第10話 異変の元凶
「じゃあ、あの森の主さんが死んだのが、今回の異変の原因ですか?」
コーデリアの言葉に、アルトは苦しげな表情で首を横に振った。
森の主の亡骸を発見してから、しばらくの後。
二人はその場を離れ、獣たちのいない場所まで避難していた。
「あれは、自然に死んだものじゃありません。あの傷から見て、明らかに何者かの餌として食べられた……それも、かなり大きな獣に倒されたようです」
その言葉に、コーデリアは言葉を失う。
「それに、主がやられたのは死体を見るかぎり数日前……森の異常はもっと前からです」
「でも、あんな大きな動物を食べるなんて……」
「今まで、あの主と戦えるような獣はこの森にはいませんでした。だからこそ、主と呼ばれるまでに成長できたのかもしれません」
アルトの表情が、不安と緊張を伴って厳しさを増す。
「どこかから迷い込んできた何者かが、この森のバランスを崩しているんです。そして、その元凶は、明らかにこの前よりも村に近づいています」
だがそれは、これまで彼がコーデリアの前で見せた、混乱したり動揺したりしていた姿とは違う。森を知り尽くしているからこそ、誰よりも森の異常を強く感じている。
「とにかく、一度村へ行きましょう」
そう言ってアルトは振り返り、先導するかのようにゆっくりと歩きはじめる。はじめて会ったときは頼りなく見えたが、狩人としての彼は本物のようだ。
父方の祖父から得た知識と、母方の祖父に教わった狩人の技。そして狩人としてこの森で過ごした日々。
それらが今のアルトを支えている。
その背中に、傭兵隊の強者たちとともに歩いているような安心感をふと覚えたコーデリアだった。
◇
さらに村を目指して森の中を歩き続ける。突然、コーデリアの前を歩いていたアルトの背が、跳ね上がるように伸びた。
「ッ! ……こっちへ!」
振り返ったアルトは、急にコーデリアの手を引き、走り出す。そして、少し離れた場所に会った大木の根元にあった洞に、コーデリアを押し込めようとした。
「な、何っ……! アルトさん!?」
突然のアルトの変貌。暴力的ともいえるその行動に、一瞬恐怖すら覚えたコーデリア。
だが、その表情を見たとき、それは驚きに変わった。
狩人の青年は、コーデリアの方を見ていない。その顔には、自分以上の恐怖と焦りが浮かんでいる。
それを見て、コーデリアはもう一度だけ彼を信じることにした。
第一印象の頼りなさから転じて、狩人としては頼りになると思い始めていた。その、頼りになる方のアルトが、ここまで恐れるほどの何かが近くにいる。
二人の人間が、かろうじて入れるだけの洞。その入り口をふさぐように、あるいは奥にいるコーデリアをかばうかのように、アルトは覆いかぶさり、そして動きを止めた。
その直後、何か大きなものが地面を打つ音が、森の空気を震わせた。
それだけではない。踏み折られる枝の音。蹴散らされる石の音。
それらは全て、巨大な何者かが近づいて来ることを意味している。それに気付き、コーデリアの体は強張った。
そして、獣道につながる谷筋からゆっくりと姿を現したそれを、ようやくコーデリアもアルトの肩越しに目にすることができた。
昼なお暗い谷の底でも、炎を宿したような紅い鱗はその存在を強く主張している。それゆえに、はっきりと視認できた。
鋭い牙と長い角の生えた頭、大地を踏みしめるがっちりとした四肢。そして、それに加えて、背中から伸びる厚い皮膜を備えた翼。
森の主が通れるほどの広い獣道を、それはたった一頭で塞いでいた。その背に背負われた一対の巨大な翼が、真紅の体をより大きく見せている。
この世界で最も強く、最も危険といわれる獣――
コーデリアの目が、驚きに大きく見開かれる。この大陸ではほとんど見る機会はなく、稀に飛来したものが昔話や英雄譚で語られる程度だった。
まさか自分の目で本物を見る日が来ようとは。
巨体ゆえか、あるいは恐怖ゆえか、その距離がうまくつかめない。その動きは、ゆっくりとしているように見えたのに、いつのまにかアルトたちの隠れた木の間近に踏み込んで来ていた。
「大丈夫……最近あの森の主を食べたのなら、まだ空腹ではないはず……っ」
コーデリアを安心させるためか、それとも自分に言い聞かせているのか。抑えられたアルトの声が聞こえる。
だが、何かに気付いたのだろうか。ドラゴンは二人の隠れた木を少し通り過ぎたあたりで足を止めた。そして長い首をもたげ、探るように辺りを見回している。
その時、コーデリアを隠そうとしていたアルトの腕から力が抜ける。続けて、その体が離れていくような感触があった。
「アルトさん……だめ……」
コーデリアは囁く。ドラゴンには決して聞こえないように、小さな声で。それでいてアルトには確実に届くように、その耳もとに唇を寄せて。
さらに、左手をアルトの背に、右手を首に回し、抱き締めるようにその体を引き寄せる。
そうしなければ、先ほど見た親鳥のように、彼はコーデリアを守るために
いつしかアルトの方も、コーデリアの体を抱くように腕をまわしていた。その体は、小刻みに震えている。いや、その震えがアルトのものなのか、それとも自身のものなのか。それすらもコーデリアにはわからなくなっていた。
実際にはほんの一瞬の出来事だったのだろう。それでも、本人たちにとっては永遠とさえ思える時間が流れた。
幸いなことに、ドラゴンは木の洞に隠れた小さな人間たちには気付くこともなく、その巨体は森の中の道をゆっくりとくぐり抜けてゆく。
そして、ようやくその姿が深い森の奥へと消えて行っても、二人は抱き合うように互いの体にしがみ付いたまま、動こうとしなかった。
体の震えは、なかなか止まりそうにない。
それからさらに、どれほどの時間が経っただろうか。
アルトがゆっくりとその身を引く。目が合うと、慌てて謝罪の言葉を掛けてきた。
「ごめんなさい! いきなりだったので、つい……」
いまだうまく言葉を発することのできないコーデリアは、それでも大きくかぶりを振って、謝ることではないと伝えようとする。むしろ、自分が感謝する方だと。
何とかそれは伝わったようで、アルトの顔に安堵の表情が浮かぶ。
そしてアルトに手を引かれ、コーデリアは強張った足を叱咤するようにして立ち上がった。
「あれが、今回の異変の元凶……」
アルトがドラゴンの消えた森の奥を見据えながら言葉を紡ぐ。
「とにかく……キースさんたちと合流しましょう」
続けてコーデリアも、まだ震えの残る喉から声を絞り出した。
◆
アルトはその後、さらに注意深く気配を探りつつ、ドラゴンの通れない細い獣道も利用して村を目指した。
そして、二人がようやく村の入り口にたどり着いた、その時。
村の並木道に、ひとしきり強い風が吹いた。
アルトがしばらく留守にしていた間に、高原のプレア村は春本番を迎えようとしていた。
冬の間、空を覆っていた鉛色の雲は姿を消し、隠されていた春の空が姿をあらわしている。
それは、強すぎる日の光に照らされた濃密な夏の空とも、大地の実りを祝福するような高く澄みきった秋の空とも異なる。
春の空は、新たな一年の色に染まる前の淡い色をしていた。
だが、空が春色に変わった後も、時々冬の名残のような強い風が周りの山々から吹き降ろすことがある。村人たちが花散らしの風と呼ぶそれは、村の入り口から続く並木道に季節外れの吹雪を巻き起こした。
「わぁ……っ!」
視界を覆い尽くすのは、舞い散る無数の薄紅色をした花びら。コーデリアは足を止め、花吹雪を見上げて歓声を上げた。
春を謳歌するがごとく咲き誇る、その木々の名は
村を訪れる客や街道を通る旅人をもてなすために、かつてアルトの祖父バーナードが取り寄せ、並木として植えたものだ。
前を歩くコーデリアが、アルトの方をふり返る。ドラゴンとの遭遇からずっと、狩人の青年の表情は暗かった。
その脳裏に浮かぶのは、森で遭遇した
ドラゴンは、アルトたちの住むソール大陸では環境の違いゆえにほとんど見られることはない。その南西に位置するゼムゼリア大陸が主な住み家だ。
その中でも上級龍族は、人間と同等以上の知能と、大国を一日にして滅ぼすといわれるほどの力を持つとされる。
幸か不幸か、先ほど目撃したのはやや力の劣る中級龍族。
ただし、劣るとはいっても、小さな村くらいなら一頭で焦土に変えることも難しいことではない。
真紅の鱗は、火の力を帯びていることを示す。
竜と龍の大陸と呼ばれるゼムゼリアでは多く見られるといわれる種である。真偽のほどは定かではないが、炎の吐息を操る龍を見て、遥か太古の人間は火を道具として使う術を学んだ、などという逸話もあるくらいだ。
ゆえに、付けられた名が『
アルトも、森の肉食獣なら何度も相手にしたことがある。
だが、ドラゴンは完全に別格だ。初めて目の当たりにしたその姿は、書物からの想像など遥かに超えていた。
狩人の経験以前に人として、いや生き物としての本能が告げていた。
「アルトさん」
コーデリアの表情から笑みが消え、真剣なものに変わった。
「あなたにとって、どんなに手を尽くしても解決できない問題だって、他の誰かにとっては片手ですませてしまえるようなことかもしれません。私たちが束になっても敵わないことでも、この世界の誰かにとっては一人で難なく片付けてしまえることかもしれません」
そこでコーデリアは言葉を切り、儚げな輝きを帯びた瞳でアルトの目を見つめる。
「そんな誰かを派遣するのが、私たち傭兵隊の役目です。もちろん、ドラゴン退治だって……なんて言っても、これはほとんど、キースさんとクロードさんの受け売りなんですけどね」
真剣に話していたコーデリアが、急にはにかんだ笑みを浮かべ、アルトから少しだけ目をそらす。
「だから……あのドラゴンのことは、安心して私たちにすべて任せてください」
再びその瞳を向け、コーデリアはアルトに微笑みと共に誘いの言葉を掛ける。
「今は、一緒に祭りを楽しみましょう」
再び風が吹き、二人は花びらの嵐に包まれる。
その昔、村がもっとにぎやかだったころには、この花吹雪が恋を成就させるなどという噂もあった。
実際に、花吹雪の中のコーデリアはまさに天使のようで、アルトは返す言葉を失ってしまう。それでも、確かにアルトの中でわだかまっていた不安が、コーデリアの纏う柔らかな光によって溶かされていくような気がした。
無数の花びらが舞い踊る薄紅色の吹雪の中で、しばし二人は見つめ合う。
「あーっ! やっと来た! って、二人で何やってんのよ!」
その雰囲気を破ったのは、やはりカリナであった。村の中から、何やら慌てた様子でこちらに向かって走ってくる。
アルトとしても、慣れない雰囲気に動けなくなっていたので、少しほっとしていた。カリナにわずかながらも感謝の意さえ覚えてしまうほどに。
◆
プレア村へ向かう谷沿いの街道で、一人の男が歩みを止めた。
「どうしたの?」
連れの少女は、急に立ち止った男をふり返り、またかというような声を上げる。彼の唐突な行動にも、かなり慣れてきたところだ。
「呼んでいる……」
「えっ……何、なに!?」
少女の耳には、風の音、葉擦れの音、鳥の声ぐらいしか聞こえない。自分でも耳はいいつもりの少女は、周囲に
「近道をするぞ。あとから適当に来てくれ」
言うなり、男は谷底へ向け身を躍らせる。
「え、ちょ、待っ……!」
手にした槍の石突きを、杖がわりに崖の木々に突き当てて衝撃を殺し、男は落下の方向を変えた。槍はまるで第三の足と化したかのように自在に動き回り、槍使いは斜面とも呼べないような崖の壁面を滑るように駆け降りてゆく。
「もう! バカ! 朴念仁! おたんこなすーっ!!」
これまでになかった男の奇行をあっけにとられたように見送った少女は、深紫の残像が消えた谷底に向けてひとしきり悪態をついた後、目的の村に向けてとぼとぼと歩き始めた。
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