第8話 謎の名前
その音が怖くて、思わず肩を揺らしてしまった。そっと隣を見ると、陛下は微動だにせずビューを見ている。
ビューと陛下の間には、やはり何かがあるらしい。
「……皿が割れたよ。片づけが大変そうだ。ビュー、お前はその短気な性格を直せ。それに、妃を名前で呼ぶのを止めろ。あらぬ誤解を周囲に与える」
床にまで散らばった皿を一瞥すると陛下が立ち上がる。
「そろそろ戻ろうか」
そう言うと、なぜか私の目の前に陛下の手が差し出された。
……困ったわね。素直にこの手を取っても良いのかしら? 私を一生愛さず、皇帝としての義務だけ守ると言っていたのに。それを伝えたビューの前で、仲良くする必要はないんじゃないかしら。
それに、話の流れ的にビューが言っていた「ティーレ」は陛下の想い人だ。
どうして、その人がいるのに私を妃に迎えたのかわからない。正式な結婚もまだだし、その人がいるのに、私が陛下に触れて良いはずがない。
「一人で大丈夫ですわ」
断って立ち上がると陛下と目が合った。
その表情に困惑した。
なぜなら、陛下がとても哀しそうに私を見ていたから。
「陛下……?」
「なんでもない。戻ろう」
私に背を向けて歩き出した陛下を追い駆ける。すると、ビューの声が私を引き止めた。
「エリカ。困ったことがあったら、すぐにここへ来い。国に帰りたくなったら、いつでも手を貸すから」
その言葉に、私は目を丸くした。
陛下とビューがどんな関係なのかわからないが、これは不敬と取られてもおかしくない。妃を国に帰そうと言うのだから。
「……ビュー、何度言えばわかるんだ? 妃を名前で呼ぶな」
「俺は、お前のことを信じていない。命令も聞かない」
顔を歪めて拳を握るビューからは憎しみが見えた。
そこに私は踏み込めず、何とも言えない雰囲気に耐えきれなくなり、小さく息を吐く。
これは、二人に何があったのか情報を集めないと。調べることが色々ありそうね。
「陛下、街へ行きたいので許可を下さい。そして、今夜は見学のために街で泊まってみたいので、この国の貨幣を頂きたいです」
空気をぶち破るようにそう言うと、二人が目を丸くした。
情報を得るなら、城の中もだが街の中の方が色々聞ける可能性が高い。
城に仕えている者達は、陛下の情報を他国から来た私には教えてくれないだろう。なら、面が割れていない街の方が有意義な情報が掴めそうだ。
狙いは、城や貴族の屋敷に出入りしている商人や職人、それに働いている下働きの者達。食堂や酒場に行けばいくつか聞けるはずだ。
中には、根も葉もない噂に尾ひれが付いているものもあるが、真実は必ず含まれているだろう。
それに、ハイブリーの地理も確認したい。
何処にどんな建物があるのか、満潮と干潮も把握しておきたかった。危機が迫った時、対処出来るように。
頭の中で考えを纏めていると、陛下の笑い声と、ビューの呆れたような声が聞こえた。
「あのさ、エリカは何を考えているんだよ。空気読めよ! どうして、この状況で街へ行くなんて発想が出るんだよ。真面目に怒っていた俺が馬鹿みだいだ」
口は悪いが、なぜかビューも笑いを堪えているようにも見える。
……まさか陛下まで笑うなんて。そんなに笑う要素はないと思うのだけど。
「陛下、許可して頂けると言うことでよろしいですか? 外にいるローザとオルカから貨幣を頂けば良いでしょうか?」
陛下が持っているとは思えず、外へと行こうとすると、いきなり腕を掴まれた。
「許可は出来ないよ。王族が街へ行く場合は護衛や相応の用意がいるんだ。それに、今は周囲が煩くて無理なんだ。もう少し落ちついたら連れて行ってあげるよ」
きっぱりと無理だと言われると無性に行きたくなる。
「ビュー、服とお金を頂戴。交換はこの指輪で良いかしら?」
陛下に掴まれていた腕を無理やり振り払う。ビューの元へと行くと、小指に嵌っていた真っ赤なルビーを抜いた。
「……本当に行く気か? それも一人で?」
「ええ、城にいても食事の度に毒を盛られそうだし。それに、他にすることと言ったら、貴族の婦人方やお嬢様とのお茶会でしょ? 私は最低限の社交しか致しません。そのお相手はティーレさんにでもお任せしたら?」
少し嫌味を込めて「ティーレ」の名を出すと、二人の顔が強張った。
「……わかった。なら、私も一緒に行きましょうか」
「えっ?」
まさかの発言は陛下のもので、これみよがしに大きな溜め息を吐かれた後、私を見つめる。
……さっきは街へ行くのは護衛とか色々と大変って言っていたのに。意味がわからないわ。
「お忙しいでしょうから、陛下が一緒でなくとも結構です。道案内がてら、護衛を一人付けて頂ければ十分ですわ」
陛下がいたら聞き込みもままならない。それに、好き勝手に行動出来ない。それは絶対に避けたかった。
「私が一緒では何か問題でも?」
「……そんなことはないのですが、護衛はいかがなさるのですか? それに、周囲が煩いと言われたではありませんか」
負けじと言い返していると、いつの間にか姿を消していたビューが、女物の服を手に戻って来た。
「話はついた? 俺はこの後、薬術師の集まりがあるから一緒には行けないけど、楽しんで来いよ。夜は賑やかだけど飲みすぎるなよ」
あげるとばかりに、ビューが服を渡してくる。
ビューが女物の服を持っていることに疑問が沸いたが、そこはあえて触れず、服を広げてみた。すると、小さな麻袋が零れ落ちる。それを慌てて握り締めた。
シンプルなドレスは薄手の生地で肘の辺りまで袖がある。そのドレスの上にレース編みのショールを羽織るらしい。
見事なレース編みね。さすがはハイブリーの産業の一つだわ。ドレスの質も手触りの良い絹のようだし……私が着ても良いのかしら?
「本当に良いの? とても素敵なドレスだけど」
「ああ、……妹のドレスだ。エリカなら問題ない。妹と体型が似ているようだから大丈夫だと思うけど、あっちで着替えてくれ。一人で着替えられるか?」
「ええ、ありがとう。大丈夫だと思うわ」
ビューには妹がいるのね。ありがたく借りましょう。
ビューが教えてくれた部屋へと向かおうとした所で気が付いた。
陛下がじっと、このドレスを見ていたことに。
ドレスを見つめるなんて変な陛下ね。顔が強張っているようにも見えるけど、気のせいかしら? それよりも陛下の気が変わらない内に着替えましょう。
調理場の続き間になっている扉を開けると、小部屋だった。
どうやら書斎も兼ねているようで、いくつもの本棚や机がある。
「エリカ、本当に行くのですか? ハイブリーへ来てから二日目で行動が大胆過ぎませんか?」
髪からカーヤが飛び降りると、目の前の机へと着地した。
「そう? 早くハイブリーを見たいの。発明大国って聞いていたからとても興味があるわ。それに、毒の出どころも気になるし。もし、本当に私を殺したいなら、街で襲うのには打って付けだと思わない? 捕まえるのには絶好の機会よ」
着替えながらカーヤを見るが、蜘蛛のせいか何を考えているのか表情が読めない。
「わかりました。ただし、絶対に危ない真似はしないで下さい。それと、感情を抑えるように。危険が増しますから」
「……わかっているわ」
カーヤから説教を受ける時は、いつも最後は同じ「感情を抑えるように」「危険なことはしないように」いつもそれだ。
しかも、いつまでも敬語が抜けない。他の姉妹達のように普通で良いのに、私達はそれが出来ない。
母様が死んだあの時から、カーヤと私の間では溝が出来た。あの時から関係は変わってしまった。
それが時に悲しくて、寂しくてたまらない。カーヤは仕方なく私と一緒にいるのではないかと思ってしまうから。
「これで良いかしら?」
着替え終わると、くるりと回ってみる。すると、ふわりとスカートが揺れた。
動きやすくて可愛い。
思わず笑みが出そうになり、慌てて心を落ち着かせる。
「良く似合っていますよ」
着替え終わると、カーヤがまた髪によじ登る。そして、着替えで乱れた髪をまた、器用に纏めてくれた。
その間、部屋の中を見渡していると窓が目に入る。しかも、中庭ではなく外へと繋がっているらしい。
「エリカ……! 怒られますよ」
カーヤが止めるのも聞かず、窓を開いて外を確認すると勢い良く飛び出した。
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