第8話 谷底の獣道

「コーデリアさん……一人なら上まで戻れたんじゃ?」

 アルトがそのことに気付いたのは、しばらく経ってのことだった。今は崖の下、谷底の獣道を二人で歩いている。


 獣道といってもかなり広く、その幅は街の大通り程もある。それは村人たちが森の主と呼んでいる、巨大な獣の通り道となっているためだ。


 ソール大陸は、まるで背骨のような山脈群によって南北に隔てられている。リーフ公国は、大陸の南西側、大山脈から枝分かれする形で南に延びる二本の山脈に挟まれていた。

 そしてアルトの故郷、プレア村は公国領の北端近くの高原にあり、周辺は山脈と谷間が入り乱れる複雑な地形となっていた。それゆえに、馬車で通る道は谷を越えるために遠回りをすることになるのだが。

 そして、辺りの山々は広大で豊かな森で覆われている。

 そこはまた、プレア村の木こりや狩人たちの仕事場でもある。複雑な地形ゆえか、森から得られる資源もまた豊富であった。良質な木材や毛皮などを売ることによって、昔に比べて寂れてしまった今でも、村を維持してゆくことが可能となっているのだ。


 アルトたちは結局、谷底を歩き、斜面に作られた道を登って対岸の村へと向かうことにした。距離だけならこちらの方がずっと近い。もっとも、カリナたちの乗った馬車よりも早く、というわけにはいかないだろうが。


「でも、一人だと寂しくないですか?」

「えっ……?」

 コーデリアの言葉に、アルトは思わず絶句してしまう。


「いえいえ、ここは自分の庭みたいなものです。もう五年近くここで狩人をやっていますから」

 まあ、傭兵隊本部であれだけ醜態を晒したのだ。頼りなく思われるのも無理はない。

 これから何とか挽回していこう。アルトはそう心に誓う。幸いここは慣れ親しんだ故郷の森。無理に格好のいいところを見せる必要はないが、これ以上ぼろを出す可能性も低いだろう。


「五年……」

 アルトの言葉を噛み締めるかのように、コーデリアは口の中で小さく繰り返す。

「でも、どうしてアルトさんは狩人を?」

「それは……祖父が王都に戻ってからしばらくして、今度は両親が馬車の事故で亡くなりまして……」

「それは……ごめんなさい。辛いことを聞いてしまって……」

 コーデリアがつい口にした疑問に、硬直、再び苦笑い、そして遠い目をしてアルトは答える。その様子にコーデリアは慌てて謝罪の言葉を述べた。


「いえ、大丈夫です。その後一人になった俺は、狩人をやっていた母方の祖父に預けられて、そこで生きていくための技を教わることになったんです。でも、その母方の祖父も一昨年この世を去りました」

 淡々と話すアルトと並んで歩きながら、コーデリアは黙ってその話を聞いている。


「まだ一人前、とは胸を張って言えないけど、それでも狩人として何とかやっていけるようにようやくなりました。でも、その姿を祖父に見てもらうことはできませんでした」

 そのまま、しばし二人の間を沈黙が満たす。


 やがて、アルトはその沈黙に徐々に堪えられなくなってきた。

 六年前にカリナの家族が村を去って、仲の良い女性はアルトの周りにいなくなった。そして今ではもう、若い女性自体が村にいない。

 それゆえに、最近では同年代の女性と話す機会がほとんどなくなってしまったので、何を話せばいいのかよくわからないのだ。

 考えるうちに、かつて村にいたもう一人の幼馴染が傭兵隊にいるらしいことを思い出した。彼について聞いてみようとアルトがコーデリアの方に顔を向けた時、不意に彼女が声を上げた。


「あっ、アルトさん、あれ!」

 コーデリアの指差した先、二人の歩いている獣道の前方には、一抱えほどの大きさの、褐色の羽毛と長い足を持った一羽の鳥の姿があった。

 しかし、普通は折り畳まれて背中に背負われているはずのその翼は、地面に向けてだらりと垂れ下がっていた。長い足は関節が曲がりきらなくなっているようで、右足を引きずるように歩く。

 よろよろと人間たちから逃げるように歩きながらも、時折歩みを止め、首を回してアルトたちの方を振り返る。

 その様子はまるで、人間たちに助けを求めているようにも見えなくはない。


「ああ、あれは擬傷鳥ラエサビスといって、この辺りにはよくいる……」

「そんなことを聞いているんじゃないです! あの鳥、怪我をしてるじゃないですか!」

 そう叫ぶとコーデリアは、足を速めてラエサビスに近づく。

 彼女の目前で、満身創痍に見えた鳥は不意に体勢を立て直し、翼を広げて舞い上がった。そして、少し離れた獣道に着地すると、再び足を引きずり始める。


「あ、あれ……?」

「あ、あの……コーデリアさん……あれは、怪我をしてるわけじゃないんです」

「えっ?」

 後ろからアルトに声を掛けられ、歩みを止めたコーデリアは戸惑いの表情で振り返る。


「多分この近くに、あの鳥の巣があるんですよ。だからあいつは自分が囮になって、卵やヒナを狙う敵をおびき寄せて、巣から遠ざけようとしているんです」

「じゃああれは、怪我をしたふりをしているだけなんですか?」

「ええ、怪我をした鳥ってのは、獣たちにとって、恰好の獲物ですからね。そうやって離れたところまで敵を連れて行った後で、自分は飛んで逃げます。そんな習性があるから、『傷付いた鳥』を意味する名前が付けられています」

 しばし鳥の様子を窺った後、再びコーデリアが向き直った時には、アルトは彼女に背を向け、その肩を小刻みに震わせていた。


「アルトさん……? もしかして、笑ってます?」

「いや、あの鳥は敵から巣を守るために必死であんな行動をしてるのに、その相手から本気で心配されるなんて……」

 耐え切れなくなったのか、そこでアルトは吹き出した。


「ご、ごめんなさい。つい、我慢できなくて。でもまあ、コーデリアさんが優しい人だってことは、よくわかりました」

「もう……またそんな変なことを……」

 薄暗い谷の底でもわかるほどに頬を紅潮させて恥じらうコーデリアは、アルトの方から目をそらし、空中に視線を泳がせる。

 そんなコーデリアの様子を見ていると、アルトの方も笑いを忘れ、顔が熱くなってくるのを感じた。


「ごめんなさい。笑ってしまって……」

 アルトはもう一度、彼女に詫びる。

 目と目が合うと、二人ははにかんだような笑みを交わした。

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