第07話 ちさとの先生は、そこにいる
ちさとの目の前に、死んだはずの『司の妻』が立っている。姿は透け、白い着物を着けている。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!!」
ちさとは慌てて、両手を合わせて仏壇に手を交わせる。
【ちょ、落ち着いて、ちさとちゃん。】
「な…なんで、なんで声まで聞こえちゃうの!?」
ちさとは完全にパニックとなっていた。
【ちさとちゃんに、お願いがあるって…言わなかった?】
「え?…あ…?…。わかんない」
ちさとは必死に思い出すが、『夢の出来事』と認識していた記憶は、簡単に出てこなかった。
「あの…司さんの、奥さん…ですよね。」
【そうよ。あ、そっか。ちさとちゃんには、ペンネームで言ってるのね。】
ちさとは頷く。
「なんで?私、見えちゃってるの?聞こえちゃってるし。わかんないよ」
【さー。なんででしょうか。私も分からないけど、お話できるのは都合が良いわね。】
ちさとには、彼女の表情までは、見えていなかったが、声が聞こえる事で、そこまで強く恐怖を覚える事は無かった。
「お願いってなんで?」
ちさとが聞く。
【その前に、自己紹介。私は
司の妻、優希は、ゆっくりとお辞儀をしたように、ちさとは感じた。
【ちさとちゃん。私はもう、あの人に触れる事は出来ません。お話する事も出来ません。だから、
ちさとはそんな優希を見て、自分の想いを懸命に言葉にしようと考えた。
「ゆ、優希さんは、それでいいんですが?その、イライラしたりしないんですか?私なら、そんなの嫌。好きな人が見えているのに、何もできないなんて嫌です。」
その想いを聞いて優希は、少しの間考えている感じがする。
【ちさとちゃんは、本気でみーちゃんを好きになっているのね。いい?私の幸せは、みーちゃんの幸せな顔を見ることなの。】
「パパの、幸せな顔?」
【そう。今のみーちゃんは、貴女お陰で、笑顔を見せるようになりました。私は、それが嬉しかったのです。】
「そう…なんですか。」
ちさとは、短い間の司しか知らないので、思い出す限りの司は、笑顔が多かった記憶しか無かった。
【それで、ちさとちゃんには、みーちゃんの笑顔担当って事でー、お願いしたいなーって】
「え、笑顔担当って…」
【代わりに、私がちさとちゃんのお勉強を見てあげます。】
「ええーーー!?」
ちさとはつい、大きな声を上げてしまう。すると、周囲が慌ただしくなった。
「ち、ちさとちゃん!?」
最初に来たのは咲良だった。スマホの懐中電灯モードの光で、ちさとを照らす。
「ビックリしたー。仏間から声がするから、誰かと思ったよー。」
そう言うと、その場にペタリと座り込んだ。
「お、お姉ちゃん。ごめんなさい」
ちさとは深々と頭を下げる。
「いいのいいの。何かゴソゴソ聞こえたから、てっきり泥棒がちさとちゃんをXXXでXXXな事に…」
「ならねぇよ…ってか真っ暗で何やってるんだ二人とも。」
「あ…お義父さん…」
その後ろから司もやってきた。司はすぐに仏間の照明をつける。明るくなった部屋で、ちさとは周囲を見回したが、優希の姿は無かった。しかし、飾られていた写真の顔が、何だか笑っているように感じた。
ちさとは、仏間にいた理由を『トイレから戻る時に、間違えた』と説明した。本当の事を伝えても、信じてもらえないと思ったからだ。
しかし、ちさとにはしっかり聞こえていた。
【ちさとちゃん、お出かけの時は…私も連れて行ってね。】
―――翌日。
再び、あの場所へ出発するための準備を進めていた。キャンピングカー室内の掃除、機械系や足回りの点検、そして着替えと食料の買い出しである。
「パパ…ひとつだけお願いがあるんだけど…。」
「ん?なんだ?ちさ」
「優希さんを…連れて行きたいんだけど…いいかな?」
ちさとは仏壇に置いてあった『位牌』を指差して言う。
「ん?ああ、構わないよ。」
(あれ?俺、一度も優希の名前を、ちさに話してないような…。咲良ちゃんかな…?)
司は疑問に思いつつも、ちさとのお願い通りに『位牌』を仏壇からキャンピングカーに運び、倒れないようにしっかりした場所へ設置して、二人は出発する。
始めに買い出しのため、近くのショッピングセンターへ立ち寄った。買い物中のちさとは、終始司の腕を組んで歩いた。
「おいおい…そんなに引っ付いて…なんか恥ずかしいな…。」
「いいの。なんか、こうやって買い物するのも初めてだし、今までより一番デートっぽいじゃない。」
「お…おう。まぁ、どちらかと言えば、親子が普通に買い物してるようにしか見えてないようだが…」
「どっちでもいいじゃない。パパだもん。」
今回の予定では、ちさとも料理に参加する事になっているので、司は少し心配になっていた。
「子供用のセラミック包丁とか買っておこうか?」
「むー。馬鹿にしないでよ。一応これでも、ちょっとは料理してたんだからね」
「お…おう。それは意外と言うか…。ちゃんとしていると言うか…。」
意外な一面を時々見せるちさとに、司はいつも驚かされるばかりだった。
(違うよ…パパ。私は生きるために一人で何でもしなきゃいけなかったんだから…。)
ちさとは、同い年の子が小学校に通っている年代には、既に自分で簡単な料理は作って食べていた。最初は料理を丸焦げにして、母親から酷く怒られたが、上達する度に褒められ、それが次のステップとなっていた。しかし、ある程度上達すると、母親はちさとの食事を作らなくなっていった。そんな苦い思い出がちさとの心を
(でも…今は違う。私の作った料理を大好きな人に食べてもらえる。もう…一人じゃない。寂しくなんか…無い)
買い物を終えた二人が、キャンピングカーへ戻って来る。
「ちさ、酔い止めの薬。ちゃんと飲んだか?」
「あ…忘れた」
「なんだ…だったら早くの…むぐっ」
ちさとの不意打ちキスは、もはや定番化しているような気がすると、司は思った。
「おま…だから、そういう行為は控えろって…」
「えへ。だって、あっちに行ったらしばらくお預けだもん。今のうちに…ね。あと、薬はちゃんと飲んだよ。」
(出会った頃の…キララだった頃とはまるで違うな…まったく、無邪気な笑顔しやがって…。)
こうして二人は、再びS県へ向かって走り出した。道中はちさとの体調を考慮し、司が普段の旅で考えている距離よりも短い距離で、休憩を入れる事を心がけた。
「すまんな、急な事で例のキャンプ場行けなくて。」
途中のパーキングエリア内にて、休憩中の車内で発した司の言葉に、ちさとは首を横に振る。
「いいんです。やらなくちゃいけない事を、全部終わらせたら、その時に連れてってくださいね。」
ちさとの顔には、まだ若干の不安が感じられた。しかし、ひたむきに前向きな姿勢を見せるちさとに、司は自然と笑みがこぼれるのだった。
ちさとは休憩の合間に、購入していた『ひらがな練習本』を熱心に見て、書いてを繰り返していた。なにやらブツブツ呟きながら取り組んでいるちさとを遠目に見ながら、司はコーヒーを飲んでいたが、何を呟いているのかまでは気にしなかった。
【上手上手。その調子よ。】
「優希さんが教えてくれた『持ち方』のおかげです。いえ、私が知らなかっただけで、普通の人は出来るんですよね」
【それでも、上達が早いのは、ある意味才能としか言えません。】
「絵を描くのが好きだった…から…かな。見て書く事はできるんです」
【凄いね。あ、じゃあ、自分の名前を、漢字で書いてみたら?】
「漢字?」
【あ…そっか、みーちゃんに聞いてみたら?】
優希の言葉に、ちさとは司の方を見る。
「パパ、私の漢字…?ってどう書くの?」
「漢字?まだ早いんじゃないかな…?まぁいいや。」
司はちさとの元へやってくると、書き取りノートを見る。
「凄いじゃないか。もうここまでひらがなを書けるようになっているなんて。」
「えへへ。」
司はちさとの頭を軽く撫でた。そして、空いているスペースに『星野 千怜』と漢字で書いて見せた。
【おー、さとってこう書くんだぁ…。】
司には聞こえなかったが、優希が感心して見ている。ちさとはペンを持つと、かなりゆっくりとではあったが、その漢字を模写して見せた。書き順は全く違っていたが、見た目は確実に捉えていた。
「なるほど…写生って事か。」
「しゃせい?」
「ああ…つまりは、目で見たまんまを書き写す事。それができているのか。」
【ね…みーちゃん、凄いよねー】
「しかし…ペンの持ち方…。誰から教わったんだ?前に書いてもらった時は、こう握りしめていたように見えたけど…」
(ドキッ)
ちさとは、司の確信を突く言葉に、どう説明したら良いか悩んだ。
(うー。どうしよう…。優希(奥)さんに教えてもらった。なんて言っても信じてもらえないし…。)
すると、優希が機転を利かす。
【本の3ページ。そこに書いてあるから、開いてごらん】
ちさとは、言われた通りに本をめくると、そこに鉛筆の持ち方について、絵で描かれた説明が出て来た。
「こ…ここ…これです!!」
ちさとは、司にそのページを見せる。
「へぇー。ちさはそこまで読んでやっているんだね。」
「うんうん」
司は笑みを浮かべると、ノートをちさとに返し、運転席へと戻って行った。
「そろそろ、出発するから準備しなさい」
「あ…はい。」
(よかったぁ…優希さん、ありがとう。)
【どういたしまして。】
ちさとは勉強道具を急いで片付けて、助手席へ向かった。
そんな調子で高速道路をひた走る事10時間。辺りはすっかり暗くなっていたので、その日は懐かしのキャンプ場で一泊する事にした。
「久しぶりですね。」
「ああ、そうだな。ちさと出会った初日に、ここで寝たんだったな。」
(初めて、裸も見てしまった初日だったが…)
「ん?」
「いや…なんでもない。」
その日の夕飯は、二人の共同作業で作るカレー。
「まぁー。カレー、シチューは、初心者でもさっくり作れる、レトルト食品の王道だからなぁ…しかし…。」
司は出発前に買った、カレールーのパッケージを見る。そこには見事に『辛口』の文字がある。
(普段は『中辛』なのに…)
楽しそうに食材を切るちさとを、司はちらりと見る。
「ん?どうしたんですか?パパ」
「いや…ちさと、マジで辛口でよかったのか?」
「はい。前に食べたカレーは、ちょっと辛さが弱いかな~って」
「そ…そうか…」
(優希も確か、辛口が好きだったな…。)
司は過去の食卓風景を懐かしむ。
【みーちゃんは、辛いのがあんまり得意じゃないのよね】
「パパ、辛いの…弱いの?」
「ま…まぁな。全くダメってわけじゃないが…ね」
ちさとには、司の真横でニコニコしながら立つ優希が見えていた。
「優希さん…奥さんの料理で、好きな料理ってあったんですか?」
「ん?ん~」
司は腕を組んで考える。
【肉じゃが!】
「肉じゃが!」
司と優希の声が同時に響き、ちさとは驚いて持っていた『お玉』を落としてしまった。
「あ…すまん、突然過ぎたか?」
「ち…違います。すいません。」
床に落ちたお玉を拾い上げる司に、ちさとの手も同時に触れ合う。
「あ…ん…」
見上げたちさとに、今度は司からキスをしてくる。
【やだ。みーちゃんったら…】
「パパ…」
「す…すまん。あ、床掃除は任せろ。ちさはカレーを見ててくれ」
「あ…うん。」
ちさとは自分の唇に、ソッと指を当てる。
(大人のキス…。凄い…。)
一方の司。
(やっちまった。なんか最近、あいつを見てると、優希に被って見えてしまう)
そこから食事に入るまで、二人は目を合わせづらくなっていた。
―――それからしばらくして。
お互いにシャワーを浴びた後、ちさとは一人(?)二段ベッドで勉強に励んでいた。司もまた、いつもの定位置で、執筆作業をしている。
【お熱いわね~】
「怒らない…んですか?」
【言ったでしょ?みーちゃんの幸せが、私の幸せだって。私は既に死んでいるのよ。嫉妬したところで、それはみーちゃんを不幸にしちゃうから、しません】
「パパが…優希さんが生きている時に…その、他の女性といちゃいちゃした時、あるんですか?」
【ない!】
ちさとの質問に、優希は即答した。
「無いわけ無いじゃないない。だって、良い人だし…その、かっこ…いいし」
【それが本当に無いんだな~だって、私と結婚するまで、彼女居ない=年齢だった人ですから~】
「ん?なんか言ったか?ちさ。」
つい声を荒げてしまったちさとに気付き、司が遠くから声をかける。
「な…なんでもないです。ごめんなさい」
「そっか…ならいんだけど、最近小言が多くなったから、なんか悩みでもあるのかなと思ったんだ。悩みがあるならすぐに言うんだぞ」
「はい。」
(はぁ…私…、優希さんにしっと?しているのかな…)
その日のちさとは、自分の心で渦巻く気持ちを抑えられず、寝落ちするまで書き方練習を続けるのでした。
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