第3話≪ソラ 空【lost-one】の章①≫

「アストロラーベ(astrolabe )」


小さな背丈の少年は、カーテンをオーロラのようになびかせる夜風が吹き込む窓から、たっぷりと黒の絵の具で塗った夜空というキャンバスに、白く灯りを燈す星を片手で掴むしぐさをしながら、ぽつり、呟いた。


―星(astro )を 取る(labe )


背後の薄いドア一枚隔てた奥から少年と世界で最もよく似た二重螺旋ゲノムを有する4人の喧騒が聞こえる。

少年の顔は無表情で仮面様。冷えきった鋼鉄の心に巻かれた鎖は、重く悲しく軋しませ、いびつな不協和音を空中の周波数という振動譜面に一音一音刻む【奏で【カナデ】る】。


家という棲み処には僕の存在はない。

家族という集合体には僕の存在はない。

ヒトが初めて出逢うコミュニティである家族の集合体である社会に僕の存在はない。



…だれか…だれでもいいから気付いてよ。僕の存在に。



胸に手をあてる。

とくん とくん とくん

心臓の鼓動と脈がてのひらに伝わる。置時計の針のチックタック チックタック規則正しく時を刻む音と重なる。


うん、ぼく、ここにいる。今ここでちゃんと生きている。


毎日毎日仕事のストレスの発散で酒に溺れ【addiction】酔っぱらった父と、一級建築士の資格をもち自営業を営む母親が、口論、怒鳴り散らし、物が壊れる音に混ざって、お姉ちゃんとお兄ちゃんの泣きながら止めに入るつんざくような悲痛な叫び声が薄い板の隔たりを容赦なく漆黒の矢の形をして通貫してくる。


いつからこうなったんだろう。


小さい頃、よく近所のママさんたちから 

ソラ君のご両親はオシドリ夫婦でいいわねぇ

って言われてオシドリの意味がわからなかったけど、なんとなく仲睦まじい意味なのかなと汲み取れ、むずがゆいような照れ臭いような、でも幸せという感情を確かにあの頃の僕は感じていた。あの頃の記憶は消えない。忘れたくない。でも毎日毎日息をひそめ、いないふり、血のつながった四人がいても僕は陰に隠れるように下をうつむくか、身をめいいっぱい小さく縮める。父さんと母さんの言い争い。父さんが部屋に引きこもるとようやく炎が消えたと思ったら今度はお姉ちゃんとお兄ちゃんが自分たちのストレス発散でお母さんに悩みやうっぷんを父さんの機嫌を損ねないように小声でぶちまける。


ぼくは…ぼくは…


のどから音節がでかかったところで、母さんの顔を見る。泣き腫らした真っ赤な瞳に疲弊しきった表情でぐったりしているのが目に飛び込む。ぼくは湧き出た感情などをぐっと押し殺しなかったようにもみ消す。


お母さん…



小学校低学年のころ、重要な管理職に就いている父さんは仕事を休んでまで運動会の応援にかけつけてくれた。お母さんの手作りお弁当に入っているタコの形をしたウィンナーと少し甘い卵焼きをおいしいってお母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃんと一緒に笑顔で食べて、最後はいつも姉兄弟の三人でお弁当のおかずの取り合いになった。ぼくの競技をおなかの底から力いっぱいだした大声で「ソラ―――!!!頑張れ―――――!!!!」とグラウンドに響き渡るごとく応援、動画撮影に走りにはしり回って汗だくで首にタオルをひっかけた父さん。ぼくににっこり笑顔で「ソラ!1たす1はなぁんだ!」と言って、ぼくは左手を腰に、右手でVサインをえへんとして「に―――――ぃっ!【2】」とえくぼ作り。

「ナイスショット!」父さんはパシャッと撮影すると、「ソラ、かけっこよくがんばったなぁ!」と満面の笑みをほころばせて背中をぽんっと軽くたたいてくれてすごく嬉しかった。うん、バトンタッチ、一生懸命練習したんだ。


思い出。記憶。


ぼくの脳に書き込まれた映像。


この映像は色褪せてしまうのかな。


なくらないで。崩れないで。壊さないで。上書きしないで。

ぼくの大切なもの。



ソラの部屋には天文に関するものが沢山ある。建築士母さんお手製の天文観測機、プラハの天文時計をモチーフにした黄金の羅針盤、ブラックホールを解析するための図面、太陽系の惑星と月が同期してくるくる回転する地球儀、周波数や振動数を音と記号、数字に変換するデジタルマイクのようなもの、星座がキラキラ宝石のように輝く自家製インドアミニプラネタリウム装置。


そして、ぼくだけの空座標。


パソコンの前の椅子に体育座りをし、遊園地の観覧車である歯車をからからからから一生懸命元気にまわして遊んでいる雄のジャンガリアンハムスターのふくを左手にゆっくりのせ、右手で優しくふくの背中を撫でる。ふくは、ソラの手のひらの温もりでぬくぬくこたつに入ったように安心しきってとろけ、雪見大福が溶けてぺちゃんこになったように薄っぺらくなって、身を預けたでちゅー ちゅぴーんごごごちゅぴーと言わんばかりに爆睡する。


PC の液晶の向こう側の《存在》。

#がいう。

「なんで時計っていうケーキは12にわかれてるんじゃろうね」

ぼくはキーボードに打ち込む。

「12宮環さ。その周りを黄金の輝きを放つこの世の神、太陽が回る。それを黄道っていうんだよ」

#はすぐにレスポンスを投げてくる。

「へぇー12…か… 君知ってる?正三角形を上下反転したものを重ねると神秘なる扉が開く魔法陣の正六角形ができるんよ。12はその6の倍数、6は3の倍数やね」

倍数…か…

今ぼくが対峙しているSSSと呼ばれるものは、始めた当初は住人4,5人の小さな規模だった。それが3日もたたないうちにビッグバンのごとく巨大化に膨れ上がり、今や言語も文化も異なる世界中の人間がC言語をしのぐSSS言語という独自の特殊なプログラミングを介して寄り集まい、ヴァーチャル世界で次から次へと現れる《悪》を共に根絶するというなかなかなエキサイティング、手に汗握りながらもセーフティリミットがきちんと管理されているので命にかかることのない完全なる架空ソーシャルゲームである。

SSSで初めに出逢った#というハンドルネームの人間はやたらと数字に関することに詳しい。表示でハンドルネームの右斜め上に個人認証データーである小さく国籍が載るため、日本人であることは間違いない。しかも独特ななまりがあって、自分と同じくらいの子なのかなと推測していた。

「君、独特のなまりあるよね…」

#はすかさず球を打ち返してくる。

「えーーーー、、君もそういうん?いややなーこの口調自分らしっくてすんごい気に入ってるんやけどね。世界に一つだけの方言、なーんてねっ」

「いや、悪口とかそんなんじゃなくて、なんでなのかなって純粋に思っただけ

傷ついてたらごめん!」

「あ、そ。ははは!君らしい回答でわらっちゃったよ。奈良の十津川村って知ってる?日本のマチュピチュ。完全に隔離されてるから、奈良の人やのにイントネーション全部関東の標準語なんよ、知ってた?あ――――十津川村に帰りたい帰りたい帰りた――――い!!大阪いややーー!」

「わかったわかったから落ち着いて。大阪にもいい人いいところいっぱいあるんだから。ぼくは新潟だし大阪行ってみたいよ。うらやましな」

#は画面の向こうで満足したのか腑に落ちないのかよくわからないがとりあえずだんまり静かにしている。


十津川村。様々な摩訶不思議な伝説が数多く残る奈良の秘境である。

隔離された土地で長年根強く残る村民により世界遺産に登録されている。

なんでこの子はそんなとこからわざわざ大阪にでてきたんだろうと疑問に思うが、自分と同じ波長を感じて腫れものには触らずそっとしている。

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