50話 全ては黒に帰す
ブラックホール。
時空をも歪め、万物を無に帰す天体。
その重力からは光すら逃げられない。
そしてその質量が極端に大きいないし小さい場合、重力は比例あるいは反比例するという。
だが、死をもたらす存在にも終わりは訪れる。
元来、死せる惑星に重力が溜まっていくことで誕生するのだ。
そのエネルギーが枯渇すれば、消滅は避けられない。
存在する物体である以上、死は避けられないのである。
ゆえに、
『なあ、蘇芳』
あくびが聞こえてきそうな声が痺れを切らして口火を切る。
『これ、いつになったら終わる?』
すでに地下空洞の設備は消えた。
岩肌は剥がれ、真紅の垂れ幕もレールから千切れて吸い込まれた。
露わになるのは、壁面を削ってできたような塊だ。
だがそれもあくまで表層に過ぎない。
今はまだエネルギーを供給できたため、深い眠りについている。
『あんだけギャラリーが騒いでたってのに…眠りが深くて羨ましいぜ』
「いや、脳は覚醒している。周囲の環境が変わったことも百も承知だ」
にもかかわらず、悠久の時を生きる異形の神にとって、ブラックスミスが今何をしているのか一切関心がない。
たいした脅威だと見なされていないのだろう。
無理もない、と蘇芳は機械でできた仮面の向こうで微笑した。
たとえブラックホールに吸収されたところで、いずれこの異形の神は戻ってくる。
それが百年か千年か、人類が滅んだ後の未来かもしれないし、明日かもしれない。
いずれにしても、破滅が目前に迫っていれば、かの異神はそれを回避すべく動き出す。
人類が実現不可な異次元へ。
彼らの故郷であり棲処へといったんは帰還するだろう。
ブラックホールに吸収された直後に亜空間を通ってあちら側に戻り、再びどこかの星を訪れるだろう。
だから今蘇芳が為そうとしている所業はあくまで応急処置である。
完全に、即座に殺すことなど
つまり、
『互角に渡り合えるだけかよ』
自身の主人がこれまで異星人以外に抹殺してきた存在をウルは覚えている。
『今までお前が倒したのは
その時は、地球そのものが焦土と化すだろう。
だからこそ、ブラックスミスはアンドヴァラナウトを相手にした時以上の戦闘行為を避けた。
賢明な判断だ、と戦いが及ぼす影響を演算したウル。
『いいか? 成功するしないにしても、ヤバくなったら中断しろよ。一番飲み込まれやすいリスク背負ってんのはお前だからよ』
「分かっている」
分かっていても、二十年以上連れ添ってきた相棒が実際に行動に移すまで時間がかかることを、嫌というほどウルは分かっていた。
『失敗したとしても、お前さんを失うよりまだマシだ。せいぜい帰還したところで極月あたりに殴られて終わりだ。じゃなかったら、秋葉原のクソジジイに罵倒されるだけいい方だぞ』
「どちらも願い下げだ」
『お前なあ』
アトラクションの前で帰らないと言い張る子供の姿が目に浮かんだ。
(むしろ今の蘇芳がそのまんまだな。実際ガキの頃…って、走馬灯かよ! 何想像してんだオレは! それこそ死亡だろ!)
しっかりしろと電脳空間でしか目視されない自身の顔に気合いの張り手を入れた。
それを知ってか知らずか、蘇芳の声が漆黒の仮面からAIの思考に割り込む。
「ブラックホール発生から経過した時間と質量、吸収した物体の質量と体積から計算したが…四分だ」
四分以内にトゥールスチャが動かなければ中断、蘇芳は転移装置なしでこの空間から離脱しなくてはならない。
『カウントダウンなんかオレに任せとけ。思考より感覚だ。集中して観察しろ』
集中して観察。
言われなくてもできる。
(色が変わるのは本当に一瞬だけなの。注意して見つけてね)
化学実験の日だった。
大量の薬品を溶かしても変化しにくい液体をひたすら掻き回す級友のそば、蘇芳は僅かな変化を見逃さなかった。
たしかに溶液は変化する。
そして、指示薬の性質そのものにより効果は即座に打ち消されるのだ。
(実物にはある程度の誤差が生じるものよ。必ずしもそこに書かれてあるとおりに、実現できるとは限らないわ)
溶液が元の色に戻る前に必要な溶質の分量を蘇芳は記録できた。
その様子な『琥珀』を冠する博士は満足する。
(お見事。さすがね、夏目君)
だからこそ、蘇芳は止めるつもりはなかった。
ブラックホールは力が枯渇すれば蒸発する。
目の前にある物体の質量が大きければ大きいほど。
まして、異形の神ならば。
(ドローンがあれば中でこいつの様子を見てみたかったが)
他の物体が辿る末路の如く消滅するか、消滅寸前に亜空間に転移するか。
科学者として見てみたい好奇心と、異形を狩る者として見なければならない使命感とが両立している。
ウルには悪いが、すぐに帰るつもりはなかった。
(たとえこのまま、こいつに喰われたとしても)
『おいっ!』
蘇芳の肩が跳ね上がった。
悟られたか。
『何かがこの大空洞に転移するぞ!』
「こいつの眷属か」
『いや、反応が違う! しかも別のフロアから…』
瓦解。
天井が膨れ上がった。
そんなはずはない。
実際、それは亀裂に従って崩れ、蘇芳が立ち尽くす地下空洞のタイルに落下しているのだ。
(なんだ?)
ブラックホールを浮かべた右手を掲げながら、機械仕掛けの神は頭上を仰ぎ見た。
白い天使。
地球では雪をそう呼ぶ。
彼の恩師はそう教えてくれた。
しかしあれは違う。
冬の雲から舞い落ちる、儚い欠片とは程遠い。
極北の氷よりも強固で眩しい、白銀の甲冑である。
そこからたおやかに揺れる白い
(違う)
天使ではない。
魔女でもない。
天使の装束を纏い、魔女の血を引く人外殺しの歌姫だ。
殺人姫。
いや、
『ルシアじゃねえか?! どうやって来た?! 転移装置はこの部屋にねえはずが…って、おい!』
ルシアを見つけるや否や、直ちにブラックスミスはガラ空きの左手からアパッチリボルバーの銃口を向けた。
「近づくな。殺すぞ」
「そういう脅し文句は私のような業界の人間が言うセリフです」
穏やかと呼べない状況にいて、殺人姫の肩から力が抜けた。
「どうやってここに」
「ファフナーを起こしました」
機械龍に内蔵された転移装置か。
(つまり、目覚めたわけか。あいつらの家族は)
家族、と思考に浮かんだ言葉に蘇芳は自分でも呆れた。
初めて双子に会った日、有機体ではないロボットに家族などいないときっぱり言い捨てた。
アンドロイドはアンドロイド。
番犬は番犬。
今でもそう割り切っている。
当然だ。
所詮、『家族』というプログラムで動いているだけに過ぎないのだから。
(だが)
夏目蘇芳はそこにもう一つの主観を補足することにした。
(どこにいて何があろうと、その在り方は変わらないはず)
双子の主人だった恩師が思い浮かぶ。
今の考えを話したらどう返したことだろう。
『ぼんやりしてるヒマはねえぞ! 見てみろ…!』
チリ、と。
僅かだ。
僅かだが、有機体らしからぬ物体から火花が散る。
異神が脈動し始めるのだ。
かの末裔、魔女の血を引く娘が現れたがために。
しかもその娘には自身を御する力は備わっていない。
『チャンスだぜ、蘇芳。この際だ。その球体、アレにぶつけちまえ。手から離したら即、すぐルシアに掴まって離脱しろ』
「できないことはないが…それでは地球とスカイを結ぶ亜空間通路まで飲み込まれる。無事辿り着けたとしても、当分地球には戻れないぞ」
蘇芳はブラックスミスがあるから問題ない。
だが、ルシアはどうなる。
惑星スカイ唯一の転移装置であるファフナーの力を借りれば帰れる。
(だが、アレの燃費は悪い。次に転移できるまでエレメントを補充するには…『
蘇芳はざっと見積もった演算結果をルシアに告げた。
「宇宙艇がなければ不可能だ。転移装置で往復するには装置が出発点と到着先にあることが条件だ。行き先に装置がなければ座標を特定して片道だけで転移できるが、帰りは転移装置のある場所まで移動する必要がある」
つまり、
宇宙に頼る知り合いも身寄りもないルシアを放浪させるわけにはいかなかった。
アンバー博士の時は
(むしろ、ルシアにとって地球外は味方どころか敵だらけではないのか)
これまでルシアが地球で為してきた所業の因縁がある。
ネーベルングの暗殺者ゆえき、抹殺してきた異形や異星人の数は蘇芳に引けを取らないだろう。
(ましてや、『
危険だ。
そう判断した蘇芳は、ルシアだけ離脱させて自分は残ることにした。
異神と戦い続けると決めた日から、こうなることは予想できていたのだ。
「ルシア、やはり君はここか」
「では、私は地球を去ります」
なにいっ、とウルに先を越された。
『おいおい、分かってんのか?! 地球に帰る方法が』
「そんなこと、数十年先の話ではないでしょう」
呆れたとばかりに姫君は肩をすくめて両手を広げた。
地球のテレビで見た欧米人の舞台役者のようだ、と思い出しかけて蘇芳は納得した。
ルシアはアメリカ在住のスウェーデン人で、表向きは歌手である。
「別に珍しいことではありません。なにしろ、家に帰れなくなるなんて、これが初めてではありませんから。大雪で大学に寝泊りしたことだってありますし」
『あれ? ルシアって大学行ってんのか?』
「今年卒業しました」
そんな話をしてる場合か、と蘇芳は右手を極力話しながら怒鳴った。
一瞬だけ、手の中の闇に引き摺られそうになったからだ。
「もちろん、惑星スカイに転移してしまえば他に行く宛はありません。だから蘇芳さんにお願いしたいんです。ファフナーの転移装置が復活するか、宇宙艇が手に入るまでの間あの星に待機させてください」
「本気か…」
さらなる爆弾発言が投下された。
だが咄嗟の思いつきで口にしたわけではない。
これまでもルシアは発言より行動で大胆さを示してきたではないか。
初めて海岸線で邂逅したその日に双子の前に現れ、蘇芳の屋敷から派手な方法で逃げ出した。
次に現れた時は白昼堂々向こうから声をかけてきた。
コロニーでは行きつけのバーで、しかも舞台に立つ。
その後、地球の繁華街で一緒に街を歩こうと誘われた。
神楽達を説得して研究所に侵入したかと思えば、今度はファフナーと自身の鎧の力。
「…天井から堂々と再入場する前からそうだったな。君の行動力と積極性は博士と瓜二つだ」
「そう言いつつ、ブラックホールで異形の神に挑もうとしたあなた程ではありません。むしろ母さん以上だと思います」
それを言われては元も子もない。
漆黒の仮面から溜め息と共に微笑が溢れた。
顔は見えずとも、笑っていることに気づいたルシアも笑い返す。
ほろほろと揺らぐ湖水の瞳。
野暮ったい黒縁眼鏡越しに見えたアンバー博士のそれだった。
本当に二人は親子、いや母娘なのだ。
『んじゃ、双方合意ってことでいいんだな? 惑星スカイのご主人様よ』
「脱出早々、生身の地球人を宇宙空間に放り出すわけにはいくまい。俺は機構の人間だ」
『異星人は来る者拒まず歓迎、ってか。紫苑じゃあるまいし…ま、別にいいけどよ』
話が決まったところで、ブラックスミスは右掌で渦巻く暗黒の天体を見下ろした。
地下空洞に散乱する物体は全て引き寄せられた。
破壊された転移装置だけではない。
昏睡状態の異神を生命維持させるための機材や薬品。
照明やセキュリテシステム。
ルシアの落下に伴って降り注いだ、天井の成れの果てさえも。
だが、全てがブラックホールに飲み込まれたわけではない。
脈動を始めた、外宇宙からの物体。
見た目の質感、地下空洞でできた天然の壁と変わらない筈だった。
線香花火に酷似した火花は肥大化し、彗星めいた尾を引く火の粉を吐き出し始めた。
強張ったような地肌はやがて、身を潜めたように収縮しては破裂する勢いで膨張する。
「心臓そのもの、ですね」
その心臓を彷彿とさせる物体は。
心臓に似つかわしくない色味を帯びていく。
岩石の面影もなく、獣にあるまじき、葉緑体特有の鮮やかさだ。
それは床に散らばる設備や天井の瓦礫、大空洞の岩肌さえも濃度を統一した同色に染めあげていく。
そして『緑』を移された事物は、その輪郭が揺らいでいく。
後に残るは緑色だ。
緑の何か、ではない。
緑色は炎を象り、色の大元へと流れ込んでいく。
その有り様は、無数の緑が柱を成しているに等しい。
転移直前に現れる光輪越しに、蘇芳達は地下空洞の行末を見据えた。
「緑の一柱、か」
「『
異神の形状は総じて生物とは限らないのだ。
あるモノは森や惑星の姿を持ち、またあるモノは音楽や数式、闇そのものとし存在する。
「古くから、私の先祖は星回りの日にアレを祀ってきました。季節ごと、そして年の最後に」
なるほど、とブラックスミスのヘルメット越しに異形殺しは目をすがめる。
(太陽からの距離に敏感なのか。それに言葉どおりなら、地球における魔術儀式が同じ日に行われてきたことが頷ける。こいつらの活動状況は、地球由来の異形にとって生存を左右するからな)
地球人を祖に持ちながら、機構の人類は地球人と似て非なる。
彼らはあらゆる惑星や宇宙環境に適応できるよう何世代にも渡って遺伝子操作で体を作り変えている。
ゆえに蘇芳達から見れば、地球もまた異星であり、地球人は最早異星人なのである。
それは異形からしても同じ。
異星の異形にとって、地球由来の異形は相入れない存在なのだ。
「地球本来の神から生まれた異形は、今でも旧支配者の存在に怯えています。だからこそ、人間が作った暦は彼らにとって意味をなす物でした」
『さすがはネーベルングの人外殺し。地球の異形にも詳しいんだな』
ありがたいぜ、とウルは皮肉を飛ばすが、ルシアは気にしなかった。
「スカイ側から転送ルートが送られてきました。準備はいいですね」
蘇芳は頷いた。
そして
暗黒の球体も手から離れた。
光輪が増え、視界が光で遮られた今、最早確かめようはない。
二人は水飛沫を立てるように亜空間を突き抜けていく。
「蘇芳さん、あれを」
通り過ぎて行った道筋を背中越しに振り返る。
澄んだ水が光に反射したような煌めいていた筈だった。
後から徐々に影が浸食していく。
「通過したルートが消えていくだけだ。これから通る道に影響はない」
直に出口が近い。
光が途絶える先が見えた頃だ。
今度はルシアも振り返らなかった。
背後に置いてきた暗黒の天体と同じ場所だ。
緑が一際大きい閃光と化し、聞いたこともない音が聞こえた気がした。
長さとトーンから、声に聞こえた。
悲鳴ではない、怨嗟に。
全てが『黒』に帰った。
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