36話 電脳空間
蘇芳が解放されたのは夜中だった。
「災難だったわね」
車で迎えに来た紫苑は労うように苦笑した。
手渡した紙コップからは湯気に乗った琥珀色の香りが漂う。
「ルシアさんも同じのでいいのね?」
ルシアの身柄を預かったのは蘇芳だ。
お互い文句はなかった。
白い殺人姫は母の真相を知るため同行を受け入れたのだ。
ネーベルングの刺客に襲われたため正当防衛として
「ありがとうございます」
念を押すように確認を求める姫は、覗き込むように目を丸く見開く。
「気にしなくていいわ。あなたも体を冷やしたでしょう? 温かい物でも飲んで体力を回復しないと。それに」
屈託のない笑みは、秋の弱い日差しというより、むしろ雪解けのように広がる暖かさと明るさを宿す。
「コーヒーじゃないとお気に召さない人がいるからね」
ふっと湖水の瞳が和らいだ。
また夏目の屋敷に来たというのに。
あの時の緊迫感と今とでは違う状況下である。
しかし、当の蘇芳は紫苑のからかいを一切気にも留めない。
脳裏を占めるのは支部で行われた事情聴取である。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「…なるほど。つまり」
取調室では瀬戸内海地区を担当する石山区長が自ら蘇芳を出迎えた。
市役所に隣接するガラス張りの建物は商業施設のような輝きを放つ。
数年前に建てられたばかりの危機管理センターは需要の拡大に伴い設置された災害対策室の管轄だ。
異星人居住課は表向きには市役所の住民課として従事する。
一方で、
実際は、星間機構の領事館的な西日本支部が主導でことにあたるが。まだ星間機構の連盟惑星に正式加入していない地球にとって、異星人への対処に関しては機構にすがるしかないのが現状だからだ。
「つまり、こういうことか。あの場にいた地球人は君の知人で、その彼女が同業者と仕事のことで揉めて殺し合いに発展。仲裁に入った君はなし崩し的に戦闘に至った…というわけか」
石山区長は、親子ほど歳の離れた若い科学者を理解できないといった顔で眺めた。
「で、君は正当防衛として
「付近の防犯カメラを確認すれば分かることだ」
「もう確認はとれとる。使用許可も出ている。君の証言に間違いない」
ハッと室内のスピーカー越しにウルは吐くように皮肉った。
『なら、あの区間のエレメント濃度が一時的に急上昇したのも、公園一帯が氷漬けになったのもこいつのせいじゃないって証明できるだろうが』
「それも確認がとれた」
すると、今度は蘇芳の方が理解不能と言わんばかりに、両手を肩の高さまで上げてすくめてみせた。
「では、なぜ俺は連れて来られた?」
いきなり襲われたため立派な被害者だという事実は明白だ。
それでも嫌味ったらしく石山は顎を上に引いた。
「そうだな。そして公園の木が数本、遊具や街路灯などの設置物が数箇所損壊した。さらには君達を襲った殺し屋も死んだ。つまり、地球人が一人異星人に殺されたわけだ」
瀬戸内海地下を束ねる機構の管理役人は、よく整った頭髪を梳くように顎髭を撫でた。
『まるで蘇芳の方が通り魔か殺し屋みてえな言い方だな』
間違ってはねえけど、と後に続く言葉をウルは飲み込んだ。
ごくりと喉に重い物が無理矢理転がり落ちる気分だった。
「そうだな。これまで数えたらキリがないほど異星人を殺しまくってきた君の主人といい勝負だ。ついでに言うと、その余波を受けた公共物の損害からすれば、被った所有者も立派な被害者だと思うが」
「ああ、所有者といえば」
予期せぬ言葉を聞いたかのように、蘇芳は軽く目を見開いた。
「覚えているな。違法義体の製造業者の件を」
「ん? ああ、先月君にやってもらった潜入捜査か…それがどうしたかね?
今になって」
焦らすように背もたれに深く座り込み、ゆっくり息を吸ってから、
「ブローカーが割り出せない理由だ。なぜ思いつかない?」
んん、と怪訝そうに声を荒げる。
疑問と苛立ちが
「当然だ。仲介しているのが地球人だからな」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「じゃあ、最初に襲ってきたヒュドラ…ジェリーウォーカーは」
運転しつつも、紫苑の目は助手席の兄を断続的に視界に入れる。
「タダで義体を得た。ネーベルングから買ったそうだが、実際連中は仕入れ業者に過ぎない」
違うか、とバックミラー越しの視線が客人に向けられる。
話かけられた人物が首を振ると、薄暗い車内に金の光沢が滑らかに揺れる。
「たしかに機構が地球に現れる以前から異星人存在と取引してきました。近頃は社会の暗部に潜り込むため、
『地球の法律からすりゃそうだろうな。なんせアンタらが上手いこと戸籍を用意してるわけだしよ』
庁舎も暖房が稼働していたが、広さを考えると車内の方が空調の効き具合が早いはずだ。
ただし乗り心地の良さと居心地の良さは別次元である。
「義体に関して言うなら、あれは研究用に仕入れるためです。いずれは常人のために全身義体を完成させることが目標ですから」
蘇芳はリラックスした気分でシートに背中を預けているが、運転席以外からの口論のせいで騒々しい。
『仕入れもなにも、要は横流しだろ?
この星の…いや、この国で言うところの「他人のまわし」ってヤツだ。いや、「ふんどし」だっけか?』
茶化すようにわざと尋ねてくるウルを無視して、ルシアは一人で考え込むように独り言を呟く。
「たしかに…義体の出所や元の素材に関しては『
「仮に知ったところで、それは機構の問題だ。
真相を暴いておきながら、蘇芳は気にも留めない様子だ。
レナード達が機構の犯罪者に加担していようといまいと蘇芳にはどうでもいいのだ。
蘇芳が違法義体製造者のアジトに潜り込んだのは頼まれたため。
それから義体を研究のため提供してもらうためだ。
やっていることは『
だから好きにすればいいとさえ思っている。
だが、無関心であっても不干渉にしておかない。
帰宅すると、出迎えたのは目覚めた璃緒のみ。
介抱したのは七瀬である。
「君からお使いを頼まれたと聞いてね。けど、女の子の方は…」
転移装置のログイン記録からして、瑠禰はまだ地球に戻っていないようだ。
ウルが
『他のコロニーにいるかもしれねえ。転移装置に網を張って捜索中だ』
「それで駄目なら他の可能性がある」蘇芳は目覚めて間もない璃緒を地下室に連れて行った。
いつもログインする端末が用意してあるのだ。
ずらりと並んだうち、一台はログイン画面が映ったままだ。
瑠禰が操作していた物である。
「説明しろ」
勝手に蘇芳宛に届いた浦部のメッセージを読んだこと。
地下室に侵入し、
受け取った電子頭脳に瑠禰が治癒の魔術をかけたことを話した時点で、ウルから怒号が飛んだ。
『バカ野郎っ! 勝手なことしてんじゃねえ!』
モニター越しの声は顔を張る勢いだったため、思わず璃緒は目をギュッとつむった。
『あれがただのウィルスじゃねえことぐらい蘇芳は分かってた。だから瑠禰に魔術を使わせなかった。それをお前らは…』
蘇芳は目線でモニターに映るウルのアバターを黙らせた。
話を最後まで聴くためだ。
ことの顛末は七瀬から聞いたとおりだった。
「ファフナーは目を覚ましました。けど、なんだか激しく混乱してて…瓦礫から這い出た時はもういませんでした。それから」
「姉さんも、か」
まだログイン状態の端末が青光りする前で、蘇芳は回転椅子に腰かけた。
「惑星スカイ。考えられるとしたらそこだ。瑠禰も一緒だろう」
「できるんですね?」
聞いておきながら、璃緒の目には迷いがない。
すでに実行することに躊躇はない。
分かりやすくウルが説明してやる。
『簡単な話だ。お前は瑠禰の
さらに目が大きく見開かれた。
(僕の、中?)
『あ〜、つまりだな』
捕捉説明すると、
『オレが瑠禰の肉体をプロトコルとしてハッキングして回線を繋いでコンタクトが取る。つまり通路だ。あとはお前が瑠禰にアクセスしてあいつの脳内チップに侵入するってことだ』
「けど、僕らのファイアウォールはアンバー博士が作ったものだよ。そう簡単に侵入できるわけ」
「いや、可能だ」
不可能の否定。
機構が生んだ科学技術の申し子は絶対的な根拠を述べる。
「
璃緒だからこそできること。
夏目蘇芳は明言した。
「瑠禰を救いたければ、お前がやれ」
『救いたければ? お前さんも同じだろうに』
先程一喝した声の主。
彼を体現するピクセル状のアバターが壁のモニターで軽くウィンクした。
再び地下室に現れた璃緒の頭はヘルメットに覆われた。
意識ごとゲーム内に飛ばすため使う、脳内LAN接続端末である。
(まさか、これをゲーム以外で使うことになるとはなあ)
璃緒は初めて意識も肉体もゲームに飛ばされて星間機構のコロニーに転移した日を思い出す。
仕組みはウルが説明してくれた。
『機構の人間は生まれて間もなく体に端末チップを埋め込まれる。星間ネットワークで繋がってる限り、手に携帯を持たずにお互い連絡も取れるってわけだ』
商品の取り引きやセキュリティ管理、ネットワークへの接続もチップを通じて行われるという。
『アンドロイドなら問題外だが、璃緒、お前は例外だ。なんせこの転移装置ができたのは十年前…お前の
「それ…痛くないですか?」
サングラスのようなFMDと違い、ほぼ防毒ガスマスクと言ってもいい。
『一瞬だけ眠くなる程度だ。次の瞬間、ジェットコースターに乗ったみたいに体が引っ張られる感覚に陥るが、あとは高速道路を走る車くらいのレベルだ。平気だろ?』
地球の文明レベルに合わせて解説してくれるので理解できた。
実際、ダイブした時は怖くなかった。
慣れれば普通に車やバイクを運転するのと大差ない。
『準備はいいか?』
喉を塊が通り過ぎた。
飲み込んだ後の胃が重く感じる。
しかし、今さらやめる気はなかった。
「はい」
『転移する時と同じ要領だ。安心しろ』
「では、始める」
科学者の義務的な合図に続け、璃緒の視界から見慣れた光景は消えた。
(姉さん、今度は僕が)
無数の光輪が流れ込んだ。
光の輪が幾重も通り過ぎる。
実際に通り過ぎて行くのは璃緒だ。
(これが…星間ネットワークだったのか?)
『おっ、どうやらオレの説明は要らねえな』
緊迫感のない聞き慣れた声が応える。
言葉とは裏腹にウルのお節介は終わらない。
『これはほんの氷山の一角。今お前さんはトンネルみたいに回線の中を潜ってる。そこからあらゆる電脳空間に入れるんだよ。もちろん許可なく
ときおり窓や扉、洞窟のような穴が空いている。
おそらく別のデータベースへの出入り口だろう。
そしてそこにはウィルスやバグを消去するワクチンプログラムが潜んでいる。
すれすれを通り過ぎた直後、獣の唸り声が聞こえた気がした。
冷たい物が背中の毛穴に侵入し、冷たい物をゴクリと飲み込んだ。
『だが安心しろ。アンドロイドはなんかのトラブルで持ち主や兄弟機と離れ離れになった場合、合法的に脳内ハックしてもらうことで連絡を取り合える。IDとパスワードさえ覚えていれば多分問題ないだろ?』
(たぶんって…)
初期に設定されていたパスワードは分かりづらい数字とアルファベットの羅列だった。
だから別のキーワードに変更したのだ。
『見ろよ。本星だぜ』
それは古めかしい木枠に障子が貼られた衝立だった。
蘇芳の屋敷に住み初めてから、双子は屋根裏の空き部屋を使っていた。
内装が洋式だったせいか、彼女はフローリングに畳を敷き、カーテンを簾のようなロールスクリーンに替え、壁に障子の衝立を張り巡らすことで、自分好みの和モダンなインテリアにしていた。
アンバー博士の屋敷にいた頃から変わらない。
(徹底してるよなあ)
『電脳空間ってのは、持ち主の心象世界そのものだ。だから本人の性格や好みを形にしてあるんだろ。ほれ、早いとこ入力して連れて帰ろうぜ』
璃緒の目の前にパッドが現れた。
初めてパソコンに触れた時のような手つきでキーワードに一本ずつ押していく。
瑠禰のパスワードは前に教えてもらったのだ。
それは彼女の好物に由来する。
灰色に煙る空。
わずかな隙間から差し込む天の梯子。
降り注ぐ陽光を受けて草を食む家畜。
脈が剥き出しになる山の連なり。
水飛沫を立てて歪む湖水。
荒野を裁断する曲がりくねった小道。
その向こうにそびえ立つ門。
ロートアイアンの向こうに構える洋館とそこに佇む、
(姉さん、聞こえる?)
金の三つ編みを翻し、青い瞳が振り向き丸くなる。
(瑠緒)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
荒涼とした大地は失せ、無機質な灰色が視界に戻ったため、璃緒はFMDを外した。
ホーム画面の映った端末には、ウルが記録した映像が流される。
璃緒の視点で撮影された動画だ。
倒壊した壁や床の破片らしき、木や石の山。
あの屋敷の地下だ。
『惑星スカイには転移装置なんてねえ。おそらく、瑠禰はファフナーに乗ったんだ。直接星間飛行して帰還ってわけだ』
端末デスクに腰掛けていた璃緒は、ゆっくりとFMDを外して立ち上がる。
電子頭脳だけがサーバーを旅していたのだ。
まだ手足の動きが不十分なので、紫苑の手を支えにゆっくり立ち上がる。
「どうするのですか? 空間転移できないとすると、直接行けるのはあなただけです」
「転移装置は後から取り付ける」
蘇芳は璃緒が使っていた端末のログイン画面を操作する。
行き先は
そこから
「君は機構の人間ではない。だから、IDとパスワードは俺のサブアカウントを使え。それなら生身で転移可能だ」
目で合図すると、紫苑は認証IDを入力して数ある棚のうち一つを開けた。
それは金庫そのものだった。
中には封印されていたのは、人の胴体を模したような白銀のプレートメイルである。
細身の反り返った得物と共に。
「今こそ返す時だ」
駆け寄って抱きしめるように胸に押し付ける魔女の姫。
紫苑と目配せして頷くと、蘇芳はFMDを手に取った。
「屋敷のことは任せた」
「瑠禰のこともお願いね」
ようやく意識がはっきりしてきた璃緒は、もどかしそうに残りのFMDを眺めている。
『いざと言う時動けるヤツを残すためだぜ』
半ば持ち上げるようなウルのセリフに、璃緒の頰に張り詰めていた物が軽く抜け落ちる。
最後に三人が視界に捉えたのは、ノイズ混じりに消失する屋敷の主人だ。
「ありがとう、先生」
『礼なら瑠禰を連れ帰っ』
途切れたウルの声をバックに、蘇芳の掌が上がる。
去り際の挨拶だった。
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