第19話 初夏の日差しと幼い約束
夢を見ているという自覚は、アルトにはなかった。どんなに支離滅裂な夢でも、いつも目覚めてはじめて夢と気付くのだ。
それは、もう二度と戻ることのない時間。今は亡き祖父や、幼馴染たちと過ごした幼き日々の記憶。
◆
「じいちゃん!」
今日もアルトは、朝から自宅の三階にある書庫に向かう。
「おお、アルトか。今日は何のご本をお探しかな?」
いつものように部屋の隅にある机に向かい、難しい顔で分厚い本に目を通していた祖父は、孫の顔を見て相好を崩した。
「
「ふむ、木苺か。どんなことが知りたいんだい?」
「きのう、カリナたちと山へ遊びに行ったときに食べたんだけど、何だか苦くておいしくなかったんだ。おいしいのと、そうじゃないのとがあるのかな」
「なるほど……よし、探してみよう」
アルトと目線を合わせるようにしゃがみ込んでいた祖父は、立ち上がって右手を胸の前に掲げる。
「…………リア……」
祖父の唇からこぼれた囁きを、アルトは聞き取ることができなかった。
そのまま待つことしばし。本棚の一つから、一冊の本が小さな光をまき散らしながら飛んできて、まるで手品のように祖父の手に収まる。
それは手品などではなく、彼の使う魔法なのだと、アルトは以前聞いたことがあった。そして、大人になればアルトにもきっと使えるだろうとも。
それを聞いて以来アルトは、大人になって魔法が使えるようになる日をずっと楽しみにしている。
再び机に戻ると、祖父はアルトを子供用の椅子に腰掛けさせ、並んで本を眺める。
「へえ、こんなにいろいろあるんだ」
祖父の見せてくれた本のページには、いくつかの木苺が精緻な筆遣いで描かれていた。よく見ると、葉の形や実の色などが、少しずつ違っている。
「おいしくなかったのは、多分この
「それに、前に食べたのは、赤くておいしそうだったけど、全然味がしなかったなあ」
「それはきっと、
ページをめくると、祖父はいくつかの木苺の絵を指差す。
「このあたりに生えている木苺の仲間で、食べられるのは、
「うーん、そうかも」
「それじゃあ、一つだけわかりやすくておいしい木苺の見分け方を教えてあげよう。そうすれば、今度はカリナちゃんと一緒に食べられるよ」
「べ、別に、カリナのために調べてるわけじゃ……」
そうして、祖父がまたページをめくろうとした、その時だった。
「アルトー、アルトー、いるー?」
部屋の外から、アルトを呼ぶ声が聞こえてきた。
「おお、噂をすれば。どうやらお迎えが来たようだね」
「ええっ!?」
祖父の言葉に驚いたアルトは、急いで椅子から飛び降りる。
その直後、音を立てて部屋の扉を開き、姿を現したのは隣の家に住む女の子、カリナだ。
栗色の髪は短く切り揃えられており、服装はいつもと同じ半袖のチュニックに短いズボン。彼女は真冬以外にはほとんど、そんな男の子と見間違えられそうな格好をしていた。
実際に、初めて会ったころはアルトもカリナのことを男だと思っていたくらいだ。もっとも、その年ごろの子供たちにとって、仲よく遊べさえすれば男と女の違いなんてあまり意味のないものであったが。
この近所では、アルトと同い年の子供はカリナだけだった。だからカリナはいつもアルトのところに遊びに来て、外に連れ出そうとする。
アルトの家には何人かの使用人がいるが、アルトの友達とみなされているカリナは、何の問題もなく家に入ることを許されているのだ。
しかしアルトからすれば、せっかく楽しくご本を読んでいるのに、いつもカリナがジャマをする、という悪い印象が少なくなかった。
「あっ! いた! アルト!」
その声に、アルトは思わず祖父の背中に隠れる。
「今日はシエラちゃんのお祝いに行くよ!」
いつも決まった相手とだけ遊んでいたアルトに、最近新しい友達ができた。近所の別荘にいる、一つ年下の女の子、シエラだ。
避けようとするアルトの様子を意に介さず、カリナは回り込んでアルトの手を握りに来る。
「えーっ、この前行ったばかりじゃない。あんまり何度も行っちゃ、おうちの人も困るんじゃないかな……」
アルトはさらにカリナの反対側に回ろうとして、そのまま追いかけっこになった。二人はアルトの祖父の周りをぐるぐると走り回る。
「じ、じいちゃん、助けて……」
「アルト、今日はシエラちゃんのお誕生日じゃなかったかな」
そんな祖父の声に、アルトははっとする。
「忘れてたの、アルト?」
「あれ……今日だっけ? でも、プレゼントも何も、用意してないよ」
「しょうがないなあ。それは後でもいいから、とにかくお祝いに行こっ!」
「う、うん……」
シエラとその家族はもともとこの村の住人ではない。病気でいつも調子の悪いシエラのために、町から夏の暑さを避けてやってきていると聞いていた。
カリナに手を引かれ家の門を出ると、喧騒と初夏の日差しがアルトを包み込んだ。北の国々へ抜ける街道沿いの宿場としてにぎわうプレア村では、毎日多くの旅人が街道を通り過ぎてゆく。
シエラの別荘に近付くと、その門の前に小さな人影があるのが見えた。
小さな花束を背中に隠した、黒髪黒目の少年。
カリナの家の向かいにある、宿屋の一人息子のディアスだ。アルトたちより一つ年上で、数少ないいつも一緒に遊ぶ友達であった。
少し離れたところには、年の近い子供たちが他にも住んでいたが、自然と家が近いもの同士で遊ぶようになっていた。
「ディアス!」
背後から掛けられたカリナの声に、少年はびくりと体を竦ませる。
「な、なんだ、カリナか。びっくりするじゃないか」
「何? ディアスもシエラちゃんのお祝い?」
その問いかけに、ディアスはわずかに顔を赤らめながら目をそらす。
「お、おう。カリナ、それにアルトもか」
「うん。それじゃ、一緒に行こっか」
一瞬ほっとしたような顔になった少年だが、その直後には自分でそれに気付いて表情を引き締めた。
「よし! 行くぞ!」
気合を入れるように、ディアスは声を張り上げる。
そして結局、いつもの三人で揃ってシエラの部屋を訪れることになった。
◇
「「「お誕生日、おめでとう!」」」
「ありがとう、みんな……」
白い寝間着姿でベッドに腰掛けたシエラは、今にも泣きだしそうな表情でお礼の言葉を口にする。
まっすぐな長い黒髪に、透き通るような白い肌。見るからに儚げな印象のあるシエラは、アルトやディアスにとって、幼いながらも彼女を守ってあげたいという庇護欲を掻きたてられる、そんな存在であった。
「ごめんね、みんな……いつも一緒に遊べなくて」
「いいのよ。そんなの気にしなくて。ちゃんと病気を治して、それから一緒に遊ぼうね」
すまなそうに三人の顔を見回すシエラを、カリナが慰める。
「でも、シエラ……横になってた方がいいんじゃないの」
「ううん、大丈夫。今日は神官様に魔法をかけてもらったから、いつもより調子がいいの」
気を使うディアスに、シエラはかぶりを振って答えた。確かに、前にあった時より血色も良さそうに見える。
「そうなんだ。私もこの前、旅の神官の人にケガを治してもらったよ。大きくなったらあんなふうになりたいなあ」
神官、という言葉に反応したか、カリナがそんなことを言い出した。
「神官?」
アルトは思わず聞き返していた。旅の神官にはアルトも会ったことがあるが、どうもカリナのイメージとは違う。
「でも、今まで何人か神官の人にも看てもらったことがあるけど、うまくいかなかったんだ……よ……」
「私が大きくなってもっとすごい神官になったら、シエラちゃんの病気だって治せるかもよ」
シエラの弱気を吹き飛ばそうとするかのように、カリナは声を張り上げた。
「カリナちゃん……ありがとう」
「でも、カリナが神官か……戦士の方が似合ってるんじゃないか。なあ、アルト」
「あはははっ」
ディアスも同じようなことを考えていたことに、思わずアルトは笑ってしまう。
「もう、そんなこと言わないの!」
カリナが頬を膨らませ、ディアスとアルトを睨む。
「そういうディアスは、どうなの?」
「やっぱり宿屋の跡継ぎでしょ?」
シエラの声に続けて、カリナもディアスに話を向ける。
「そんなことないぞ! オレはいつか、世界一の槍使いになってやるんだ!」
村には剣や槍を教えてくれる道場があって、ディアスもそこに通っていた。
「そういえば、なんで槍を?」
アルトも道場を覗いてみたことがあるが、少し前までは、ディアスは剣の稽古をしていたはず。そう思って本人に聞いてみる。
「この間、宿に槍を持った戦士の人が泊まってて……紫色の変な服の人だったけど、すごく強くかったんだ。たくさんの人にケンカを売られてたけど、あっという間に倒しちゃった。オレも大きくなったら、あんな風に強くなりたい」
「じゃあ、アルトは? 大きくなったら何になりたいの?」
今度はカリナが、アルトに水を向けてくる。
「えっ、僕? 僕はやっぱり……じいちゃんの手伝いかなあ」
やはりアルトには、それ以外の考えは思いつかなかった。アルトの父は商人だが、妻であるアルトの母と一緒にあちこちを飛び回っているようで、ほとんど家にいることはない。
「いいなあ、みんな。大人になってからの、夢があって……わたしなんか……」
寂しそうにシエラが呟く。その声は徐々に小さくなり、かすれて消えた。
「そんなこと言っちゃだめだよ! シエラちゃんのパパとママも、他のみんなも、シエラちゃんの病気を治すためにがんばってくれてるんだから」
「う、うん。でも、病気が直ったら、わたし、町に帰っちゃうかも」
「大丈夫! みんなで会いに行くよ。ねっ!」
カリナが差し出した手を、シエラが小さな白い手で握りしめる。
「何やってんの! ほら、アルトも、ディアスも!」
「あ、ああ」
「おう」
少年二人もそれに応え、二人の手に自分の手を重ねる。
「それじゃ、約束しよう。大人になったらオレは、世界一の槍使いになってやるんだ!」
最年長のディアスが、口火を切るように宣言した。
「じゃあ、僕は、じいちゃんの跡を継いで、軍師になる」
「私は神官、ね」
それに続けてアルトたちも、続けざまに将来の夢を口にする。そして三人の視線が、シエラに集まった。
「わたしは病気を治して、それから……わたしも神官に、なれるかな?」
「うん! なれるよ、きっと。私も一緒だよ!」
カリナの声に頷いた後で、シエラは恥ずかしそうに頬を染め、小さな声で続ける。
「それと……お嫁さん……かなあ」
「それじゃ、私も、私もお嫁さん!」
カリナも慌てたように、そこに言葉を重ねる。
「って、アルト、ディアス! 何よその目は」
再びご機嫌斜めになったカリナから、二人の少年は目をそらす。それは、神官とどっちが難しいんだろう。そんな疑問が浮かんだが、少年たちはさすがに口に出すことはなかった。
「じゃあみんな……」
仕切り直すかのようにディアスが、握った手に少しだけ力を込めて、三人に語りかける。
「大人になって、もし離れ離れになっても、またここに集まって、いつかみんなで冒険に行こう!」
「「「うん!」」」
その言葉に、アルトたちは声をそろえてうなずいた。
当時まだ九歳のアルトにとって、大人になる未来ははるかに遠く、それでもまぶしく輝いて見えた。
そのころには、確かに。
◆
子供の頃の夢を久しぶりに見たのは、カリナと再会したせいか。それとも、長年住み慣れた村に別れを告げたせいだろうか。
「あれ……?」
目覚めたアルトの目に飛び込んできたのは、見慣れぬ部屋の景色。
ここはリーフ公国傭兵隊の隊舎。その中でも、男子寮として建てられたガイア棟の一室である。
アルトは数日前から、ここヴェルリーフに移住していた。春のドラゴン退治のおり、被害を大きくしたと言われ村に居づらくなった、というのもある。しかし本当の目的は、正式に傭兵隊に参加するためだ。
通常は、二人一組で部屋を使用することになっているが、現在のところ相部屋の相手がおらず、しばらくアルトは一人で部屋を借りることになった。
夢とはいえ、久しぶりに目にする二度と会うことのない人々の姿に、アルトはしばらくベッドの上から動けなかった。
頭を振って夢の余韻を振り払うと、アルトはベッドから飛び起きる。
今日から、傭兵としての日々が始まるのだ。
「今日も、暑くなりそうだな……」
部屋の窓から、明るくなり始めた空を見上げて独りごちる。
新たに生まれ変わったリーフ公国の主都ヴェルリーフにも、三度目の夏が訪れようとしていた。
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