第3話

「元気そうだな、ルイ」

 案内された応接間に入るなり、僕の父親であるルークスが朗らかに笑いながら声をかけてきた。

 浅黒く焼けた肌と、痩せこけた頬によってやや強面の印象を受ける父だが、僕にとっては頼りになる自慢の父だった。

「うん。何も変わらないよ、父さん」

 答えながら、父の隣に座る二人の人物に目を向ける。

「イーラとロイも来てくれたんだ」

 イーラは貧民街の娼館で働く高級娼婦だ。そしてロイは娼館街の用心棒をやっている。二人とも僕が小さい頃からの顔なじみだった。

「御子の初開式、見たよ。綺麗だった」

 イーラが囁くように言う。どうやらあの観衆の中にいたらしい。

 用心棒のロイがからかうように口を開いた。

「遠目には、両隣のお嬢さんと並ぶほどだったぜ。前からお前は男娼になるべきだと思ってたんだ」

「お前、親の前で良くそんな事を……」

 父のため息を聞きながら、クス、と笑みが漏れた。

 聖猊下と恭しく呼ばれるより、こうやって雑に扱われた方が気持ちが楽だった。

「ルイ、ここの生活はどう? 苦労してない?」

 イーラがソファから身を乗り出し、心配そうな顔をする。

「うん、皆いい人ばかりだよ。大丈夫。食堂では柔らかいパンも出てくるしね」

「そう……いつでも帰ってきて良いからね」

「ああ、ここの暮らしが合わなければ抜け出せばいい。御子の力がなんだ。神殿に縛られる必要なんてないさ」

 ロキはそこで言葉を切って、小声で付け足した。

「うちは金を数えられる奴が少ないんだ。たまには手伝いに戻ってきてくれ」

「ここと同じ柔らかいパンが出るなら考えておくよ」

 互いに憎まれ口を叩きながら、雑談に花を咲かせる。

 彼らと語るのはくだらない話ばかりだ。

 賭けに負けた話。衛兵と追いかけっこをする裸の男の話。娼館の馬鹿げた客の話。

 どうでも良い話が、今の僕にはとても心地が良かった。

「……随分と話したな」

 父がそう言って、イーラに目を向ける。

「そろそろ仕事だろう」

「分かってる」

 父の言葉に呼応するようにロイが席を立った。

「そろそろお暇としますか」

「ルイ、また来るからな。無理はするなよ」

 父とロイが戸口に向かう。しかし、イーラはソファに座ったまま動かない。

「イーラ?」

 父が呼びかけると、彼女は座ったまま「先に行ってて。すぐに追いつくから」と何でも無い風に言った。

「ああ」

 父は短く答えて、ロイを連れてそのまま応接室から出ていく。

 あとに残ったイーラはソファに座ったまま、僕に視線を投げかけた。

 イーラは貧民街では珍しい金色の髪をしている。よく手入れされた長い髪と、胸を強調する藍色のドレスが彼女の美しさを際立たせていた。

 その容貌に加えてどこか陰のある表情が、彼女を娼館街一の高級娼婦まで押し上げた。彼女の憂いを帯びた表情は、客の支配欲を強く刺激するらしい。

 僕もまた、彼女の陰のある仕草や視線に弱かった。

「ルイ、ねえ。お願い」

 掠れるような小さな声で、彼女はそう言った。

 一見すると意図の不明瞭な言葉だっが、付き合いの長い僕には彼女が何を求めているのかすぐに分かった。

 僕は頷いて、ソファに座る彼女の前に立った。

 そっとイーラの肩に手を回し、その小さな頭を胸に引き寄せる。

 彼女の安堵するような息遣いが胸元で感じられた。同時に消毒液の香りが鼻をついた。

 この儀式めいた行為を始めにしたのは一体いつだったか、既に記憶は曖昧だ。とても幼かった頃から続けている気がする。

「大人は誰も信じられない」

 かつての彼女は、そう言って人目につかない所でよく泣いていた。

 高級娼婦ですらなく、寂れた安宿街で布切れ一枚で立たされていた彼女はいつも顔を伏せていた。

 その頃からずっと、この儀式は続いている。

 どこか恥じるように胸元でイーラが身じろぎし、それからそっと身体を離す。

「ありがとう。落ち着いた」

 イーラはそう言って陰のある薄い笑みを見せる。

 仕事前の彼女は、昔から精神的に不安定になりやすい。僕はかける言葉を見つけられず、ただ手を差し出して彼女が立ち上がるのを助ける事しか出来なかった。

 言葉もなく、どちらからともなく戸口に向かい、廊下に出る。

 その時、鋭い声が飛んだ。

「驚いた。お前たち、何をやっている」

 振り向いた先には、支配の御子フランツィスカ・フォン・グランデーレの姿があった。

 その瞳は怒りによって燃えるように朱く染まり、軽蔑と嫌悪の感情が宿っている。

「聖なる御子の身でありながら汚らしい娼婦と密会するなど、どういう了見だ。答えろ、慈愛の御子ルイ」

 あまりにも迂闊で軽率だった、と言わざるをえない。

 イーラの露出度の高いドレス姿はどう見ても高級娼婦であったし、神殿内部で不埒な行為に耽っていたと誤解を受けても仕方がないものだった。

 今更のようにこの状況のまずさに気づき、嫌な汗が額に滲んだ。

 弁明の言葉を探すも、何を言っても火に油を注ぐだけのような気がして結論の出ない迷路を思考がぐるぐる回る。

 言葉を失う中、すぐ隣にいたイーラが音もなく前に出た。

「グランデーレ聖猊下。私と彼はただの古い知り合いでしかありません」

 囁くような、しかし冷たく突き放すような声色でイーラが否定の言葉を口にする。

 フランはイーラを刺すような視線で見つめ、それから考えるように目を閉じた。

「名は?」

「娼館アインンズヘルムに身を寄せるただのイーラでございます。此度は彼の父とともに参りました。ご存知の方もいらっしゃるはずです」

「アインズ、ヘルム……」

 フランが娼館の名前を繰り返す。

 恐らく、聞いたことがあるのだろう。アインズヘルムは社交界と深い繋がりのある高級娼館だ。上流階級の婦人には、アインズヘルムから身請けされた者も数多くいる。

「……なるほど。私の誤解だった。謝罪しよう」

 身元不明の怪しい娼婦でないと分かったからか、フランの緋色の瞳から怒りの炎が消える。

「しかし、二人きりで密室に籠もる事は感心しない。今後、控える事だ」

 フランがそう言って、立ち去ろうと踵を返す。その背中をイーラの冷たい声が追った。

「我らが大いなる主はあらゆる人に公平であるはずです。父と子が二人で会う事を誰にも咎められないように、御子様と娼婦が二人で会おうと何も問題はない。それが大神殿の教えではありませんか」

 フランの足が止まった。

 危険だと思った。

 娼館アインズヘルムは後ろ盾として強いものではない。ここでイーラがフランツィスカ・フォン・グランデーレの怒りを買うべきではない。

 僕はイーラを制止しようと首を小さく振る。しかし、彼女はフランの背に対して冷たい視線を向けたまま退こうとはしない。

「大いなる主は確かに何者にも公平だが、聖職者は決して身体を売らない。それが神聖であるという事だ。覚えておくがいい」

 フランはそれだけ言って、立ち去っていく。イーラは何も言わず、その背中を見送っていた。

 後にはフランの足音と、沈黙だけが残された。

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