第七章 それは狂気
これも夢なのか? 頬を抓る。
「っ! いってぇ……っ!」
そんなに力を込めたつもりはなかったが、不安を取っ払いたい思いが左手の親指と人差し指に加える力を必要以上に強くさせていた。痛い。ひりひりする。夢だった、では済ませてくれないようだ。
とんでもないデジャブを経験した。夢で起こった出来事があんまりにもそっくりそのまま展開されたものだから、未来を見る能力が開花したのかと思った。
「つ、ついにオレにも特別な力が……!? じゃ、じゃあ、オレの未来はどうなってる!? 見えろ、オレの未来!」
オレは神経に意識を集中させた。こうすることでオレの未来が見え――
「……あれ? も、もう一回! 教えてくれ、オレの未来をっ!」
………………。
見えない。念じても、念じても未来は見えなかった。なんか、どこかで似たようなことをやった気がする。できないことを大声で叫ぶという行為を。繰り返してしまってメチャメチャ恥ずかしい思いをした。多分、今のは家族に聞かれていたことだろう。うぅ、穴があったら入りたい。
なんだ、予知能力に目覚めたわけではないのか。がっくりと肩を落とす。少し考えればわかることだった。あの夢が正夢になるのだとしたら、オレはこの後、異世界に行くことになるのだ。流石にこれは突拍子もない。信憑性が薄い。現実味に欠ける。異世界なるものが存在していたとしても、オレがそこに行けるとかあり得ない。オレが異世界に行けるならもっと大勢の人が異世界を訪れている筈である。それならば、ニュースで異世界について取りざたされそうなものだが、そんなことは一度たりともない。異世界の存在を信じているのはオタクくらいなものなのだ。
「まぁ、ニートに対して働けって言うのは普通のことだし、いつかは言われるかもって思ってたから夢に見ても不思議じゃない……。ってことは異世界転生の部分は現実逃避をしたかったから見たんだな。……現実逃避、できてなかったけど……」
オレに予知能力などなかった。偶々、夢で見たものと現実で起こったことが同じになっただけだ。ただ、それだけのことだった。
馬鹿なことを考えるのはもうやめる。それよりもこれからのことを考えなければならない。
働けと言われてもオレは対人恐怖症とコミュニケーション障害を拗らせている。それに作業のスピードが遅い上、怒られることに堪えられないメンタルの虚弱さを併せ持つ。面倒くさい性質だ。いても会社側のプラスにはならないと自分でも判断する。もしオレが面接官であったとしてもこんなやつは採用しない。
「……はぁ、絶望的だ……。まず、試験を通るのも厳しい人間性なのに、受かっても続けられる気がしない……。こんな性格じゃ、まともに働くことなんてできないよ……! 働けないと家族を路頭に迷わすことになる……。オレ、両親の年金を食い荒らす穀潰しだからなぁ……。って、オレはお金版のオークかよ! ……くそぅ。家族を困らせるくらいならいっそのこと死――」
今、オレは自殺しようと考えてしまった。そうすることが家族も助かり、オレ自身もラクになれる方法なのだ、と。瞬間、額から尋常ではない量の汗が流れ出てきた。
「――え。なん、で……。あれは夢、だったんだろ……? 死んだらそれで終わり――って、どうして夢に沿うように動いてるんだよ、オレは!?」
オレは死んでもいいと思った。しかし、それを実行したらまるっきり夢で見た通りになってしまうではないか。あの夢を予知だと信じるには無理がある。だって、異世界だぞ? そこへよりにもよってついていないオレが行くって? デタラメにもほどがある。そう捉えているのに、どこか気味の悪さを覚えて仕方がなかった。
よく考えてみる。認めたわけではない。ただ、ビビった。それはもう、今、急に声をかけられたら卒倒しそうなほどにビビッていた。
「オレが異世界に送られるなんてない、ないっ! ……でも、死んだ後のことなんて誰にも想像つかないよな……。死んだら取り返しがつかないわけだし……」
これは夢で見た異世界において、ゲームみたいにコンティニューができなかったらどうしようという悩みと同じだった。向こうではやり直したいと願っていて、こっちでは続かないことを望んでいる。生きたいのか、死にたいのか。矛盾しているようだが、現実の世界と夢のような世界では当然、考え方が違ってくる。とはいえ、現実世界のスペックのまま異世界に行くのは避けたいわけだけれど。
「もし、仮に夢と同じように進んだとしたら――」
――最悪だ――
暗闇を気が狂いそうになるほど彷徨ったあと、救いのない第二の人生が幕を開けることになる。そんな運命はまっぴらだ。生きよう。オレは思い直した。
何も自ら地獄かもしれない場所へ赴く必要はない。改めて周りを見てみると、オレが置かれた環境は物凄く恵まれていたことに気づかされる。炊事は炊飯器やコンロがあるから火を起こすところから始めなくていい。掃除は、AI付き自動掃除機があるから箒をつくって掃かなくていい。洗濯は洗濯機があるから板を使って手洗いしなくていい。ハイテクな家電があるから断然、手間と時間がかからないのだ。風呂だってスイッチ一つで沸かせるし、トイレだって今のは自動で消臭までやってくれる。エアコンがあれば一年中家の中で快適に過ごせるし、車があれば移動も楽。娯楽も充実している。そもそもこの国は病気が流行っているわけでもなく、紛争地帯というわけでもない。衛生的で平和的。これだけでも幸せなことだった。
あの夢で疑似体験をしたことで、オレはそのことを痛感した。もしかしたら、それを知らせるために見せられたのかもしれない。
「そうだ……。こんなに恵まれてるのに自分から手放したら罰が当たるな……」
折角、何不自由のない生活を送っていたのだと気づけたのだ。ありがたみを感じながら堪能したい。そう思ったオレはコンビニへと向かった。求人冊子をもらうために。
働くことを決意し、証明写真も撮ってきたその帰り道。
「……不安はあるけど、オレが働けば家族は家に住めるし、オレもこの生活を続けられる筈だ。が、頑張らないと……っ」
気合を入れるために独りごちるオレ。少しだけ、ほんの少しではあるけれど、変われたような気がした。ずっと逃げていた自分から。
あの夢を見れてよかった。色々と見詰め直すキッカケになったから。これから少しずつ強くなっていけたらいいな、と前向きになったところ、大型のバイクが横にある車道を通り過ぎていった。その直後――
プァープァーッ
警笛の音がした。
すぐ後ろから。
振り返る。
絶句した。
今さっき通っていったバイク。
それが飛んできていた。
回転しながら。
オレの方へと。
「――な」
……
…………
………………
「ぁう、うわぁあああああああああっ!」
上体を起こす。勢いよく。早く避けなければと足をばたつかせる。ところが、もたついて自分の足に引っかかり、派手に転倒した。不味い。慌てて状況を確かめる。バイクはどうなったのか。それを把握しようとして。
「――え?」
素頓狂な声が漏れる。漏らさずにはいられない。何故なら、何もかもが変わっていたからである。
「ど、どうなってるんだよ、これ……!」
そこはコンビニからの帰り道ではなくなっていた。澄んだ青空と白い雲、疎らに生えている木、敷き詰められた絨毯のような草花。見たことのある光景が広がっている。目に見えるものだけではない。自然の匂いも、風の音も、それを受ける感覚もオレは知っていた。
「あれは夢だったんじゃないのか……っ!? な、なんで……っ」
眼前に展開されていたのは――
――草原だった。
混乱する。どうなっているというのか。オレは家に帰る途中だった筈だ。そこで急にバイクが宙を舞って、オレに向かってきた。それから……? それからの記憶がない。途切れていた。また夢を見ているのか。早く目覚めろと唱えるが、見えているものは変わらなかった。信じたくなくて、拳を地面に叩きつける。
「ッ痛! くっそぅ……、痛い……っ!」
冷静に考えてみればこれが夢である可能性は低かった。オレの記憶は帰路に着いている最中でなくなっている。これが夢なら、オレは路上で寝ているということになるのだ。そんな経験、今までに一度だってない。
考えられることは二つ。バイクの下敷きになり意識不明となって夢を見ているか、バイクの下敷きとなり死亡して異世界に転生したかのどちらかだ。感覚が機能していることを考慮すると転生したという方が適当ではないか。まさか本当に異世界に転生することになるとは思わなかった。夢で見たものが現実になったということなのだから。オレが予知能力を手に入れたというのは強ち、全否定されるものではないらしい。
いや、おかしい。未来予知が正しいというのなら、オレの死因は交通事故に巻き込まれたことではなく、自殺になっている筈だ。意識して避けたから未来が変わったのか。或いはただ単に的中率が低いだけなのか。前者であってくれと心から願う。スキルまでポンコツだったら泣くに泣けない。けれど、恐らく後者なのだろう。理由は使用する人間がポンコツだからだ。そのためスキルも使用する人間に釣り合うように調整されてしまったのではないか。オレはそう睨んだ。それにオレが前者であることを求めてしまったから逆を突かれる可能性は大いにある。
「予知ってどのくらい当たるんだ? 今のところ、二つ当たって一つ外れ――」
「グウァシャウァヴォウァシャアアアアアアアアアッ!」
背筋に嫌な寒気が掠めた。アイツの声だ。アイツの。森林を破壊し、モンスターを貪り食った暴君、ドラゴンの。
オレは咄嗟に木の陰に隠れ、上空を見る。ちょうどその頃、想定していた生物がオレと太陽の間を通り抜けていった。
「……マジか……。ドラゴンはいるのかよ……」
アイツとはいい思い出がない。こういうことは当たるようだ。だとしたら、やつがいることはほぼ確定していると言っていいだろう。オレが一番遭いたくなくて、恨んでいるあの男がいることは。脳裏を過った忌々しいあの笑顔を頭の中から払い落とす。
確かこの後は自分の状態を知るために湖へ行ったのではなかったか。そこでドラゴンに襲われるというのが予知。危険なことを承知で湖に近づこうとは思わない。しかし、知りたかった。予知能力がどのくらい当たるのかという、その精度を。
確率を調べるため湖へやってきたオレ。夢の通り、水面に映った自分の姿を覗き込んでみる。うん、変わっていない。老いていないことにほっとする仕草をしていると、風に煽られる。それはどんどん勢いを増し、バキ、バキッとへし折られる木の音も響いてきて俺の耳に届く。オレの予知能力が当たった。後方からの妙に熱い風によろめかされる。ドラゴンがすぐそこまで迫ってきていた。
「ドラゴンがいたことと、そのドラゴンと遭遇したこと、これで当たりは四つ……。確率は八十パーセントか。……今のところだけど。このままいってくれれば申し分ない性能なんだけどなぁ」
オレは予知の性能を調査するのに夢中になりすぎていた。確率が思っていたより悪くはなさそうだったために舞い上がっていて、重大なことを忘れていたのだ。ジュワーッと一気に蒸発していくような音を聞いて漸くそれを思い出す。
「――って悠長に精度を計っている場合かっ!」
この感覚だとドラゴンはもう背後にいる。予知が本当だったのか確かめるために自分の身を危険に晒したのでは意味がない。本末転倒だ。
オレは小石を拾い、ドラゴンに向かって投げた。夢での次の行動はこれだった筈。ドラゴンを目掛けて放った石が竹刀のような刀になるという展開。それでこの場は切り抜けられると思っていた。けれど、違った。
――カチッ
石はそのままドラゴンの腕に当たった。困惑する。刀に変形して口に突き刺さり、怯ませられるのではなかったのか!? 周りにあった違う石を手当り次第に投げてみるも、刀に変わるものはなかった。湖のほとりには石が点在していて目的のものを見つけ出すのは難しいかもしれないけれど、夢ではそれを一発で引き当てられていた。引き当てられていたのに。こんな大事な場面で外れるなんてあんまりだ。
口内に光を集約させ始めるドラゴン。それはこの段階で放つ技ではないだろう! もっとあと、翌日になって城下町の近くにある林で初めて見る攻撃の筈だ。こんなところで撃たれるなんて聞いていない。
予知は外れたのだろうか。それとも、夢でも刀になる石を見つけられなければこういう流れになっていたのか。
オレは走った。兎に角走った。走ることしかできなかった。
ドラゴンを見る。エネルギーのチャージが終わっていた。もういつ発射されてもおかしくない。オレは急いだ。急いで湖の中へ飛び込んだ。
――キュィィィィィン、チュドォォォォォォォォォンッッッッ!
射られる光線。湖面の全域が白光に覆われる。湖に潜っていなければ危なかった。もし、あの光線を浴びていたら、人間の身体なんて一瞬にして消し飛んでいたに違いない。
暫くオレは潜水を続けた。ドラゴンがオレのことを諦めてどこかへ行ってくれることを祈って。あんな暴君と闘ったところで勝てるわけがない。そんなこと、予知で見るまでもなく判別できることだ。
「ぷはーっ! はぁー、ふぁー……っ」
素潜り記録は自己ベストを大幅に更新した。三分の間、オレは息を止め、潜り続けていたのである。人間、土壇場になるといつも以上の力が発揮できることがあるものだ。危機迫った状況に陥ったことで生物としての生存本能が呼び起こされたのだろう。兎にも角にも、三分間湖底に身を潜められたお蔭でドラゴンは周りからも上空からもその姿を消していた。
人生、何ごとも経験だとは言うけれど、夢も馬鹿にできないものだ。オオカミさんの家で火起こしを手伝っていた時のイメージが使えた。オレは湖の近くにある洞穴の入口で集めてきた木の枝に火を点けることに成功したのである。オレはその火で濡れた服と冷えた身体を温めていた。
「オオカミさんに教えてもらっててよかったぁ……! オオカミさんがいるっていう予知は当たってるのかな……?」
異世界に来る、という予知が当たったのだから、折角ならオオカミさんに会いたい。けれど、オレの予知能力は肝心なところでミスを犯すのだ。元いた世界での死に方も違っていたし、武器も手に入れられなかった。的中率は六割六分六厘。大体三分の二の確率で当たっているが、当たらなくていいことが当たっていて、当たってほしいことが外れている傾向にある。彼女が存在している可能性は限りなく低かった。
けれど、だからといって他に行きたいところがあるわけでもない。一番確かめたいことはオオカミさんがこの世界にいるかどうかだ。正常に見ることができなかった城下町の様子も気になってはいたが、オオカミさんより優先順位は高くない。ちなみに集落は論外だ。行きたくもないし、見たくもない。
服を乾かしている時間が暇だったので有効活用しようと試みる。オオカミさんに教えてもらった木の枝と蔦、それに植物の棘を見つけてきて、それを繋ぎ合わせる。つくったのは釣竿だ。オレはそれで魚釣りを開始した。
釣果はなし。オレが鈍くさいものだから食事にありつくことはできなかったわけだけれど、不思議と嘆きの感情はやって来なかった。それよりもオオカミさんのことが気になっていた。いなかったらどうしようという不安の方が勝っていたのである。お腹が減っているとも感じないほどに。食べ物を欲していなかったというのも、成果が
この日は雨風を凌げる洞穴の中で休むことにした。中といっても奥へは行かず、入口付近で、だ。幸いなことに初めからいなかったからか、ドラゴンが暴れ回った後だからなのかはわからないが、モンスターは現れなかった。枯れ葉を敷き詰めたベッドでゆっくり眠り、明くる日に備えたのだった。
そして次の日。オレは夢に逆らって城下町へは行かず、オオカミさんがいる山の中腹を目指した。勿論、集落にも行かずに、だ。草原を行き、発見した道を左へ進み、荒野のような場所を抜ける。すると、集落を目にした。見たくはなかったのだが、致し方ない。草原からオオカミさんの家へ向かうにはこのルートしか知らなかったのだから。集落になど寄らなければいい。それだけのことだ。
まだ日が高い位置にあったのでこれなら寄らなくてもいいだろう。いや、沈みきっていたとしても寄りはないが。断固として。
集落はスルー。山まで突っ切る。麓まで来たオレはすかさず登り始めた。
体力面に心配があるオレだったが、こんなに早く歩いてくることができるなんて自分自身に驚かされる。夢では同じくらいの距離を歩くのに半日かかっていたのに、今回はその半分程度だ。しかもまだ体力は尽きていない。これもオオカミさんに会いたい気持ちがなし得る賜物なのだろうか。人間は大切な人を思う気持ちがあるだけで少しパワーアップできる生き物らしい。単純に夢と距離が違っていたといえばそれまでなのだが、オレはパワーアップしたという方が好きだし、そうであってほしいと思う。
オオカミさんの家までもう一息というところ。
「No! No! Help,Help me! Nooooo! Oh,my god!」
わかる言葉が聞こえてきた。もうほとんど忘れてしまって、中学一年レベルのものくらいしか覚えていないオレでもわかる英語。女性の助けを求める声だ。
オオカミさんの元へ早く向かいたいオレ。しかし、明らかにピンチな状況であろう人を放っておくというのはどうなのだろう。魔物に襲われているのだとしたら大変だ。とはいっても、オレなんかが助けに向かったところでどうしようもない。弱いオレが行ったところで足手纏いになるだけだ。それならオオカミさんのところへ行った方がいいのではないか。彼女は強いし、頼めば脅威を退けてくれる筈だ。でも、オオカミさんを呼びに行っている間に手遅れになってしまったらどうしよう。何だか、オオカミさんに会うことを優先して女性を見捨てたみたいで気が引ける。オレは逡巡した。ふと、オオカミさんならどうするかを考える。彼女の性格なら、まず間違いなく助けに行くだろう。迷うことなく。だから、オレは彼女に倣うことにした。
草を分け入って進んでいくと、立ちはだかる大きな壁がある場所に出た。いや、壁ではない。崖だ。断崖絶壁と呼ばれるレベルの。できればここには立ち寄りたくなかった。何故ならここは墓場にされている場所だから。引き返そうとした時、また女性の悲鳴が響いてきた。
「Don't kill me! Miss me!? Nooooo!!」
その声は上から発せられていた。二十メートルほど離れたところから。
まさかと思った。
仰ぐ。
そこには人の影。
その影がどんどんはっきり見えてくる。
どんどん大きくなってくる。
落ちてきていた。
女性が。
――ゴキッ
鈍い音。すぐに理解する。これは即死だ。
何もできなかった。どうすることもできなかった。一瞬だった。オレは無力だった。人ひとり助けることも叶わない。予知の力があっても使うのがオレでは活かせない。宝の持ち腐れだ。
悲壮感に苛まれていると――、
「『ぉjyw@>2+3』Z!」
嫌な言葉を耳に捉えた。何度も聞いた。それはやつの詠唱だ。
上空に出現した火の玉。見る見る大きくなり、視界を占領した。巨大な火の玉が迫ってくる。まだやつはこんなことをしているのか。どれだけ死者を傷つければ気が済むのだ。英語を話していた女性はもう死んでいる。そんな彼女の身体までこの世から消し去る必要性はどこにもない。そんなの、やつのただの快楽だ。
オレは駆け出した。女性の身体を守るために。オレは見ず知らずの女性のために身体を張れるような大した人間ではない。それでも彼女の元へ向かったのは、責任を感じたからだ。オレが原因なのではないか。この女性が崖から突き落とされ、炎の魔法で葬られようとしているのは。オレが夢で見た予知の通りに動かなかったことで未来が変わってしまったからなのではないか。
本来、崖から突き落とされ、炎の魔法で燃やされそうになるのはオレだった筈だ。予知でそうなると見ていたから間違いない。けれど、実際に突き落とされたのはオレではなく、英語を話していた女性だった。もし、予知通りに行動していたら未来は変わらなかったかもしれない。彼女は死なずに済んだかもしれない。
オレの代わりに誰かが死んでしまうだなんて、まして存在ごと消されてしまうだなんて絶対にあってはならない。
駆ける、駆ける、駆ける、手を伸ばす。
ゴゴゴゴゴ……ッ
不吉な音。限界までエネルギーを溜める圧縮。まだ女性の元へは辿り着けていないのに、来る――!
――ドゴォォォォォォォォォンッ!
弾かれる。強烈な爆風。弾き飛ばされて木に打ちつけられる。
「がは……っ!」
炎上する崖の底。無惨にも焼かれていく女性の身体。肉も皮も残らない。あっという間に骨になった。女性を火刑にした魔法は彼女を燃やし尽くすと静かに沈下していく。
予知が外れたと最初は思っていた。けれど、オレには女性が焼かれた後の構図に見覚えがあった。古くなって色が褪せてしまったように見える黒みがかった骨の山、その中に一つだけ真新しい真っ白な骨があるという構図に。それは予知でオレが崖から落とされた時に見たもの、そのままだったのだ。
半日だ。夢でこの場所に来た時より半日も早く着いていたのだ。当然、夢では半日前の状況を知ることはできない。オレはここにいないのだから。見ていないだけかもしれない。見ていないだけで、オレが殺されそうになったその半日前にこういう出来事が繰り広げられていた可能性は十二分に考えられる。やつが夢の中でも女性を殺していたとする説は成立し得る。むしろオレの記憶と今見ている光景が合致している以上、オレの中ではもう既に説ではない。確定だ。
やつは人を殺した直後にオレと会っていたのか。それでいて普通に接してきた。そんなやつとオレは握手をしてしまっていた。夢とはいえ気分が悪くなる。
罪悪感はなかったのか。いや、あの骨の山からして十人はやっている。そんなもの、とっくになくなっているに違いない。それよりも、どうしてオレはやつに対して違和感を持たなかったのか。見抜けなかった自分に腹が立ってくる。
やつは異常だ。その異常性に悍ましさを覚える。やはりやつとは関わり合いたくない、そんな感情を抱いたその折だ。目に映る草叢が揺れた。
背筋が凍りつく。心臓を見えない何者かに鷲掴みにされる。握り潰されるのではないかというほどの感覚。苦しい。誰か、助けて――
「あくせづぶおじあd、あd!?」
聞いたことのある声。聞きたかった声。この世界の人たちとも、オレが使っているものとも異なる言葉。彼女の言葉だ。
くりくりとしたつぶらな瞳、頭の上部にある大きくて先の尖った獣耳、人のそれとは骨格が異なっていて人のものよりも前に突き出た位置にある鼻と口。銀色の毛に覆われた顔。
――オオカミさんだ。
いた。オオカミさんがいた。嬉しくて、嬉しくて不意に頬を一滴の雫が伝う。泣くつもりなんてなかったのに気持ちがいっぱいで涙が溢れた。それを見たオオカミさんが慌てて駆け寄ってくる。爆炎に巻き込まれに行ってボロボロの身体だったから、痛みやつらさによって流したものだと勘違いさせてしまったようだ。
「ははは……。大丈夫だよ、大丈夫。DAIJOUBU、大丈夫! ……って、わからないよね……」
オレはジェスチャーで大丈夫であることを伝える。オオカミさんは最初、驚いて戸惑ったものの、すぐに表情を明るくさせた。優しいオオカミさんだから、その笑顔にはオレが無事だったことに対する安心も含まれているだろうが、殆どは久し振りに他の人とコミュニケーションが取れたことへの喜びだったに違いない。彼女はやつの魔法によって孤独にさせられていたのだ。オレも夢で誰とも話せず、心を通わせられない状況を経験しているので気持ちは痛いほどわかる。まあ、オレが孤独を味わった期間はたったの二日半であり、彼女のとは比べ物にならないかもしれないけれど。
オオカミさんの笑顔を見ていると安心する。この笑顔を守りたい。あの夢の通りなんかにはさせてはならない、そう思った。だのに、運命の歯車は決められているかのように回り出す。
「vskb5t@gb5j-r<-。jq@えぐぇ>kw@-rt-?」
迫りくる狂気。オレはオオカミさんの手を取って走った。
走った。走った。無我夢中で走った。
やつと遭遇してはならない。遭ってしまったらオオカミさんが殺されてしまう。手前勝手な理由でオオカミさんを毛嫌いしているやつのことだ。オオカミさんが死ぬのはここから一か月先のことだと予知していても、余裕をかましてはいられない。オレはもう予知通りに動いていないのだから外れることだってあり得る。やつが仕掛けてこないとは限らないのだ。
そうだ、とオレは思いつく。オオカミさんを連れて城下町へ行こう。人目を気にしている彼女には悪いが、人の目があればやつも簡単には手を出せない筈だ。早速向かおうとした。だが、動かなかった。オオカミさんが。
「いあさづけったm、あm! あくせどなったあぎなん……? いあさづけていそ!」
困っている表情。わけもわからず、突然どこかへ連れて行かれそうになっているのだから無理もない。しかも、彼女からしてみればオレがどこの誰なのかもわからないのだ。不安を通り越して恐怖を覚えさせても仕方のないやり方だったと省みる。オレは説明した。
「オオカミさんの命を奪おうとしてるやつがこの山にいるんだよ! だ、だから一緒に街に行こう? ね……?」
必死に伝えようとした。けれど、ジェスチャーでの表現方法がわからない。まごついてしまう。
「く……っ! こうしてる間にやつが来ちゃうよ……! ここが危ないってことだけでもなんとか教えられないか――」
「ホウ? ナニガアブナイノデースカー?」
「――ッ!?」
やつの声がした。確かに聞こえた。オオカミさんも声の主を探している。それなのに姿を捉えられなかった。
――ザシュッ
顔に何かが飛び散る。
生温かい液体。
また、この感覚。
夢で見たのと同じ――
「あぁ、ああああ、あぁああああぁぁあああああああああぁぁぁぁっ!」
わからない。
足音もなかった。
影も見られなかった。
気配も感じなかった。
だというのに、いつの間にかオオカミさんの胸から凶器の先端が飛び出していて……。
レイピアのような細剣が。
ぐったりとする彼女を支える。現実では手を伸ばされることも言葉を送られることもなかった。当然だ。一緒に過ごした時間がないのだから。出会って間もない他人に彼女から伝えられることは何もない。空しい。空しくて儚すぎる。
オオカミさんの陰からケーマが姿を現した。
「『シャドウウォーク』。ワターシガツクッタアンサツスキルデース! カゲニモグッテオトモケハイモナク、イドウスルコトガデキマース! ……ソレニシテモ『イツミ』ニミラレルトハフカクヲトリマーシター。カノジョ、ベツセカイカラカメラモッテキテマースカラネー。コウスルシカナイデショー。サテ、アナータモミマーシタネー? ドコノダレカハワカリマセーンガ、シンデモライマー――ッ」
言葉の途中で遮る。顔を鷲掴みにして、その手に思いっ切り力を込めた。見ているだけで腸が煮えくり返るその顔を潰してしまいたかった。
「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す
――殺してやるッ!!」
「え、えyd@%>……おえs……!」
オオカミさんを殺された憎しみを、また守れなかった苛立ちを、全てケーマにぶつける。メキメキとケーマの顔に指がめり込んだ。このまま骨を砕いてやる、そんな気でいた。しかし――。
妙にスースーする。寒気がした。身体の中から冷やされている。まるで身体の内側を風が通り抜けていっているみたいだ。いや、みたいだ、ではない。本当に通り抜けていた。
――腹部に大きな丸い穴。
焼け焦げたのか、中は全て瘡蓋のように固まっていた。血は出ていない。やったのはケーマ。やつの手にはドラゴンが口内でつくり上げていたようなエネルギーの玉が光っていた。
腸、腹筋、背骨などが消え入っているのだ。脊髄がやられて、立っていられない。握力も失って、手が滑る。
地に伏す。大分遅れて襲ってくる激烈な痛み。意識が空白に塗り潰されていく。
「……ぐっ、く……っ!」
先走った。予知のようにチャンスを窺っていればこの男に屈辱を味わわせられたかもしれないのに。これでは犬死にだ。
手を伸ばす。けれど、やつの服を掴むのがやっとで。
この男にオオカミさんの苦しみをわからせてやりたいのに、この世界にしがみつくことは許されなくて。
「アー、マタコロシテシマイマーシタネー。デモ、コレモベツセカイカラキテマーシタカラ、シカタアリマセーンネー。キケンナ『メ』ハ、ツンデオカナケレバナリマセーン。……『tセンオc』ヲツカッテイテ、オモッタノデーツガ、コイツノコトバ……ワターシヤ『イツミ』……ギャクサイセ…………」
駄目だ。聞き取れなくなっていく。気力を維持できない。
こんなところで倒れてなんていられないのに……。
こんなところで……――
……
…………
………………
「――ぷはっ!」
息が吸えた。オレは死んでいない。死んでいなかったのだ。
早くケーマに鉄槌を下さなければと慌てて立ち上がる。しかし――
「――って、え……、また……!?」
オレが目覚めた場所にやつはいなかった。そして、ここは山の中でもない。ましてや異世界ですらない。ここはオレの部屋だった。
「……夢だったとしたら現実逃避が過ぎるぞ、オレ……」
どれだけ寝ているのだろう。自分に呆れる。溜め息が零れた。
ノートパソコンのスリープモードを解除する。デスクトップが光り出す。何気なく画面の端に目を移した時、その目を疑った。何の冗談だと思った。表示されていた日時が信じられない。
「一体、どこからどこまでが夢なんだ……!?」
年も月も日も時間も分も秒すらも、全ての数字が見たことのある羅列をしていた。前回、ノートパソコンを確認した時と同じ数字の羅列をしていたのだ。目を
今、視界に入っているものが真実なのだとしたら、前にベッドの上で目を覚ましたことも、それ自体が夢だったということになる。時間は戻らないのだから。オレは夢の中で夢を見ていたというのか。
「……なんて紛らわしい……。本気で異世界に行けたのかと思っちゃったじゃないか……! 夢だったってことは予知能力を手に入れたのも夢だったんだよな……。はぁ、まあ、そうだろうね。オレなんかがそんな力、手に入れられるわけがないもんなぁ。……はぁ……っ」
全て夢だった。そう解釈するのが妥当だろう。けれど、特別な力を手に入れたと信じ込まされたあとに幻となって消えてしまうとは切なすぎる。糠喜びをしてしまった。
「はぁ……」
溜息が止まらない。
予知能力は夢だった。当たらないことは重々承知している。それに、あんな予知なら外れてもらった方がいいのだが、それでも今まで特別な力というものを手にしたことがなかったものだから、ついカウントをしてしまう。
父が部屋に来るまで、あと五秒。四、三、二、一……。
「……来ないな。この時間だったと思うんだけど……。やっぱ正夢にはならな――」
「風太郎、ちょっといいか?」
――嘘だ。父が来た。現実のオレに予知能力なんてあるわけないのに。
「そ、そうだよ! タイミングが合ってないじゃないか……! なんでも結びつけるのはよくないって……」
オレはそう自分を納得させて、扉を開けた。
入ってきた父。
「……話がある」
やめてほしい。
その表情を。
その調子を。
それは夢で見たまんまだ。
ピリピリが全身を走る。
嫌な予感。
「いつまでも家にいないで働いてくれ」
やばい。勘違いしてしまいそうだった。オレが予知能力に目覚めたという幻想が幻想ではなかったのではないか、と。
父の話を素直に聞き、改めて考えたら恵まれた生活をしていることを実感して、コンビニへ求人冊子をもらいにいこうと玄関の扉に手をかけたところ。オレは思いとどまった。オレに予知能力なんてない。その筈なのに、外から禍々しい雰囲気が醸し出されているような、そんな感じを受けたのだ。今日は出歩くのを控えた方がいいかもしれないと思わせられるような感じを。
完全に信じたわけではない。けれど、用心に越したことはないだろう。コンビニには明日行けばいい。そう決めて、オレは家に籠った。
それから暫くして、声をかけてくる父。
「おーい、おやつを買ってきたぞ、風太郎っ」
「……えっ!?」
父がおやつを買いに行ってきたらしい。買いに行くこと自体はそれほど珍しいことではないのだが、いつの間に出掛けていたのだろうか。父がおやつを買いに行くのは主にコンビニだ。父は車を運転することができる。要するについていけたのなら歩かずにコンビニへ行けたのだ。その道を歩かないのだから夢であったような事故に巻き込まれて死ぬということを完全に回避できたわけである。求人冊子を今日、手に入れるチャンスを逃してしまった。明日、絶対に行こう。
今はそれよりもおやつだ。折角買ってきてもらったのだから食べなければ損だ。家にお金がないのにおやつを買う余裕があるのかというのは疑問に感じるが、オレも食べたいので家計に関してツッコミを入れるつもりはない。
「いっただっきまーすっ!」
小振りのケーキをフォークで切って口へ運ぶ。
うーん、美味しい! 美味しい、美味しい!
オレはケーキをぺろりと平らげた。夢で体内時計を狂わされていたから久し振りに食べた感覚だった。向こうの世界にはない味と触感である。
「ふぅ、美味しかったぁ。ごちそうさまで――うぐっ!?」
何だ?
息が詰まる。
汗が視界を奪った。
心臓が痛い。
――苦しい、苦しい、苦しい、苦しい……!――
父に助けを求める。しかし、父は動じていなかった。救急車を呼んでくれる様子もない。静かにオレを見下ろしていた。
その口が開かれる。
「済まない、風太郎……。こうするしかないんだ。お前が今日、働く意欲を見せてくれたらまだ希望があったんだが、そんな様子は一切なかった! もう、お前を養っていくお金がないんだよ……!」
こんなことってあるのか。
悪夢を見たからか、今日、出歩くことに抵抗があっただけなのだ。
明日にはちゃんと行動しようと思っていたのに。
それなのに、オレに明日がなかったなんて……。
やはり、予知能力なんてなかった。
当たっていないじゃないか。
こんなことになるなら出掛けていればよかった。
「……そん、な……」
後悔してももう遅い。あの時、働く意思を見せていれば、コンビニへ行きたいと告げていればこうならずに済んだだろうか。どんなに後悔しても時間を巻き戻すことなんて不可能で――。
オレは死んだ。
呆気ない幕切れだった。
……
…………
………………
「――嘘、だろ――っ」
空と雲のある光景。
そよ風の音。
草花の匂い。
草の絨毯に寝転んでいる感触。
――夢じゃない。
目覚めたオレはまた――、
――草原にいた。
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