機会なんじゃないかって、そう思う」

「貧民街を、変える? あの腐った暗黒街を?」

 レイが嗤う。

 しかし僕が真顔を貫いているのを見て、彼女はすぐに嗤うのをやめた。

「表から正々堂々と変えていくよ。でも多分、法王の力だけじゃダメなんだと思う。歴代の法王は貧民街を変えられなかった。きっと正しいだけじゃダメなんだ」

「ああ、そうだ。歴代の法王は何も出来なかった。ボクたちは泥水を啜り続けてる」

「うん。そして御子になった僕は表でしか動けない。だからレイは裏から動いて欲しい。僕の影になって欲しい」

 レイの爛々とした黒い瞳が、楽しそうに煌めく。

「影?」

「そう。日は絶対に当たらない。多分、そういう存在が必要だ」

 クスクスと彼女の笑い声が響いた。

「ああ、いいよ。ボクは君の影になる。そして、君はボクの本体になるんだ。二人で一つ。一心同体。元々ボクたちはそういう存在だった」

 彼女がすっと近づいて、耳元で囁く。

「君の本質はいつだって変わらない。ボクたちはきっと離れられない。ボクだけは君を裏切らないし、君はボクを裏切ってはならない」

 彼女の言葉が、脳髄に染み込んでいく。

「誰を殺せばいい? 手始めに他の御子を殺してみようか。それから次に有力な枢機卿を消そう。それから――」

「レイ」

 彼女を制止する。

「殺すのは、神殿側じゃない。貧民街の方だ」

 半歩引いて、すぐそばにあった彼女の瞳を覗く。

 彼女は驚いたような表情を浮かべていて、それからすぐに破顔した。

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