30話 北の巨人

星間機構のコロニーにおいて、天候は大気中の水分や気温、風の流れによりランダムに変化する。

気候が地球の四季に沿って移り変わるように、その晩は雲一つない秋の星空に恵まれた。

煌く粒を散りばめた様は、実際のところ宇宙空間そのものだ。

実際は無色透明な対宇宙用ガラスの天井に覆われており、そこから星間世界を眺められるというわけだ。

そんな天然のプラネタリウムともいうべき、空ならぬ宙の下にいるせいだろうか。

繁華街の照明が敢えてトーンを小さくしている。

店を梯子する客が星空を楽しめるようにするためだろう。

しかし、『Paper Moon』の店内は吊り照明が手元と顔を闇に浮かび上がらせるのみ。

星明かりの届かないバーで唯一眩しい輝きは、舞台の歌姫を包みスポットライトだ。

太陽を受けて輝きを返す月が人の形を得たとしたら。

歌姫の華奢な輪郭を塗る白皙の肌と白銀のイブニングドレスは、まさに光を反映していた。

(『ルシア』、か)

蘇芳は杯を満たす黒い酒を口に含む。

薬草系のリキュールは滅多に飲まないが、これはこれで悪くない味だった。

見た目はコーラに似ているが、あれよりずっとマシだと彼は思う。

「一週間の中でも私は特に金曜日が好きでね」

大理石の像がグラスを傾けた。

実際は、白いスーツに身を包んだ堂々たる体躯の男性である。

「仕事をやり遂げた後の満足感。それに次への意気込み。その全てが感じられるからだ。君達にもそんな経験はあるだろうか」

「ええ、もちろん」

ダークグレーの袖がテーブルを離れると、モヒートのグラスが濃い色の肌に近づけられる。

一口含んで喉を潤すと、首に巻かれたスカーフが微かに揺れた。

「これはそんな我々のための祝杯。そう言いたいのですね」

「当然だ」

黒い薬草系リキュールのカクテルを半分以上飲み干してから、蘇芳は口を刺し挟んだ。

『大丈夫か?』

恐る恐るウルが通信を寄越した。

聞かれないように思念プログラムで応じる。

(悪くない)

ジントニックに飲み慣れていれば、どうということのない味だった。

神楽は軽い溜め息をついた。

苦笑しているが、頬の筋肉はどこか重たそうに強張っている。

「どうして言ってくれなかったんだ。水臭いじゃないか」

「祝杯にと店を予約させたのはお前だろう」

「で、地球の名だたる御仁との会食に予約したのも君だろう」

今度は蘇芳が溜め息をつく番だった。

呆れたように見せかけることで、少しは察しろと暗に示しているのだ。

もちろん神楽は理解している。

ワケアリなのだと。

「お邪魔だったかな?」

大理石の冷たさと滑らかさを面影に宿した白亜のスーツが顎の下で腕組みして見つめる。

レナード=ネーベルングは二人のやりとりを楽しんで見物しているようだ。

隣で沈黙を続ける巨漢だけが無表情である。

レナードとは対照的な銀髪を腰まで伸ばし、深草色の軍服めいたコートを肩からかけ、下も同じく軍服めいた制服で固めている。

イタカ、と自己紹介で一言名乗った。

レナードは右腕だと紹介したが、一介の秘書ではないことが蘇芳達には分かっていた。

(左胸。左足首。そして右膝か)

席を立って挨拶した時、足の運びを観察できた。

仕込まれた武器の正体も。

だから同席に誘われた時、神楽が付き添いを申し出た。

「地球のVIPとこうしてお会いできるのは稀なことです」

媚び過ぎず、それでいて素直さが滲み出る神楽の返事に気を良くしたのか。

レナードもまた相応の社交辞令で以って応じた。

「なに、私の娘が君の友人にこの店を教えてもらってね」

黙々と話に挙がった張本人はドス黒いアルコールを堪能する。

「直に目にしておきたかったまでだ。夏目蘇芳博士…彼の経歴は地球側に届いている。限られた者達にな」

自己紹介以来、初めてイタカと目が合った。

見据えた視線には、形なき刃のように真空ごと切り刻む凄みがあった。

「そこで娘に勧めたのさ。あの御仁と友人達に歌を披露してはどうかと」

娘…壇上に立つ白いイブニングドレスの歌姫の唇が揺れる。

鍵盤を滑る指に合わせ、オブラートに包んだアルトの声に歌詞が乗る。

ときおり、パンプスに合わせて裾が揺れ、シルバーのサテンにスポットライトの眩さが踊る。

「娘さんは歌手ですか?」

本業メジャーではない。ああして店を渡り歩くだけだ。今時歌など、役者の録音した合成音声でどうにかなる。少し前にも流行っただろう」

バーチャルのキャラクターに歌わせる音楽プログラムだ。

学生を中心とした若者の間で、動画を駆使して無料でアップロードする話はよく耳にする。

だが、

「重たいな」

蘇芳は目を細めた。

歌声に限らず、歌姫の声は高い音域に達したとしても曲に深みと厚みを与えている。

しっとりと。

軽快に。

高らかに。

また、しみじみと。

表情も異なる。

地球における古代西欧独特のアルカイックな笑み。

あるいは悲しげに目を伏せる。

今度は凄みを利かせて目に力を。

「素晴らしい」

蘇芳は声に出さなかったが、称賛した神楽より先にそっと拍手していた。

拍手に合わせてアンコールを求める声が渦のように折り重なっていく。

いったん楽屋に戻る前、ルシアは一度だけ蘇芳を見た。

頷くような礼。

その顔に浮かぶ笑みは昼間の張り付けていたソレとは違う。

ほろほろと目の奥が震えるように細めるのだ。

『なんだなんだ?』

ウルの疑問はルシアに対するものではなかった。

『どうかしたのかよ?』

いや、と蘇芳は思考だけで答えた。

(今のは確か)

初めて見た素に近い笑顔。

純粋に歌を愛し、歌うことを愛して、聴きに来た観客を愛でる。

慈愛に満ちた表情を以前にも。




「せっかく付き合ってくれたわけだ。いい機会だから一つ面白い昔話を聞かせるとしよう」

回顧に至ろうとする思考が現実に引き戻された。

「なに、昔と言っても私からすればごく最近のことだが…ある星に住んでいた女性についてだ」

手の動きに合わせて、くすんだ葡萄酒ワインがフルートグラスの中で揺れる。

引き潮の名残めいてグラスの壁に赤いしみが薄らと広がる様を眺めながら、北の巨人は唇をそっと濡らした。

鉄錆の紅を差すように。

「その女性は美しいばかりか、聡明であった。自然と文学を愛し、科学と芸術に秀でていた彼女は同胞の中でも特に好奇心旺盛で奔放だった。おかげで魔がさした彼女は外の世界へ入り口を見つけ…姿を消した」



アンコールに応えてルシアは再び壇上に降り立つ。

拍手に笑顔で応え、最後にとあるテーブルに視線を向ける。

彼女の父親が話を始めたらしく、他の三人の注意はそちらに向けられる。

黒いカクテルのグラスを前にした若い男も。

彼の眼中に彼女はいない。

眉一つ動かさず、歌姫は目を逸らして装束を翻した。

ステージに広がる白い裾。

たおやかな袖が翼のようになびき、そこから伸びる細い指がマイクに絡む。

カタカタとばちが打楽器のへりで踊り、笙が穴から鋭い呼吸を飛ばす。

狂騒的に弦をかき鳴らすヴァイオリンのイントロが一瞬間を置き、死覇装の姫君はハスキーな声を投げかけた。

プライベート以外で着る機会のない衣装だ。

目もくれない黒い男から遠く離れた場所で、ルシアは躍り狂うのだった。




極東の古き音楽と近代西洋の楽器が混じり合う傍ら、北欧の魔術師は話を続けた。

「女性の痕跡を辿った結果、我々は彼女が遥か彼方へ辿り着いた…という事実に至った。空よりも遠いそらにだ」

白く分厚い掌を見せると、そこに模型ミニチュアのような扉が浮かぶ。

仕掛けはレナードの手首からだ。

「地球側の技術だよ。実物より小さいコレも含めて」

「転移装置か」

星間機構が彼らの祖先の母星たる地球に到達したのが半世紀前。

密約が交わされて惑星間移動や経済活動や治安維持活動などが始まったのは、二十年前のこと。

「補足しておく。彼女が消えたのはかれこれ二十年前だ。名をルクレシア=ベルンシュタイン…君達が呼ぶところのアンバー博士さ。そして、私の妻でもある」



ようやく。

蘇芳の目は、激しいビートに身を委ねる歌姫に向けられた。

意志の強い目。

他者の借り物ではない知恵。

けっして負けじとする物言い。

嫌という程学び舎で見てきた、かの女性科学者の態度と言動そのもの。

『デ・ジャブの正体な』

たしかにアンバー博士は詭弁に強かったが、相手の言い分も最後まで素直に聴いてくれた。

蘇芳にとってはそれが救いだった。

「それは…」

本当か、と神楽は最後まで問うことができなかった。

地球の名だたる一流企業のトップが、出まかせを言うためだけにわざわざ成層圏を超えてくるだろうか。

自分の娘をステージに立たせてまで。

「証拠はある。君の友人が彼女から託された人工龍だが…そのウィルスを仕掛けたのは私だ」

ただし、と続く言葉がテーブルに手をつく蘇芳を制止した。

おかげで演奏中に席を立つという無作法に出なくて済んだ。

「あのウィルス…元を辿れば妻だ。

彼女がウィルスの生みの親なのだよ」




アンバー博士はロボット工学の第一人者だ。

そして瑠禰に魔術を教えた。

彼女がネーベルング人だとしたら。

辻褄は合う。

ワイングラスを置くと、レナードは顎の下で手を組んだ。

「取引をしないかね、夏目蘇芳君」

眉一つ動かさず、蘇芳はとっとと空にしたグラスをボーイに下げさせた。

代わりに熱いコーヒーを砂糖とミルクなしに注文する。

「君の可愛いお人形達のペットだが…ウィルスを除去できるワクチンを私は手にしている。今ここにだ」

胸元から取り出したのは煙草の箱ではない。

スティック型のUSBメモリだ。

『奴さんの狙いは瑠禰だぜ。あいつを渡せとか言うに決まってる』

しかしウルの目論見は外れた。

赤みを帯びた双眸。

蘇芳の目を見つめ返すネーベルングの眼も。

北国の湖水を湛えていたはずが、日が落ちたように朱色に染まっていく。

「夏目蘇芳博士。あなたの能力ちからの根源たる、『ブラック創造主スミスの手』だ。その秘密を開示してもらおう」




ヴァイオリンは悲鳴を上げ、三味線は震え、笙は木霊する。

赤いスポットライトに染まった白い歌姫は高らかに歌う。

最早、父親と話し込む若い科学者のことなど知ったことではない。

代わりに、離れたテーブルに座るギャラリーが興味深そうに視線を投げかけていた。

「何話してんだ?」

スキレットでオリーブオイルをどっぷり漬け込んだパンを頬張りながら、久利生はなんとなく呟く。

「蘇芳のあの顔…会話の中身、穏やかじゃなさそうと見えるぜ」

赤坂は答えない。

じいっと演奏を録音している。

というか、歌に聞き惚れている。

「今抱えてる案件だろうな。人気者は辛いねえ」

茶化しながらも浦部は見逃さない。

白いスーツの…先程レナードと名乗った男性が胸元から取り出した物。

手に取って確かめたい気持ちを蘇芳の表情が制した。

今この場であのUSBを欲しがっているのは彼だろうから。

「蘇芳ってさ、昔から他人事には興味がないだろう」

七瀬はカクテルをお代わりしていた。ブルーキュラソーが鮮やかに映える三角グラスを下ろし、努めて平静な蘇芳に向かって微笑む。

「そのくせ他人の事情に巻き込まれる。で、長引けば自分からのめり込んでいくんもんだから…不思議だよ」

「そして、全てを引っ掻き回して去って行く」

蘇芳の手土産だというオリーブのピクルスを不味そうに摘みながら、泰山は鼻を鳴らした。

「見てみろ。今から何かやらかす気でいる」

事実、蘇芳とレナードは席を立った。

向かった先は、店の奥に鎮座するダーツの的だ。

演奏が始まってから誰も客は近づこうとしない。

ちょうどいい具合に空いている。

「ははあ…」

合点がいった浦部の顔にはえくぼが広がった。

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