20話 脱走

鬱蒼と生え茂る木々。

葉を宿した白い枝と幹は骨さながら。

天へと伸ばす様は根元に届かない光を追い求めるに近い。



それでも昼間の森は視界に困らない。

だから、草地にひっそり生えるキノコや、細い茎にぶら下がる木苺を簡単に採ることができた。

もう少し奥まで行ってみようと張り切るそばから、彼女はに手を引かれた。

湖水を浮かべた色合いの目を丸くして見上げる。

見下ろす瞳はやはり湖水の色。

その指差す先に、見事な角を振りかざした北の森の帝王が現れる。

この時期、子供らに必要な栄養を求めて食糧を探し求めるという。

森の主たるヘラジカに敬意を表するかのように、近づいてきた主に頭を下げる。

代わりに掲げるのは、蔓で編んだバスケット。中身は彼女が集めたキノコや木苺だ。

ヘラジカもまた恭しくお辞儀する。

その首にはすでにバスケットがぶら下がる。

挨拶と呼ぶには長すぎる時間。

彼女には理解できない無言の意思疎通があったのだろう。

知る由はない。

知る術もない。

ヘラジカはなんと言っていたのか。

聞いてみたことがある。

はただ微笑んで応えてくれた。

今年の夏は去年より長いのだという。

せっかくだから船に乗って二人の住む島から街へ行ってみよう、とは提案した。

今年も彼女の父親はこちらに帰ってくるのが遅くなるだろう。

そんな理由もあったかもしれない。

どちらにしても、彼女は嬉しかった。

頬ずりするふっくらした白い顔を、透明感のある肌が優しく受け止める。

冷たくも滑らかな指が撫でてくれる。

上から下へと、金の髪を丁寧に梳いてくれる。

くすぐったくて、気持ち良くて、自然と笑みが広がる。

その様子を見て、の顔にも広がる。

白と緑の深い森。

二人だけで過ごした時間。










もう感じることのない温もりだ。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



まぶたを震わせる。

隙間から差し込む光。

空から降り注ぐそれと比べて、露骨にして無遠慮。

舞台照明スポットライトと呼ぶには無機質で簡素な光源は、どこか病室を彷彿とさせた。

あるいは、

(まるで、の作業場みたい)

ルシアをよく知る、あるいルシアがよく知る人物もまた、こうした部屋で仕事に没頭することが多い。

あるいはビジネススーツを着て世界中を巡る旅。

煙たがるように頭を振り、どうにか肘に力を入れ、ルシアは仰向けの視線から上体だけ起こした。

肩から滑り落ちる物が衣擦れの音を立てて、床に不時着する。

(私…寝ていた)

今度は首をゆっくり回し、今自分が置かれている状況を把握しようと目を凝らした。

頭はまだ重たいままだったが。




嵌め込み式の照明が複数。

その下にあるのは自身が横たわってたベッド。

壁に沿うように陣取る、透明の引き戸が備わった棚。

中には透明の瓶やら、金属片同士が噛み合ったような何かの器具やらが整然と並んでいる。

中にはビーカーやフラスコ、天秤、顕微鏡のように見覚えのある道具も。

(どう見てもここは研究…)



そこまで思い当たった時。

両足はベッドを強く蹴って、床に着地していた。

ふらつくが、転ぶことはない。

それよりも、現状の理解で思考はよりクリアに切り替わっていた。

(ああ、そうか)

ルシアは認識できた。

ここはあの博士の研究室だ。

あの、夏目蘇芳の。

星間機構から現れた異星の科学者。

そして、異形殺でもある。

(でも)

自分は暗殺が本業だ。

それが軍人でも殺し屋でもないアマチュアに敗れた。

圧倒していたと見せかけて、実は向こうが手を緩めていただけの事実。

(なんてことだろう)

追い詰めた矢先、夏目蘇芳は地球外の技術をもって拘束を脱し、逆にルシアを罠に嵌めて行動不能にした。

もちろんルシア自身、任務に失敗したことはないが、軽いミスをしたことならある。

(だけど)

暗殺終了後、あらかじめ用意していた脱出ルートが破壊されていたこともあった。

頼まれていた物を落としそうになり、警備員に見つかりかけたことも。

それでも、戦いに敗れて捕まることはなかった。

(このままでは帰れない)

ルシアは研究室を見渡す。

壁に端末が備わっている。

ドアの電子ロックを解除するのに使うのだろう。

解除には当然パスワードが要る。

だが、ルシアが目をつけたのは電子ロックではない。

天井に備わった赤いランプとスプリンクラー。

(鳴らすにはきっかけが必要)

液体や器具を保管した棚。

その間でフロアを占有するのは、冷蔵庫らしき収納ケースや水槽だ。

水槽には水質を安定させるための濾過装置が稼働している。

(中に何かいるのね)

底砂には陶器でできた壺らしき物が沈んでいる。中に生息する水性生物の寝床か隠れ場所だろう。

水槽の主が何かは知らない。

だが、ここがラボなら間違いなく研究用に飼育している生き物に違いない。

万一水槽から逃げ出せば、それこそ研究室の主は慌てるだろう。

つまり、

(あの警報を鳴らすには)

ルシアは作業台に備え付きの椅子に歩み寄り、脚を掴んで持ち上げた。

それを水槽めがけて構えれば、次にやることは一つだけだ。

大きく振りかぶると、ルシアは椅子の背もたれを水槽に叩きつけた。



椅子を通じて指に伝わる反動。

「…予想はしていたけれど…」

言い訳するように声に出す。

衝撃を吸収する強化ガラスだ。

それも叩きつけた感覚で、乗用車の窓ガラスに使われている物とほぼ同じだとわかった。

(だけど完璧じゃない)

強化ガラスにも弱点はある。

小口と呼ばれる端が最も割れやすいという。

そして、些細な傷がつくとそこから割れる原因になることも。

ゆえに、ルシアは実験器具の中からガラスか金属でできた物を選んだ。

液体を入れる試験管の一つ。

空であることを確認してから、先端を水槽の隅に擦り付けた。

落書きした跡のような傷を水槽の壁面四隅に刻み付ける。

(これでいいわ)

そして、あらためて椅子を掲げた。

今度こそ。



フルスイングした鉄パイプ椅子。

絡み合う無数の白い亀裂。

間違いない。

ルシアは幾度となく繰り返した。

亀裂はチョークで書き殴ったように複雑化していく。

透明なガラスは白に塗り潰される。

やがてフローリングに細かい破片が散り、水槽を湧き水が伝う。

(あと少し)

ガラスが砕け散れば、警報が鳴る。

あの男がロック解除と共に中に駆け込むだろう。

物陰に隠れてやり過ごし、研究室から抜け出すのだ。

(水槽の中身は分かりませんが、よほど小さな生き物に違いない)

探すのに必死になるだろう。

だから、尚更いい。

軸足にため込んだ力。

踏みとどまる足の裏から背中、肩、腕へと力が伝わる。

上段から構えた刃の如く、真横へと椅子は軌跡を描いた。

とどめの一撃である。




鉄とガラス。

破片と床。

ぶつかり合う音が重なり合う。

幾重もの破砕音から、一つの轟音が生じた。

そして津波のように唸る水流は、落ちて広がり、洪水から土砂降り雨へと変わった。

やった。

ルシアの胸にそよ風が流れ込む。

頭上から覆いかぶさる警報アラートにも安堵した。

(これでいい。あとは彼が駆けつけるのを…)



パシャ。

足元を小さな物が転がる。

目を凝らして見下ろした。

それは体毛に覆われていない動物の赤ん坊に近い。

赤く擦りむけたような皮膚に覆われ、ナメクジのように膨れていた。

(これが…水槽に?)

軟体動物の一種だろう。

偶然水族館で見かけたウミウシという生物を彷彿とさせた。

あれも足や触手を持たず、滑るように床を這い寄る。

(妙だ)

心なしか、ルシアは床に落ちたガラスの破片を拾っていた。

最初に水槽を見つけた時は気づかなかった。

そもそも入れ物の大きさ三十センチ四方ほどあった。

対して、今水溜りで腹這いになるこの生物。少なくとも、長さだけでも二十センチ近い。

(大きさからして狭いはずだったのに、どうやって隠れ…)

ぎくり、と肩が強張った。

ウミウシ似の芋虫に変化があった。

床に広がる水溜りを転げ回る。

その幅は約十五センチほどのはずが、

(違う)

はず、だった。

ウミウシと壁や作業台との距離は遠いはずだった。

その間隔が今や狭い。

周囲の調度品がウミウシに近づいているのか。

違う。

ウミウシが、

(体が…?)

空気を入れて膨らませたのか。

風船のようにゆっくりと、しかし確実に、ウミウシの体長や幅は腫れるように、あるいは膨らむように肥大化していくのだ。

愕然としたルシアはガラスの破片を手にしていながら、最早その場から動けずにいる。

(どうして…どうやって…)

水槽から出したせいなのか。

水が外に溢れたせいか、あるいは空気に触れたせいなのか。

何が原因か、ルシアには分からない。

分からないから防ぎようがない。

空間が狭いと感じたのか、ついにウミウシは鎌首をもたげるように上体を起こした。

そこからさらに変化は起きた。

背中を突き破り、翅を模したように現れる外殻。

頭頂は平らに広がり、そこから触手が数本生える。

翅と触手を生やした軟体の水棲生物。

その形状は、ルシアにも見覚えのある存在に近い。

(これは…地球の存在じゃない)

皿の頭から触手を震わせると、背中の翅が二つ擦り合う。

即座にルシアは両手を耳に押し当て、耳管を塞いだ。

蠢く頭の皿。

それは唇を動かし、何かを叫ぶに等しい姿、

やがて翅と触手の振動が止むと、ウミウシどころか地球外の古き異形はルシアに背を向けた。

要はないと言わんばかりに。

代わりに顔のない触手の頭が向いた先は、

「だめ、そっちは…」




ガラスよりも軽く小さな音。

続けて大地に穴が空くほどの轟音。

頭の上に落とされたかのように、ルシアの足元がぐらつく。

かろうじて踏みとどまると、粉砕された窓ガラスから顔を突き出し、外界へと身を乗り出した。

閑静な住宅地。

どの家からも溢れる灯りは乏しい。

ただ、街灯のみが奇怪な輪郭を浮き彫りにしていた。

そのシルエットは滑るように舗道を流れていく。

おそらく帰るのだ。

故郷たる海の中へ。

(このままにしては)

かの生物はあくまで一個体だ。

防波堤まで辿り着けば、同族に知らせるだろう。

いずれは眷属に、そして『親』に。

「待って、兄さん! 室内でそんな装備は…」

聞き覚えのある若い女の声。

『兄さん』とも呼んでいた。

どちらにしても、ここから出なくてはならない。

(ただで…というわけにはいかなくなりましたね)

ルシアは室内を確認する。

自身の姿も。

ナイフも刀もない。

それ以前に甲冑が。

(時間はない)

実験器具の棚を漁り、手術に使うようなメスを取り出した。

人間相手なら十分凶器たり得る。

心許ないが、ルシアはあるだけ全て持ち出した。

(逃がさない)

窓枠の破片を引っこ抜くとそれさえ刃のように構え、白い殺人姫は夜の闇へと跳躍した。

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