33話 琥珀の魔女
「見てください」
ルシアの細長い指が煉瓦色の道に白い線を引くように伸びる。
見ると、アーケードのタイルには至る所に大きな手が描かれている。
箸を持つ手、鳥や虫を載せている手、器を抱える手など。
道ゆく人が手のイラストの上に佇み、いかにも大きな手の上に載っているかのようにポーズをとっている。
彼らの正面には、カメラや携帯電話を構えた道連れや通行人が必ず一人。
「トリックアートか」
「面白そうですね」
彼らを真似て、ルシアも手のイラストまで歩み寄る。
掌にショートブーツの踵を合わせると、同じくタイルに描かれた鳥の頭にそっと手を置いた。
「一枚お願いします」
「カメラなどないぞ」
「スマホで結構ですよ」
今にも鳥がどこかへ飛んでいきそうだと言わんばかりに急かす。
蘇芳は地球での業務連絡用に使う携帯端末を取り出した。
シャッター音を二回ほど鳴らした後、
『写真写りがいいな。さすがコロニー有数の酒場で歌ってただけはある』
感心したようなウルは言うが、蘇芳は自分にしか聞こえないよう外部に対してシャットアウトしている。
「ありがとうございます。私のスマホにも送ってくださいね」
「無理だ。君のアドレスを知らない」
この機に彼女のアドレスを入手できるかもしれない、などと蘇芳は楽観的に期待していない。
写真のモデルはショルダーからパールホワイトに輝くスマートホンを取り出すと、掌で鳥の頭を撫でてやる自分の写真にピントを合わせた。
携帯画像を撮ると、ルシアはさっさと自分のスマホを引っ込めた。
アーケードを進むと、今度は百貨店。
しかし海外ブランドを揃えた婦人服売り場を素通りし、催事場に近い
『北の巨人ー氷と炎の大地から』
主催者はやはり『ネーベルング商会』だった。
「入りましょう」
油絵以外の技法で描かれた物も多い。
版画や日本画、ステンドグラス、木彫り、石の彫刻さえも。
いずれも熱さと冷たさが背中合わせにぴったりと密着し合うように同居している。
それが蘇芳の包括的な印象だった。
朝日とも日没ともつかない太陽に向かって、一艘の船が波に揺れる様。
長い金髪の女性を、自らが纏う黄金の装束で包みながら抱きしめる王。
夜は湖水に映った月を足元に、剣を胸に舞う花嫁。
「てっきり、こういう物に興味がないと思ってました」
じっくり見つめている蘇芳が気に入ったのか。
ルシアは絵より面白い余興を見つけたように楽しそうだ。
既視感を否定するかのように、蘇芳は目を逸らした。
「昼時だ。地下街に行くぞ」
百貨店自体は近代に遡るが、前身となった問屋は日本の開国前からだ。
そのせいか、老舗の店が多い。
「いい匂いですね。あれはパン屋ですか?」
一通り見て回った末、ルシアが選んだのはパン屋だった。
蘇芳は拒否しなかった。
テイクアウトできるからだ。
店内では居心地が悪い。
積もる話もある。
ドアノブを回すと鈴の重なりと香ばしい匂いが迎える。
「パンの他にも色々ありますね」
フランスパンや惣菜パン、菓子パン、サンドウィッチだけではない。
サラダ、フルーツ、ジュース、ジャムと蜂蜜、バター、チーズ、牛乳、ワイン、クラフトビールなど。
県内の山間部にある農場の直営店だという。
酪農牧畜以外にも、養蜂や醸造にも手を広げているらしい。
「いかがですか、白ワインも」
「昼間から飲むつもりはない」
そう返した蘇芳はベーグルとくるみパンを選び、ブレンドコーヒーのホットをセルフで注いだ。
それに倣って、ルシアもハイジの白パンとシナモンロールを取り、小松菜とバナナの野菜スムージーを注いだ。
会計を済ませると、二人は市街地と郊外を結ぶ壮大な林に囲まれた中央公園まで行き着く。
幸いベンチに腰掛ける者は少ない。
蘇芳が地球に赴任する数年前にパンデミックが起きたことが原因だ。
公園のような密集場所で隣り合わせに密接する状況を誰もが避けている。
ゆえに広い芝生と比べると、ベンチが点在する場末はひっそりとしていた。
「楽しそうですね」
薄らと鱗雲が柔らかい空色を埋め尽くす下で。
芝生に敷いたシートの上で寝転ぶカップルや、犬とキャッチボールをする家族連れ、携帯ゲーム機を手に徘徊する十代のグループなど。
枝には網膜に焼き付きそうなほど赤や黄色の葉が微風に揺れる。
一方で、地面に落ちた枯れ葉は舞うように束になって渦を描く。
普段と変わらない光景だ。
「私は具が入っていないパンの方が好きなんです」
粉雪が舞い落ちたようなパン生地の表面を千切り、そっと口に運ぶ。
「パンの味そのものを楽しめるからです。でもシナモンロールは特別です」
彼女は北国の出身だ。
甘い香辛料を利かせた菓子パンは故郷の味らしい。
「他の店と素材が違いますね。いいお店を紹介していただき、ありがとうございます」
「気に入ってもらえたなら光栄だ」
ベーグルとくるみパンを半分ずつかじり、コーヒーアロマを燻らせてから半分ほど喉に注ぎ込む。
そこで手を止めるまで、一分はかからなかった。
「本題に入る」
琥珀色の飲み物をすすりながら、青緑の視線だけが流れる。
「ここに来た理由は父のためではありません。私個人の目的です」
「個人?」
「私の母のことです」
黒いプラスチックの蓋を被せた茶色い紙コップに白い指が添えられる。
顔のそばに引き寄せると、砂糖のないカカオに似た香りが立ち上る。
アンバー…ルクレシア=ベルンシュタインも好んだ香りである。
「母はどう人でしたか?」
腕と足を組み、蘇芳は背もたれに身を預けた。
「君がよく知っているはずだ。物心つくまで一緒だったろう」
「もちろん覚えています。私が知りたいのは、
頭上を仰ぎ見る。
鱗雲は厚みを増している。
今にもあの中から白く柔らかい結晶がゆっくりと舞い落ちそうに。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『雪…地球では白い天使とも言うそうです』
惑星科学の一環として気象学の講義を受けていた時だ。
『高等科の授業にしては退屈だったかしら、夏目君』
長い金髪と湖水を湛えた瞳に似合わず、野暮ったい黒縁眼鏡のせいで女子学生にも見えてしまう。
自分より頭一つ分低いはずの化学教師は、机に突っ伏していたところを目ざとく見つけた。
機械工学の汚い白衣教師と違って、なぜか楽しそうに見下ろしていた。
徹夜で試験勉強をしていたせいだと適当に言い訳しておく。
『そう。よかった。それじゃあ二ヶ月後の期末試験は期待していいのね』
返す言葉もなく、斜め後ろの席から茶化す浦部を休み時間中にどう始末してくれるか決めようと背筋を伸ばす。
『地球以外にも寒冷ないし亜寒帯地域の惑星は数千とありますが、地球と同じく人類が生存可能な惑星はその中でもさらに数十と限られており、すでに人類ないしそれに近い知的生命体や文明が存在します。さらにその中で国家規模の組織団体や個人が所有する…』
蘇芳の学術知識の大半はアンバー博士から授かった物だった。
きっかけは、高等科の卒業が差し迫った頃だ。
『夏目君、進路希望はどうするの?』
答えると、アンバー博士は嬉しそうな声を出した。
黒いレンズ越しに目を細めて。
『きっと向いてると思うわ。あなたは外の世界に出て行く方が力を発揮できるから』
力。
適性検査のことだろうと納得した。
あらゆる惑星へ赴くには、知識や研究への熱意だけでは不十分なのだ。
幸い蘇芳は同期の中でも体格、体力共に優れており、すでに宇宙艇の操縦免許を取得していた。
しかし、いくら試験に通れても空きがなければ参加できないことはわかり切っていた。
どこか諦めにも似た心境を打ち明けるとアンバー博士は笑いながら、
『それなら、空きが見つかるまで私の助手になるのはどう? ほら、ウチの学科って今ひとつ不人気というか、周りが凄すぎてマイナーな感じなの』
学部長が奇人変人の偏屈だという難点を除けば、毎年過半数が進学する学科の第一希望に選ぶ。
蘇芳の友人にも一人希望者がいた。
『むしろ調査団に入りたいなら、鉱石学科が近道ね。実を言うと、今あちらでは鉱石の専門家が足りないの。地質調査は惑星の生態系を知るため欠かせないのに』
渡りに船だった。
もし調査団が無理なら材料工学科に進もうと考えていたからだ。
蘇芳は鉱石を含む素材の結合と硬質化に興味があった。
そのこのも話すと、レンズの奥の瞳が拡大された。
朝日を受けた湖もこうして輝くのだろうか。
『じゃあ、あとは試験の結果次第ね。期末みたいに一夜漬けだけじゃダメよ。授業もしっかり聞いてね』
数年後。
蘇芳は惑星鉱石学科の学部長室に呼び出された。
『いいニュースがあるわ』
高等科に入った頃から変わらない外見で、アンバー博士は告げた。
『辞令。外宇宙調査団のメンバーとして惑星の環境及び生態調査を任せます。よかったわ』
まだ二十歳を過ぎたばかりで実感が湧かなかった。
『さすが夏目君、勘がいいのね。そう…正確に言うと逆ね。調査団に空きが見つかったから、ではないの。ここにあなたの働く場所がなくなるからなの』
早い話が、アンバー博士は鉱石学科どころか
それどころか、最近手に入れた辺境の惑星に隠遁するという。
つまりコロニーからも出て行くのだ。
『自給自足に近い暮らしがしてみたかったの。だから、もうコロニーに戻らないつもり。ああ、大丈夫よ。ちゃんと面倒を見てくれるロボット達がいるから。可愛くて頼りになるから心強いわ。惑星の警備システムも従事してるから安全よ。だから』
言いたいことが山ほどあった蘇芳の肩を、白く細長い指が揃えられる。
『気後れする必要なんてないの。むしろどんどん遠くへ旅立ってくれた方が嬉しいわ。私はあなたの親じゃないから帰って来てほしいなんて心配しない。あなたも私のことなんて心配しなくていいの。だから、気をつけて行ってらっしゃい。やりたいことにどんどん挑戦ししてね』
見送るような激励から半年後、蘇芳はアンバー博士が乗った宇宙艇がコロニー上空を飛ぶ様を眺めた。
わざわざ宇宙港まで見送らなかった。
どこにいようと、コロニーの宙は続いているのだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「…情熱と責任感。この二つがなければ指導者は務まらなかった」
冷めかけているが、コーヒーの苦味とコクはまだ口の中に残っていた。
残ったパンを食べてしまうと、紙袋とコップを脇に置いた。
ルシアに視線を戻す。
パンもスムージーも手付かずだ。
「母は他人に対してもお節介な人だったようですね」
「君に対しても同じだったろう」
「そうでなければ、私を置いて出て行ったりしますか?」
蘇芳の口から何も出ない。
そもそも、アンバー博士から娘がいたことなど知らされなかったのだ。
「気にはならないのか? なぜ君の母が出て行ったのか」
「興味はあります。しかしそれを知る手がかりがまだない」
まだ、と聞いて蘇芳は眉根を寄せた。
「それが目的か」
「察しがいいのですね」
ベンチに腰を下ろしたまま、あらためてルシアは蘇芳と向き直った。
「双子のアンドロイドを所持する者は惑星スカイの統治者になります。当然、あの星にある物全ての」
「今さらあの星を調べて何になる? 君の母親について分かるとでも?」
「あなただってそれを知りたいはずでしょう、夏目蘇芳。アンバー…ネーベルングの魔女について」
『
それは魔術を使えるアンドロイドだけではなかった。
双子を回収してすぐ、蘇芳は
ファフナーのウィルス除去が最優先なのだから。
「惑星スカイはまだ閉鎖中だ。人工龍が回復しなければ、
「ワクチンなら差し上げます。あなたがあの少女を渡してくれるなら」
「君の父親に言ったことと同じ事を繰り返す。交渉決裂だ」
声は途切れた。
ただ、視線だけが流れる。
血色を帯びた瞳。
湖水を湛えた瞳。
いずれも共通する。
けっして、互いに譲らない。
心なしか、雲が厚みを帯びていく。
公園から喧騒は薄れていた。
人どころか、オブジェや遊具、時計台すら輪郭がぼやけていく。
「何をした?」
異変に気づくが、ルシアは肩を竦めて首を振るだけ。
『その子に聞くだけ野暮ってもんだぜ、蘇芳』
沈黙を守っていたウルが駆け込んできたように早口でまくし立てる。
『エレメント濃度が上昇中。敵さんのお出ましだぜ』
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