第二話 運命の出会い(7)

 校舎に向かって走るカームの姿を、カフェテラスから見下ろす。

「どうしたんですか、フィリス先輩」

 注文を給わっていたフィリスのパートナーであるエラがトレイをテーブルに置き、席に着く。

「ちょっと意外な姿を見ただけよ」

「はぁ」

 分からないような声を上げる後輩女子に「何でもないわ」と微笑む。

 エラは顔を赤らめ、誤魔化すようにカップを口に運ぶ。

 その行動が可愛くて、つい笑んでしまう。

「エラは、あの一年生の少年くんとお友達だったわよね?」

「少年……ソラのことですか?」

「ええ」

「えっと、友達と言えば、友達ですね、はい……」

 照れを隠すように、またカップを口へと運ぶ。

 その隠した口から、「ソラの方から言ってくれたから、間違いないわよね」と呟いているのがぽつりと聞こえたフィリスは、思わず破顔してしまった。

 本当に、エラという子は、可愛くて仕方がない。

「そのソラって、どんな子なのかしら?」

「二つ年下……たしか十四歳で、背が標準よりも低くて、顔はどちらかと言えば中性的で、いつも楽しそうで――」

「いえ、そういうことじゃなくて……」

 止めようとするフィリスに構わず、エラが続けていく。

「それで、すごく頑張り屋で……うん、いい子です」

 言い切った感を滲み出すエラに、フィリスは可笑しくて吹き出してしまった。

「ありがと、よく分かったわ」

 エラが注文してくれたケーキを一切れ、口に運ぶ。

「あと、ソラのもう一人の友達のレイが――」

 自分の友達ではなく、ソラの友達と遠回しに言っているところが、また可愛らしい。

「ソラと寮が同室なんですけど、なんかここ一週間ほど、夜更かしして練習してるらしいです」

「練習?」

「はい、ロウソクに火を点けて、火のエレメントで熱を遮断する練習って言ってました。ずっと火が灯ってるから眠れないって、ぼやいてましたけど」

 それは冗談だと思いますけど、と苦笑しながらエラがケーキを頬ばる。

「ふむ……」

 顎に手を当て、思案に耽るフィリス。

「フィリス先輩?」

「エラ……その話、もっと詳しく教えてくれるかしら」

「は、はい……」

 身を乗り出す勢いのフィリスに、エラは驚きながらも口を開いた。


            ※


 走るようにして寮室に戻ったカームは、そのままベッドに突っ伏した。

 息が苦しい。体中が熱い。

 駄目――気持ちを落ち着けなきゃ。

 『誰も憎むな。人より強いと驕るな。気高く、誇り高くあれ。そして心は常に穏やかであれ』

 心を落ち着かせるため、火使いとしての師でもある父の言葉を反芻する。

 心臓がドクドクと鳴り、頭もまた脈打つように痛む。

 体が、そして心が落ち着くまで待ち続ける。

 体の火照りが冷め、心臓が落ち着くころには、カームは眠りについてしまっていた。


            ※


「明日は休息日かぁ」

 午後の実技を終えて寮室に戻って早々、レイがうんと背伸びをする。

「ちょうどよかった」

 用意し終えた荷物を肩に担いだところでレイが帰ってきたのだ。

 休息日はミュールと過ごすことになっている。

 レイには、休息日に寮室を空けることは知らせているが、その行き先がミュールの家であることは秘密にしている。

「行くのか?」

「うん」

「そっか、一緒にアルコイリスに行ってみたい思ってたんだが、仕方ないな」

 ソラを横切り、レイが椅子に腰掛ける。

「エラでも誘ってみたらいいんじゃないかな?」

「エラか……」

 レイが顎に指を当て、

「気が向いたら誘ってみるわ。あいつがいれば、退屈しなさそうだしな」

「そうしてあげて。ちなみに、誘うときにそれ言っちゃ駄目だからね」

 そう言い残し、寮室を出ようとドアノブに手をかける。

「ソラ」

 呼ばれたソラはドアノブを握ったまま振り返った。

「あんまりさ、ひとりで抱え込むなよ。言葉を吐き出すだけでも、楽になるぞ」

 思わずと目を見開く。

「……うん。ありがとう」

 胸がくすぐったくなり、心が少しだけ安らぐ。

 正直、迷ってた。

 だけど、レイの言葉で決めた。

 明日、相談しよう。


            ※


 それは悪夢。

 もう何度も見た。

 二度と味わいたくもない、あの痛み。

 まだ幼い頃、父の教えを破り、自分にはもっと凄いことできると自惚れ、その代償にカームは失った。

 手のひらで生まれた炎が制御を失い、手を焼き、腕を焼き、胸を焼き、そして――


「――っ!」

 突っ伏したまま、目を見開く。

 これまでに何回、何十回、いや百回以上見ただろうか。

 もう慣れた。

 幼い頃は、悪夢を見る度に全身を焼かれるような痛みに苛まれ、ひたすらありもしない痛みに耐え続けた。

 それが、大人になるに連れ、悪夢は見続けるというのに、心はその悪夢を自戒とし、自らを成長させる糧にすらするようになった。

 それでも、悪夢は消えない。消えてくれない。

「はぁ……」

 溜息が漏れ、ベッドから下りる。

 いつの間にか、夕焼けが差し込んでいた。

 世界が茜色に染まる。

 部屋も、そして自分の体も。

 それはまるで世界が燃えているようで、自分も燃えているようで――

 体中が湿っている。

 相当な汗をかいたのだろう。

 シャワーを浴びようと、洗面室に入る。

 制服を脱ぎ、籠に放り込み、浴室に入る。

 体が熱い。

 冷水のまま頭から浴び、椅子に座って頭を俯かせる。

 自慢の赤毛のロングヘアーが視界を遮断する。

 睨み付けるように、髪の隙間から正面を見据える。

 そこにあるはずの鏡が、カームの寮室の浴室にはない。

 あるはずの鏡は、入寮してから数日でカームが怒りで叩き割ってしまった。

 拳の骨が折れ、破片が刺さり、右手は真っ赤に染まっていた。

 同室の子が音に気づき、勝手に先生を呼び、大騒ぎになった。

 落ち着いたカームは、保健室で治療を受けていたところを訪ねてきた学長に事情を説明した。

 説明、というよりは、見せた。

 腕を――この、自身の炎に焼かれ、爛れた醜い腕を。

 手から腕、胴体は首下から腹部まで――カームの体に焼き付いた火傷の痕。

 成長すれば痕も薄くなると言われたが、この歳になっても痕は色濃く残っていた。

 同時に、それは女としての尊厳をも奪い去った。

 十九になればとうに膨らんでいるはずの胸も、皮膚が変質し、自分でさえも目を背けたくなるほどに歪となっている。

 イリダータに来るまで、自分の裸体を見ないよう無意識に避けていた。

 それが、この浴室で不意に見てしまい、頭に血が上ってしまったのだ。

 いや、嫌悪したと言ってもいい。

 もう、大丈夫だと思ったはずなのに。

 乗り越えられたと思ったのに。

 ただ避けていただけで、何の解決もしていなかった。

 それを、皮肉にも自分自身と文字どおり向き合ったことで、実感させられた。

 同僚の子は申し訳なさそうに別の部屋に移った。

 だが、それは自分が悪いだけで、彼女は悪くなかった。

 最悪にも、カームは心の制御を失い、エレメントを暴走させてしまっていたのだから。

 結果、部屋を燃やしてしまうところだったが、たまたま部屋の前を通りかかったフィリスの機転により、出しっ放しになっていたシャワーの水を使役し、カームの火を鎮火させたのだ。

「カーム、いるのでしょう」

 聞き慣れた声に、カームは意識を戻した。

 気がつけば、体が凍えるほどに冷え切っていた。

 シャワーを止め、浴室に出て私服に着替える。

 制服も私服も、そして寝間着でさえも、カームは肌を晒さない。

 このことを知っているのは、イリダータでは学長と、そして――

「ああ、シャワーを浴びてたのね」

 夕日はとっくに沈み、代わりにランプの火が部屋を灯す。

 フィリス・アークエット。

 数少ない――いや、唯一と言ってもいいかもしれない。

 自身をカームと呼ぶことを許可していないのにカームと呼び続け、並び立とうと努力し続ける同年生。

 イリダータでは間違いなく最高の水使い。

 あの小火の鎮火により、カームの同室にフィリスが代わりに入ってきたのだ。

 フィリスは「いい迷惑ね」と言いながらも、ここに来てくれた。

「私も浴びようかしら。今日は久しぶりに頑張ったから、汗かいちゃった」

 カームを横切り、入れ替わるフィリス。

「後輩の指導は疲れるわね。やり甲斐はあるけど……学ぶこともあるし」

 まるで耳元で呟くように、フィリスが言う。

 咄嗟に振り返ると、フィリスは洗面台のドアを開けたところで立ち止まっていた。

「カーム。明日、私に付き合いなさい」

「はぁ?」

 明日は休息日だ。授業はなく、外出も許可がいらない。

「生憎だけど、私は特訓があるの。トーナメントも近いし――」

「いいから!」

 カームの言葉を遮る、静かな怒りを含んだ声。

「……いいから、付き合いなさい」

 それだけ言って、フィリスは後ろ手にドアを閉めた。

 気圧されたわけではない。

 だけど、カームは何も言い返せず、黙ってフィリスの背中を見送った。

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