第2話

「ルイ聖猊下、気分が優れないようですが……」

 侍女のアリア・ミラーが法衣を脱ぐ手伝いをしながら、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 自室に戻った僕の頭の中には、フランツィスカ・フォン・グランデーレの痛烈な言葉が繰り返し鳴り響いていた。

 ――君は惰弱だな。

 反論の余地がなかった。

 流されるまま慈愛の御子として法王選に臨もうとする薄弱な意志が完全に見透かされていた。

「あれだけの民衆を前にすれば、ルイ聖猊下が重圧を感じるのも無理がありませんよ」

 アリアが言葉を続ける。

 彼女が僕の侍女に任命されたのは三日前の事だった。まだ互いによく知らない仲ではあるが、滲み出る人柄の良さからつい本音が漏れてしまった。

「いえ……気分が悪いわけではなく少し落ち込んでいまして。先程、グランデーレ様に御子としての目的を聞かれたんです。僕は何も答えられませんでした」

 アリアは黙って、続きを促す。

「僕は法王という存在について、その執務について良く知りません。あまりにも知識が欠落しています。法王という具体像が未だに描けていない。だから何も答えられませんでした。ただ流されてここにいるだけの空っぽな僕がいました」

 アリアを見る。

 彼女は僕よりも神殿に近しい位置で生きてきたに違いない。

 法王という存在について、より良く知っているはずだった。

「先代のヴィクトール聖下はどのようなお方でしたか? どのような思いを抱え、法王として執務に当たっていたのでしょうか?」

 アリアは一瞬、驚いた顔を浮かべ、それから困ったように笑った。

「申し訳ありません。私、ヴィクトール聖下とお会いした事がないんです。ご存知なのは枢機卿団だけです。直接繋がりのあった方々は崩御に合わせてお隠れになりましたから」

「お隠れに?」

 思わず問い返す。

「ええ。法王聖下が崩御された際は、周囲の人間もそれに付き従うのが慣例なんです。枢機卿団だけは次代の御子様をお助けするため現世に残りますが」

 思わず動きが止まった。

 周囲の人間もそれに付き従うとは、つまり、法王と共に死を選ぶという事なのだろう。

 そんな事は聞いたことがなかったし、ガランドの説明にもなかった。

 呆気に取られる僕に、アリアが冗談めかして笑う。

「だから、ルイ聖猊下にもしもの事があった場合は、私も付き従いますよ」

 出会ってまだ三日であるというのに、アリア・ミラーは確かにそう言った。

 冗談めいた言い方ではあったが、彼女はきっとそれを実行するだろうと思った。

 御子という立場、法王という立場はそれほど重いのだ。

 数多の民衆の運命を左右し、近しい者の命すら道連れにする。それが法王の座に君臨するという事なのだろう。

 ――君は惰弱だな。

 フランツィスカ・フォン・グランデーレの言葉は正しい。

 御子という役割をただ流されるままに演じようとしていた僕はどうしようもなく愚かで惰弱だった。

「アリアさん、歴代の法王の記録などは残っていますか? 歴代の法王が為してきた事が知りたいんです」

「書庫があったはずです。私のような者は入る事を許されていませんが、ルイ聖猊下なら大神殿内のどこ部屋でも好きに入れるはずです」

「書庫……」

 アリアの手を借りて法衣を脱ぎ終わり、楽な普段着に着替える。

 普段着と言っても、僕が貧民街で着用していた布切れとは違う。随分と肌触りが良く、鮮やかな深緑色に染められたものだった。

「少し、出かけてくるよ。アリアさんはもう休んで大丈夫です」

「はい。ではお言葉に甘えて」

 アリアがにっこりと笑ってお辞儀する。

 僕も一礼して、あまりにも広すぎる自室から廊下に飛び出した。

 この大神殿の中を、僕はよく知らない。

 初日にガランドに案内されたのは大食堂や礼拝堂、庭園や神殿騎士の詰め所などで、大部分の施設については何も聞かされていなかった。

 部屋を出て左が大食堂に繋がっている。反対側にはあまり足を運んだことがなく、探索もかねて右側に進むことにした。

 長い廊下は大きな窓によって明るく照らし出されている。窓には採光に適した透明なガラスが使われていた。貧民街の端にある高級娼館でもこんな素材は使われていないだろう。

 大神殿の造りは聖都中に法王の威光を見せつけるように、贅沢の限りを尽くしている。

 建築物だけではない。食事だってそうだ。貧民街で主に食べられている固くて黒いパンはここでは出てこない。柔らかくて白いパンと高価なジャムがついてくる。

 なんだか夢を見ているようだった。

 考えながら歩いていたせいか、前から近づいてくる足音に僕は気づかなかった。

 突然曲がり角から姿を表した女性とぶつかりそうになり、慌てて足を止める。

「ああ、ルイくんか。奇遇だね」

 視界に銀色の髪が舞った。

 涼し気な青い瞳が間近で僕に向けられる。

 破壊の御子ベルタだった。

 僕と同じく平民出の彼女は、実に気さくな様子で声をかけてきた。

 同じ御子として彼女とは何度か話したことがある。少なくとも貴族であるフランツィスカ・フォン・グランデーレよりは接しやすい。

「ベルタさん。お散歩ですか?」

「うん。この神殿は見慣れないものばかりだから」

 ベルタはそう言って微笑む。

 僕より一つ年上の彼女は、御子という立場に放り出されても状況を楽しむ余裕があるようだった。

「どこか出かけるの?」

「書庫を探してるんです。歴代の法王様の記録が残っていると聞きました」

「書庫? ルイくんは文字が読めるの?」

 ベルタが不思議そうに首を傾げるのも無理はない。

 貧民街の識字率は恐ろしく低く、僕が文字を学ぶ機会に恵まれたのも偶然だった。

「はい。一応、一通りは」

「教会で教えてもらったの? 意外と信仰に厚いんだ?」

 どこか意外そうな顔をするベルタ。

 僕は思わず苦笑した。貧民街に教会はない。全てを救う神は存在しなかった。

「近くの娼館に文字を読める人がいて、その人がお客さんを取っていない暇な時に教えてくれたんです。将来役に立つからって」

 娼館、という言葉にベルタの表情が固くなるのが分かった。

 彼女は平民出ではあるが、貧民街で育ったわけではない。彼女が知る聖都と僕が知っている聖都は恐らく別物なのだ。

「それより、ベルタさんも一緒に書庫に行きませんか? 法王選に向けて準備が必要だと思います。きっと、グランデーレ様は僕たちよりずっと有利な立場にいます」

「ううん。私はいいよ。私は破壊の御子だから」

 彼女は諦めたように笑いながら首を振った。

「破壊の力なんて、振るう事のない方がいいんだよ。表に出るべきじゃない。そう思わない?」

 私はね、と彼女は言葉を続けた。

「旗の色を決めるのに、軍事力を押し出すべきじゃないって思うんだ。旗を持つべきはきっと慈愛の御子であるルイくんだよ。だから歴代の法王様で慈愛の御子が最も多く選ばれてるんだ」

 肯定も否定も出来なかった。

 黙った僕を見て、ベルタが明るい声で話を続ける。

「聖女イリアって知ってる? 列聖第二位の。破壊の御子でありながら法王の座に君臨して、侵略者から聖都を守りきったの。彼女は外敵を排除するとすぐに法王の座を他の御子に譲ったんだって。きっとそれが破壊の御子のあるべき姿だと思う。私は聖女イリアのようになりたい」

 だから平時の法王の座なんていらない、とベルタは笑ってみせた。

 彼女は既に破壊の御子としての答えを持っていた。

 諦めているだけではなかった。あるべき姿を思い描き、身を引こうとしていた。

 僕と同じだと思っていたが、思い違いをしていたようだった。

 ――君は惰弱だな。

 フランツィスカ・フォン・グランデーレの言葉が脳裏に蘇る。

 僕だけが出遅れていた。置いていかれていた。

「……ベルタさんは、凄いと思います。僕はまだ御子としても法王としてもどうすれば良いかなんて全く答えが出てない状態で――」

 そこで僕は言葉を切った。

 後ろから慌ただしい足音が聞こえたからだ。

 振り返ると、廊下の向こうから一人の神殿騎士が走ってくるところだった。

「ルイ聖猊下。お父上と友人を名乗る者がいらっしゃっております」

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