第六章 不幸全盛

 オオカミさんと過ごすようになってから大体一か月が経とうとしていた。彼女をサポートすることも何とか様になりつつあった。呑み込みの悪いオレがここまでできるようになったのは彼女の教え方がよかったからだろう。言葉は通じずとも、彼女のジェスチャーでの説明はわかりやすかったのである。


 その日も日課となった手での挨拶を交わし、オオカミさんがつくってくれた朝ご飯を食べ、畑仕事をしようと一緒に外へ出た。しかし、この日はいつもと違っていた。


「――な、なに、あれ……っ!」


 畑の中で巨大な影が蠢く。垂れた耳、ピンク色の肌、丸々と太った体躯。ブタの大型モンスター、オークだった。小説やマンガでは食べられるものは何でも食べる習性があり、世界にある食べ物を食い尽くさんばかりの強靭な胃袋を持っているとされることの多い厄介な害獣モンスターだ。それに、このモンスターが厄介なのは食べ物だけに限った話ではない。「食べる」には別の意味も含まれている。そう、一部の作品においてオークは女性を食い物にするモンスターとされることもあるのだ。要するに食欲だけに留まらず、性欲も著しく強い欲の塊なのである。

 これまでで小説やマンガなどから得た知識はあまり当たっておらず役に立っていなかったが、真に受けなかった時だけ正しい情報だったでは困るのだ。しかも、今回は取り返しのつかない事態になり兼ねない。オオカミさんが狙われてしまうのだから。

 畑を全て荒らされたとしても、オオカミさんだけには何かあってはいけない。オレはオオカミさんの前に出てオークに見つからないようにしようとした。判断は間違っていなかった。でも、遅かった。

「ブフォ? ブヒィイイイイイッ!」

 オークの視線に捕まる。オレは壁になりながらオオカミさんが見られていないことを祈った。けれど、天には通じなかったのか、のっしのっしとこちらに向かってくるオーク。その顔はだらしなく緩んでいて、完全に鼻の下が伸びていた。

 こういう情報に限って外れてはくれないらしい。オレはオオカミさんを庇いたくて彼女を抱え込んだ。この子が苦しむところなんて見たくない。だから、絶対に渡すものかとしがみついたのだ。

「いあさづけちえだまものs!」

 耳元でオオカミさんの声が聞こえたかと思えば、頭をがっちりとホールドされ、彼女の身体に密着させられる。


「『オdンイwウレイラ』」


 それまでとは異なった調子の一言が言い放たれた、その直後、ぶわっと髪の毛を思い切り引っ張られているかのような突風が巻き起こった。強烈な向かい風。オレは身体を持っていかれないように腕の力を強くする。彼女に抱きつく力を。そこで気づいた。オオカミさんは無事なのかと。気が揉まれる。風の抵抗に阻まれながらオオカミさんの顔がある左の方向を確認した。彼女からしたら強い風を背に受けている追い風の状態になっているのだが、びくともしていなかった。力のこもった目、凛々しい顔つきで前を見据えている。彼女は平然としていた。

 何故、平気なのか。そんなことを考えていると――。

「ぶふぉオオォォォォーーーー……っ」

 ブタの鳴き声が木霊する。振り返ってみると、オークが風に呷られてバランスを崩す瞬間だった。立っていられなくなったオークだが、地面にその身体がつくことはない。唯一の繋がりを失ったのだ。オークはそのまま宙に舞い、太陽が待つ空の彼方へと吹き飛ばされていった。

 呆然とさせられる。丸々と太っていて重そうなオークをどこかへ連れ去った風は役目を終えたと言わんばかりに穏やかになり、そして消えていった。こんな好都合なことが起こり得るだろうか。この一か月の間で今みたいな突風は見たことがなかったのに、偶々発生した強風が偶然オークにだけ襲いかかるなんていうことが。オレはどうもポジティブに受け取れなかった。今度はさっきよりも強い竜巻みたいなものが起こって、オレたちに襲いかかってくるのではないか。そう思えてしまう。オレはあるかもしれない次の衝撃に備えた。オオカミさんを守りたくて強く抱き締める。

 しかし、風は静かなものだった。突風が襲ってくることはなかったのである。それでも警戒を解かないオレ。いつ吹き飛ばされるかということに意識が持っていかれていて気づかなかった。

 パンパン、と肩の辺りを叩かれる。それで初めて知った。力みすぎて腕の中にいるオオカミさんが苦しんでいることを。

「ご、ごごご、ごめん、オオカミさん! また強い風が来るんじゃないかって思ったらつい……!」

 オオカミさんを守りたかったのに、オレが彼女を危険に晒していた。これでは元も子もない。急いでオオカミさんを解放する。

 オオカミさんにジェスチャーで経緯を説明しようとしたオレにオオカミさんが頭を下げてくる。悪いのはオレの方なのに凄い勢いだった。それはもう可哀想になるくらい。

 どうやら、先ほどの突風はオオカミさんが発生させたものらしい。風の魔法。この子はその魔法が使えるということを窓が開いていない家の中で実践して教えてくれた。見せるだけなので、力はそよ風程度にしっかりと調整されていた。他にもちょっとした雷の魔法や自身のパワーを上げる魔法、スピードを上げる魔法が使えるとのこと。

 オークをものともしなかったあの魔法の威力からして、オオカミさんって実は相当強いのではないだろうか。家事も仕事も一人でこなせるし、ボディガードも不要となれば益々オレの存在意義が不明になってくる。

 兎にも角にも、オークの襲撃は退けられたわけだが……。

「えろk、あくおhさみすおd……」

 被害は甚大だった。当分の食材を食い荒らされてしまったのである。そのため、オレたちは森の奥に食べられる野草や実などを取りに行くこととなった。


 森の中を食料を求めて歩き回る。オオカミさんは手際よく食べられるものを集めていたが、オレはというと全く見分けがつかなくて捗らなかった。大丈夫なものと毒性のあるものが非常によく似通っており、また、美味しいと教えられたものには大抵、食べたらヤバい紛い物が存在していた。そのため、不用意に手に取れなかったのである。何の収穫もなくれていたオレだったが、その時、見たことのあるアレを発見した。


「あ、あれって……! うん、そうだ、間違いない! ピンチだったオレを救ってくれたやつだっ!」


 それはこの世界に来たオレが初めて口にした食べ物、マンドレイクの実だ。モンスターがつけているのにあの美味しさだ。危険を冒してでも取りにいく価値はある。そうだ、とオレは思いついた。日頃からお世話になっているオオカミさんにプレゼントしてはどうだろうか。あの美味しさなのだ。きっとオオカミさんも喜んでくれるに違いない。オレは適当な理由をつけて、一人、実を採取しに向かった。

「そ、そーっと、そーっと……!」

 オレには植物モンスターの目がどこにあるのかわからない。だから、気づかれないよう慎重に近づいていった。ゆっくり、ゆっくり距離を詰めていく。手が届くところまで来てもすぐには手を伸ばさない。周囲の安全をこれでもかというほど確認してから実に手をかけた。

 もぎ取るとマンドレイクの悲鳴とも取れる声が伝わってきた。ここからはもう全力疾走である。非力なオレではマンドレイクを相手にすることはできない。さながら、インターホンを押して逃げる悪戯、ピンポンダッシュをやっている気分だった。

 怒ったマンドレイクに追われる羽目となったのは言うまでもない。オレは何とか自力で撒いた。力仕事をしていたお蔭か、体力が上がっていて助かった。そうでなかったら、またオオカミさんに迷惑をかけていたことだろう。それに、オオカミさんにマンドレイクを倒してもらったのでは計画が台無しになってしまう。それではプレゼントとは呼べなくなるから。

 オレはあることを確かめてからオオカミさんの元へと帰った。

「あ、あの、オオカミさん……、こ、これ……!」

 オレは早速渡すことにした。息を切らしているオレを心配そうに見詰めてくるオオカミさんの目の前にマンドレイクの実を差し出す。喜んでもらえる、そう思っていた。それなのに――


「――え」


 彼女は凄い形相でその実を弾き飛ばした。

「なっ!? どうして!? 苦労して採ってきたのに……!」

「うせでまdっ! おゆせどぬらあぐおやすかkんえがぬこyるおyかうぃにもな? えのyんえさみえちしらてばt、あかさm!?」

 わからない。どうして怒られているのかさっぱりだった。困惑しているオレの身体をぺたぺたと触り始めるオオカミさん。もしかしたら、相談もなしに一人で危険なことをしたのがよくなかったのかもしれない。

「あの、えっと……、ご、ごめん……! で、でも、オオカミさんを喜ばせたくて……っ」

 闘ったわけではなく、怪我はしていなかったので、それを知ってオオカミさんはほっとした様子だった。オレは謝るジェスチャーをして実を取りに行き、再度オオカミさんに差し出した。ところが、彼女は笑顔にならない。

「うおhせどぬらわつたらちすおd? いのなねまだうぇてばたうぇろs……」

 わからない、わからない。何で受け取ってくれないのか。オオカミさんの手は一向に出てこない。戸惑っているオオカミさん。まさか、苦手な食べ物だったのだろうか。

 相手の好みはきちんと調べておくべきだった。そうしたらこんなヘマをせずに済んだのに。オレは出していた実を引き下げた。オオカミさんが欲しくないなら無理やりプレゼントしてもオレが期待していた結果にはならない。どう考えても逆効果だ。


 オオカミさんに渡せなかった実をどうしようかと悩む。オオカミさんが嫌いとはいえ、苦労して採ってきた実だ。捨ててしまうのはあまりにも惜しい。味覚は人それぞれでオレには美味しく感じられたのだ。それなので、オレのおやつとして持って行こうとした。しかし、実を仕舞おうとした時、その手を彼女に捕まれる。

 実はまた地面を転がった。オオカミさんに奪われて放り捨てられたのだ。何を食べようとオレの自由である筈なのに、オオカミさんはオレがその実を食べることを許さなかった。ここまでするとは余程のことがあったのだろう。

「ああ……っ。勿体ない……! こんなに美味しいのにオオカミさんの口には合わなかったのかな……?」

 オレはマンドレイクの実を実はもう一つ持ってきていた。オオカミさんに渡すものが外れの味だったらよくないと思って、あの時、二つもぎ取っていたのだ。それで、見た目の悪い方で味見をしたが、味には関係なく、美味しかった。オレはこの実を気に入っており、今度いつ取れるかわからないので、ちょっとずつ食べようと思って残しておいたものをポケットから取り出して見詰める。そんな時だった。オオカミさんが焦ったようにオレの服を掴んできたのは。

 激しく身体を揺すられる。オオカミさんの唐突な行動にオレは困惑した。続けて、オオカミさんは思いっ切り背中を叩いてくる。

「ちょ……っ! い、痛いって! な、なに? どうしたの……!?」

 痛がってもオオカミさんはやめてくれなかった。何がしたいのか、オレには皆目見当もつかない。オレは彼女の琴線に触れるような何かをしてしまったのか。今まで手を上げるようなことなど一度もなかったというのに。

 記憶を遡ってみたものの、原因が見当たらない。その間も、背中にずっと衝撃を与え続けられていた。痛みの所為か、目の前が眩む。一瞬で引いていったが、治まってすぐに目にした光景に背筋が凍りつく。


「お、オオカミさ――」


――何でそんな目をオレに向けているのか――

――何で毛が逆立ち、牙を剥き出しにしているのか――

――何でその手に風を集中させているのか――


「あぐぁっ! あぁああぁあぁぁぁあぁあああああっ!」

 襲ってきた。

 オオカミさんがオレを。

 勿論、命の危機的な意味で。

 わからない、わかならい、わからない、わかならい、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない――


 切れた。左頬や右腕、右脇腹、左足の皮膚が。血が肌を伝って滴る感触。恐怖が占領していく。

 切ったのは風。オオカミさんの右手に集まっている風だ。オレの傍を通り抜けるそれが刃と化し、傷をつけていたのである。

 何で?

 どうして?

 オオカミさんがこんなことをする理由がわからない。何かの間違いだと思いたかった。実はオレの後ろにモンスターがいて、それを退治しようとしてくれているとかそういうことなのだろう、と。しかし、振り向いたその場所に脅威はなく……。狙われているのはオレ。オオカミさんが標的にしていたのは完全にオレだった。

 足の力を失ってへたり込む。頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。

「――なっ!? どうして……っ。う、嘘だよね……? オオカミさんはそんなことしない、よね……? ねぇ、オオカミさん……っ!」

 答えてくれない。風はまだ無遠慮にオレの皮膚を細々と切りつけてくる。やめてはくれない。彼女の手のひらの上に浮かぶ手のひらサイズの風の渦がどんどんパワーを増していっている。

 凄い速度で回転するどす黒い風の渦。それを見て、オレは勘違いしていたことを知った。ダメージを負っていたものだから、てっきり既に攻撃を受けているものだと思っていた。けれど、彼女の手にはまだ風の塊が残っている。今までのはただの準備段階だったのだ。これからが本番だったのである。

 信じたくなかった。それなのに、全身の傷が痛みを訴えていて。これは夢ではない。夢ではないのだ。

 準備の段階でこれだ。身体中にあかぎれができたかのようになっている。あんな風の塊をまともに食らったら生きていられる気がしない。身体なんていとも簡単に寸断されてしまうことだろう。

 こっちに向かってくるオオカミさん。じわり、じわりと。

「や、やめて……! 嘘だって言ってよ、オオカミさんっ!」

 出せる全ての思いをぶつける。けれど、届かない。届いてくれない。彼女の右腕が反られた。オレを見定めたまま。手にはうねりを上げる凝縮された竜巻。それが、今、振り被られているのだ。その手に力が加えられたのを感じ取る。


――魔法を放つ兆候。


 スローモーションに見えた。彼女の手から風の塊が離れ出す。不味い。早く逃げなければ。急げ、急げと念じる。だが、反応は鈍い。まるで重りをつけた状態で水中にいるみたいだった。

 動かない。動けない。この場所にいては命が危ないのに、脳からの伝達を恐怖が遮断してくる。

 すぐそこまで飛んできた暴れ回る旋風。もう頭を庇うことくらいしかオレにはできなかった。


 ドドドドドッ、バゴ、バコンッ!


 酷い振動が発生する。しかし、オレはその揺れの影響を受けなかった。同時に発現した横からの暴風に身体を持っていかれたからだ。木が生えている位置まで弾かれていく。オレはそれに抱きついて飛ばされるのを何とか阻止していた。

 揺れはオレが飛ばされている間に小さくなり、風もものの数秒から十数秒で静まっていく。

 止んでから振り返ったオレは愕然とした。目に飛び込んできた光景に――。


 抉られた地面。

 薙ぎ倒された木々。

 何も残されていない一直線上。

 まさしく巨大な竜巻が通過して行った後のよう。


 戦慄く。混乱していた。オオカミさんがこんなことをする筈がない。けれど、この自然を消し飛ばしたのが彼女であることをオレの目が捉えている。オレを狙って。

 認めたくなかった。嘘だと思いたかった。しかし、目に映るものが全てを物語っている。


――また魔法を発動しようとしている彼女。


 オレは逃げ出した。殺意が肌に伝わってきた。オオカミさんに背を向けて一心不乱に走る。もう何も考えられなくなっていた。

 逃げ回るなかで思い出が脳裏を掠めてくる。オオカミさんの笑顔。あれは本当の笑顔ではなかったのか。全て偽物の笑顔だったのか。オレはまた騙されていたのか。悔しくて仕方がない。騙したやつらが憎い。そして、騙された自分が馬鹿らしく思えてつくづく嫌になる。

 許してなるものか。オレは反撃に向けて立ち上がった。


 陰に隠れてオオカミさんを待ち伏せる。そこへ何も知らない彼女がやってきた。オレを殺そうとしたのだ。殺されても文句は言えまい。オレはタイミングを見計らって、背後から捕らえようとする。あともう少しというところまで来たのに、邪魔をされた。これまで見てきたオオカミさんの笑顔に。躊躇させられる。その間に彼女との距離が開いていく。この機を逃しては駄目だ。あれは演技だったではないか。覚悟を決めなければ。オレは一歩足を踏み出した。


 パキッ


「……あ」

 不注意にもほどがある。引き籠もりニートだったオレに暗殺者の真似事なんてできるわけがなかったのだ。落ちている枝を踏んで音を出してしまった。オオカミさんの耳が反応する。すぐさま木の後ろに戻って息を潜めようとしたが、その前に振り向かれてしまう。

 詰んだ。死の文字が頭の中にちらついた。


――い、嫌だ、死にたくない、死にたくないよ……ッ!――


 緊張で呼吸が妨げられる。

 心臓が壊れると錯覚するくらい伸縮を繰り返す。

 そのまま爆発でもしてしまいそうな勢い。

 鼓動が激しくて視界がぶれる。

 客観的にも正常でないことは瞭然だった筈だ。

 それでも彼女はやめてはくれず、距離を詰めてきた。

 一歩一歩、じっくり、弄るように。

 手にはあの風の塊。

 自然をメチャクチャにしたあの風の魔法。


 怖いのは駄目なのに、不思議と涙は出てこなかった。それだけ余裕がなかったのだ。けれど、目の前がはっきりとしていたことでオレはあることに気づけた。


 オオカミさんの表情が、目が、おかしかったことに――。


 無表情、それでいて焦点が定まっていない。オレを騙し、殺そうとしているにしては無気力すぎる。糸で操られている傀儡の如く感情が欠落しているみたいだった。明らかに異常を来たしている。正常な状態ではないとオレには感じられた。


 洗脳されたのか? 幻覚を見せられているのか? それとも身体を乗っ取られているのか? 方法なんてどうでもいい。問題なのはオオカミさんが何かしらの被害を被っているということだ。

「も、元に戻さなきゃ……っ。いつものオオカミさんに……っ!」

 オレは決死の覚悟でオオカミさんにしがみついた。彼女の手には木々や大地に甚大な被害をもたらした風の塊が今も渦を巻いている。それをオレに目掛けて発射されたら一溜りもない。一巻の終わりだ。それでも、オレはオオカミさんを戻さなくてはと思った。

 この一か月間、彼女はオレに食事と住むところを与えてくれた。恩人なのだ。オレには彼女が困っていたら手伝う義務がある。そして、オレはそんな恩人を疑うという愚かしいこともしてしまった。その償いはしなければならない。義務や責任といったものがオレの中にはあった。けれど、それが一番の理由ではない。オレのこの行動の根幹にあったのは彼女を助けたいという単純にして明快な気持ちだった。

 オオカミさんにくっついているオレに風の塊が迫ってくる。その威力は彼女自身さえ吹き飛ばしてしまいそうなものだった。それなのに止まる気配が微塵も感じられない。やはり何者かに操られているのだ。そうでなければオオカミさんが自分自身の命を擲とうとする筈がない。オレは懸命に食らいついた。風の塊を操っている手がこれ以上近づいてこないように。

 もしかしたら魔法の使用者はダメージを受けないという仕様になっているのかもしれない。とはいえ、それは希望的観測だ。憶測といってもいい。間違っていれば迎えるのは悲惨な結末。だから、オレは必死に食い止めようとした。

「……ぐっ! 少女に押し負けるなんて……っ!」

 にじり寄ってくる風の塊。どれだけ抵抗しても押し返せない。このままでは二人とも死んでしまう。もう死の苦痛なんて味わいたくない。でも、オオカミさんが死ぬのはもっと嫌だった。


 オレは自ら風の塊に当たりにいった。オオカミさんへのダメージを最小限に抑えるために。


 彼女から離れさせたくて風の魔法を手で弾いたのだが、触れた瞬間にオレの右手は腕ごと細切れになった。まさか、自分の腕が小さく切り刻まれると想定しながら生活している人はいないだろう。最初は何が起こったのかわからなかった。けれど、理解が追いついた時、言葉では言い表せないものが襲ってくる。最早、痛いどころの話ではない。


「――ッ!」


 言葉なんて発するゆとりはなく、対処法を考える暇も与えてくれない。

 腕からは血が流れ、出続けている。

 高熱を帯びた腕の断面とは反対に他の部位は体温を奪われていく。

 寒い、寒すぎる。

 寒くて堪らないのに汗が噴き出して止まらなかった。

 それが更に体温の低下を促進させる。

 息が苦しい。

 多量に出血してしまったからか、呼吸をしても上手く酸素を取り込めない。

 頭がボーっとして、思考力が鈍る。

 何だか眠たくなってきた。

 瞼に視界を遮られそうになるなか、最後にオオカミさんを捉える。

 無性に彼女の笑顔が見たくなった。

 その姿は無事なようだったけれど、まだいつもの彼女ではなくて。


――誰でもいい。誰でもいいから……


どうかオオカミさんの笑顔を取り戻して――


 誰に届くわけでもない祈り。決して聞き入れられるものではないとしても、オレは意識が途切れるその時まで願い続ける、そのつもりだった。


「――いあげの、えちすおづたh! 『うyfんおきtな』……!」


 心に響く。オオカミさんの声が。奇跡が起こったのだろうか。それとも幻聴か。きっと後者だ。今までの流れから分析すると、そうとしか考えられない。それでも、声が聞けただけで温かさに包まれる。失いかけていた気力が内から漲ってきた。


 さっきまでの眠気が嘘のようにふっ飛ぶ。オレの頭は覚醒した。

 起き上がる。見渡すと、そこはオオカミさんの家付近にある森の中。オオカミさんが何らかの影響を受けてオレを殺そうとした場所。しかし、オレにはどこか引っかかる部分があった。明確に説明はできないけれど、どこかがおかしいと感じたのだ。

 違和感の正体を探りたくて首を動かす。すると、目が合った。オレを殺そうとしてきた彼女と。

 驚いて仰け反り、倒れそうになった。そこをどういうわけか彼女に支えられる。手を掴まれて。一瞬、何をされるのかわからずに怯えた。けれど、彼女の顔を見てはっとする。それは心配の表情だった。

「お、オオカミさん……、も、もしかして元に戻って――」

「えぬせどなっとどみのとm……! おぉやったこy、あったこy……っ!」

 凭れ掛かってくるオオカミさん。彼女の目には涙が溜まっていた。言葉はわからないけれど、言いたいことの内容はきちんと伝わってくる。彼女の様子から前面に出ているものを感じ取れたのだ。ほっとしたという安堵の気持ちを。

「……ん? あれ? おかしくない? その反応はオレがするものなんじゃ――」

 立場が逆であるように思えた。それではまるでオレの方がどうにかなっていたみたいではないか。どうやらオオカミさんは記憶が混濁しているようなので説明をしようとする。

 ジェスチャーをしようとした、その時だ。オレは覚えていた違和感が何なのかを知った。


――右腕の先があった。


――切り刻まれて失った筈の右手がついていたのである。


「み、右手はなくなった筈じゃ……!?」

 当惑する。あれだけ細かく尺断されて元に戻るわけがない。それではこの状況をどう解釈すれば納得できるのか。オレに再生能力なんてないし、魔法で治すこともできない。オオカミさんが使える魔法の中にも治癒の魔法はなかった。不可解すぎる。わけがわからなかった。

 いや、一つだけある。恐らく、おかしくなっていたのはオオカミさんではない。何らかの影響を受けておかしくなっていたのはオレの方だ。そう仮定すれば全てが矛盾することなく筋が通る。オレに腕があることも、オオカミさんのあの反応も。

 辺りを見回す。オレがどうかしていたという決定的な証拠がそこにはあった。認識との齟齬。どの方角を見てもオオカミさんが魔法でつくり出した暴風による被害が認められなかったのである。木々は真っ直ぐ立っているし、土も抉れてはいなかった。

 ここまで記憶と合致しないということは、オレが幻覚に捕らわれていたということだ。そこから脱け出せたのは、やはりオオカミさんのお蔭なのだろう。ひしとくっついてオレの服の裾を握り締める彼女の行動を見るに、必死に治そうとしてくれていたことがわかる。また彼女に手間をかけさせてしまったようだ。今度こそ彼女に恩返しをしようと決意していたのに何とも不甲斐無い。


 それにしても、幻覚を見るだなんて何が原因だったのだろうか。思い当たることがなくて唸っていると、オオカミさんが一端離れ、何かを拾って戻ってきた。その手に持たれていたのは、あの実だった。オレが美味しい、美味しいと言って食べていた――


――マンドレイクの実――


 オオカミさんはオレの表情からおおよそのことを感じ取ることができる。その彼女がマンドレイクの実を持ってきたということはそういうことなのか。まさかと思っていると、ジェスチャーを始めるオオカミさん。実を食べる振りをしてから腕でバツをつくる。そのまさかだった。その実は『食べてはいけない』ものだったのだ。

 マンドレイクの実は旨味成分が多く含まれているのだが、強い幻覚作用もあるとのこと。だから、あの時、オオカミさんはこの実を捨てたのだ。オレの背中を叩いたのも、食べた実を吐き出させようとしてのことだった。

 マンドレイクはかなり狡猾なモンスターだった。餌で獲物を誘き寄せるだけでなく、万が一、餌を取られたとしてもその実に幻覚作用を備えているのだ。見せられた幻覚によっては動きを鈍らせられたり、自らマンドレイクに近づいて食べられに行ってしまうこともあり得る。即ち、二段構えだったのだ。

「……あれ? てことは、城下町の人たちに襲われたあれって、オレが幻を見てただけってこと……? 本当はなにもされてないのに一人でパニックになって逃げ回ってたの、オレ……? は、恥ずかしい……っ!」

 あの時もオレはこの実を食べていた。ずっと、街の人たちが異常だと思っていたのだが、オレの方が常軌を逸していた可能性が出てくる。しかもその確率は極めて高い。オレってやつは本当にどこまでポンコツなのだろう。

 オレは自分にガッカリする。気が沈み込んでいると、オオカミさんが表情を窺ってきた。

 そうだ。何はともあれ、二人とも無事だったのだ。またオオカミさんと一緒に暮らせる。一緒にいれば、いつかこの恩を返せる日が来るかもしれない。オレは気持ちを切り替えた。改めて感謝とお礼をするために少しだけ離れる。

「助けてくれてありがとう、オオカミさんっ! そ、その、これからもよろしく――」


 思いを告げようとした途端――。


 顔に何かが飛び散る。

 生温かい液体。

 拭うとぬるっとする。

 拭き取ったその手は赤く染まっていた。


――血。


「ああ、うが……っ」

 オオカミさんが苦しそうな声を発する。

 愕然とした。

 彼女の胸から鋭く研がれたものが突き出ている。

 それは、オレがなくした物によく似ていた。


 竹刀のような刀が彼女の身体の中へと消えていく。

 オオカミさんが倒れかかった。

「――ッ! オオカミさんっ!」

 ぐったりとする彼女を支える。

 体勢を楽にさせようと横にした。

 ひゅー、ひゅーという呼吸音。

 目からは雫が零れ落ちる。

 震えながら必死に伸ばされる手。

 それをオレは取れなかった。


 何故、オレは薬草の一つも持ち合わせていないのか。

 何故、オレは回復魔法の一つも使えないのか。

 何故、オレはこんなに苦しそうなオオカミさんを救うことができないのか。


「……えてぎん……。いあぬきそへdんいしなたな……!」

「喋っちゃ駄目だ! 安静にして! 必ず助けるから……、必ず……!」

 傷口を押さえる。

 それでも血は止まってくれない。

 どんどん溢れ出てくる。

「くそ、くそぅ……! 止まれよ……、止まってくれよ……っ!」

 祈っても願っても拝んでも叶えられない。

 服に赤黒いシミが広がっていくのを抑えられない。

 焦るオレの手にオオカミさんが手を重ねてくる。

「あごとこなたなあうぃさたw――」

 わからない。

 わからないけれど、聞きたくなかった。

 彼女が無理をして笑っていたから。

 その表情は最後になるかもしれないからこれだけは言わせてほしいと言っているようだった。

 そんないまわの際みたいなこと、こっちは言ってほしくないのに。


――あらかぢくs――


 そう口にした後、彼女の腕は力なく地面に落ちた。

「……オオカミさん? オオカミさん……っ!」

 動かない。

 動いてくれない。

 いつものように笑ってはくれない。

 オレは一番大切な人を――


「あ、ああ、ああああ、あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーっ!!」


――失った。

 嘘だ。こんな結末は信じない。そう、きっとまだ幻覚を見ているのだ。そうに違いない。オレは現実から逃避をしていた。けれど、突如、何かに殴られてふっ飛ばされる。残念なことに――


――痛かった。


 オレは木に身体を打ちつける。何が起こったのかわからなくて目をしばたかせる。見開いた視界に捉えたのは最も会いたくない男の姿。


「――ケーマ・ラタイラターハ=モヒーノ……ッ!?」


「……オー? ドコカデオアイシマーシタカー? スミマセーン、オボエテナイデース」

 こいつはオレのことを覚えていないとか抜かしてきた。あんな仕打ちをしておきながら。

「……っ! ふざけんなよ……! 崖から突き落として炎の魔法でとどめを刺そうとしたくせに覚えてないだと!?」

 オレを殺そうとしたことを忘れているこいつに対して怒りが込み上げてくる。

「ンー? アレデイキテイタノデースカー? ソンナコト、イママデニナカッタデース。イママデ、ジュウニンイジョウヤッテキテ、ハジメテデース。アラタメテ、アナータノナマエヲウカガイマショーカー!」

 やつはそう言いながら刀を振り翳していた。オオカミさんの上で。

「お、おい! なにする気だ!? オオカミさんを傷つけたら承知しないぞっ!?」

「オオカミサン? アー、『イツミ・ニノダ・レルラテス』ノコトデースカ? モチロン――、


――ハイジョスルデースヨー?」


 ザシュッ


 振り下ろした。

 オオカミさんの首目掛けて。

 何かが飛び跳ねる。

 それは、彼女の――


――頭部。


「――ッッッ!? ……ああああケーマぁぁぁぁあああああッ!」


 ふざけるな――! 彼女は既に死んでいたのだ。その彼女の首を切り落とすなんて死者に対する冒涜以外の何物でもない。こいつはオオカミさんを貶した。許せない。

 オレはケーマに殴りかかろうとした。すんなりいってくれればいいものを兵士と思われる鎧を身に着けた男二人組に押さえつけられる。何でこいつらはオレを羽交い絞めにするのか。やつの方を捕まえるべきではないのか。

 暴れる。未だかつてない勢いで暴れた。だのに、敵わない。男二人に完全に捻じ伏せられてしまう。オレはケーマを睨みつけた。

「ソンナニコノオンナガイイノデースカー? ウーム、キンキノマホウデバケモノノスガタニカエタノニ、マダカノジョノミカタニナルモノガイタノデースネー……」

 聞き捨てならなかった。オオカミさんは最初からオオカミさんではなかった。こいつがオオカミさんに『禁忌の魔法』を使ってあの姿にしたのだった。

「な、なんで……、そんなことを……!」

「……ナンデ? マオウグンノカンブ、ヤッツケタコウセキガホシカッタカラニキマッテマース! ホントウハタイジシタノ、カノジョデース!」

 ケーマは話し始めた。オオカミさんがこの世界に来てからのことを。

「カノジョ、ワターシトオナジセカイカラヤッテキマーシタ。カノジョハセントウムキ、ワターシハサポートムキ。デースカラ、ワターシタチ、パーティヲクンダノデース。カノジョ、『ライジングオール』モッテマーシタ。ダンジョンニハイルト、ソノダンジョンニイルアイダ、スベテノステータスガアガリツヅケル、チートスキルデース! カノジョ、ソノスキルデダンジョンノボス、ツギツギタオシマース! ハジメハ、カノジョトイレバ、ラクニエイユウ、ナレルトオモッテマーシタ! デモ、アテガハズレタデース! コノセカイノヤツラ、カノジョシカタタエナカッタノデース! ワターシダッテ、コウケンシテイルノニ、カノジョヲエイユウトヨビマーシタ! ワターシガイナケレバ、コノセカイノジュウニント、ロクニハナセナイヤツガ、ワターシヨリチヤホヤサレテイルノ、ユルセマセーンデーシター! ダカラ、ワターシガツクッタマホウデ、スガタヲカエテヤッタノデース! ダレモ、カノジョダトキヅキマセーン! カノジョ、マオウグンノカンブニヤラレタコトニナッテマース! ソノカンブヲタオシタノハ、カノジョデースガ、ワターシガタオシタコトニサセテモライマーシタ! タタカイガオワッテ、ユダンシテイルカノジョニ、ケモノニナルノロイヲカケタノデース! サクセンハセイコウシマーシタ! ミンナ、ワターシガエイユウノカタキヲウッタノダト、オモイコンデ、ワターシヲアガメマース! メザワリナヤツハイナクナッテ、ワターシハエイユウニナッタデース! エイユウノワターシニ、コノセカイニアルイロンナクニノオウサマタチ、オヒメサマクレヨウトシマース! ハーレムデース! イマノセイカツ、スバラシイデース! アハハハハハッ!」

 なんてことだ。そんなことのためだけに彼女の人生を狂わせたのか。オオカミさんは人前に出られないから、こんな辺鄙なところで暮らしていた。誰とも接せられないことを寂しく思っていた。それはこいつが原因だったのだ。

 オオカミさんの人生を狂わせた挙句、彼女の命まで奪ったケーマ。その理由をぺらぺらと語り出す。

「『イツミ』、アヤシイウゴキヲシテイルト、ミミニシマーシタ。ナンデモ、ヒトヲヤトッテイルトカ。メンドーナコトニナルトカンジタデース。ワターシノアクジヲバラソウトシテイルノデハ、ト。エイユウノチイヲオビヤカサレテハタマリマセーン! ダカラ、ハイジョスルノハトウゼンデース! ハハハハハッ!」


――ふざけんな、何がおかしいんだよっ!――


 黙っていられない。じっとしていられるわけがない。オレは無闇矢鱈に動いて兵士たちの拘束を振りきった。

 瞬時に詰め寄る。それから――


――殴りつけた。


 生まれてこのかた、人を殴ったことなんてないものだからこれで効いているのかは判断のしようがない。それにしても、殴った方も痛くなるとは知らなかった。しかし、だからといって、これで終わらせるわけにはいかない。彼女が受けた苦しみはこの程度ではないのだから。

 殴られたケーマはよろめいただけだった。もっと彼女の痛みをわからせなければ、と突っ込もうとした時――


「テイゾクガァッ! ヨクモコノワターシヲナグッタナ! ユルサンッ!」


 木霊して飛び交ったケーマの怒号。そして、いつか見た火の玉が上空に形成される。

「『ぉjyw@>2+3』Z!」

 降ってくる巨大なそれ。スピードは早くない。しかし、オレの足では直撃を免れるだけで精一杯だった。火が服に移り、身体を焦がしていく。


――ボゥッ


「あああああっ! あつい、アツいぃいいっ!」

 火達磨になったオレを見て、ケーマが怪しい笑みを浮かべる。

「オット、ツイ、ムキニナッテシマイマーシタ。ハヤクケサナイトイケマセンネー。――『3yw@Eーy3h3』Z!」


――タプン……ッ


 今度は巨大な水の玉が形成され、オレを呑み込んだ。火は消えたが、いきなりだったので肺に空気を溜められていない。苦しさに顔が歪む。

 ケーマは助けようなどとこれっぽっちも思っていない。オレを痛めつけて楽しんでいた。

「……げほ、げほごほ……っ!」

 魔法が解かれて、それが消える。息が吸えるようになったのはいいものの、次の魔法が攻めることを待ち兼ねていた。

「イマ、カワカシマースカラネー。――『3l5>4Eys@』Z!」

 風の玉が弾け、それが刃となって身体を切りつける。


――ブチッ


 幻が現実になった。

「ぐあああああああああっ! う、腕がぁ……っ!」

 見えない風を避けるなんてオレには不可能で、腕が切り落とされてしまう。身体を切断することも可能であった筈なのに、そうしなかったのはやつがまだ遊んでいたからだ。

 悶えるオレを見下してケーマが言う。

「アーア。コレデハ、シンデシマイマースネー? セメテモノタムケデース! ヤスラカニネムラセテアゲマショー! ――『h@kー}3-r』Z!」

 落下してくるは巨岩。それもビル並みという馬鹿でかいサイズだった。

 もう駄目だ。諦めかけたその時、思い浮かんだ。オオカミさんの、あの子の笑顔が。死んでいられない。やつに目に物を見せるまでは――。

 オレは身体を捻って転がる。ただ只管に転がった。落下速度は火の玉と同等かそれ以下。オレは最後まで力を振り絞った。


――ズシーンッ


 隕石のように大きな岩石が落ちる。それはオレの腕を押し潰していた。その腕があったならの話だが。落ちたのは身体の右側。先ほど風の魔法によって失った右腕があった位置だった。複雑だが、切断されていたことがプラスに働いた。

「サテ、モクテキハハタシマーシタシ、カエリマショーカー? オット、モウコノマホウハ、ヒツヨウアリマセンネー。t5lj-r9、ぬxy」

 どうやら、ケーマは気づいていないみたいだ。オレが生きていることを。この機にどうにかして一矢報えないものかと模索する。


――何か、何かないのか――

――やつに思い知らせることができる方法は――

――あの顔を絶望に歪める手立ては――


 妙案は足元に転がっていた。


「……よし、頼むぞ……。効いてくれよ……?」


 オレはそれに賭けることにした。


 ケーマの後を密かに追い、チャンスを窺う。焦っても駄目だし、かといって様子を見すぎても駄目だ。あまりのんびりしすぎると村に戻ってしまい、人の目につきやすくなる。それにやつは魔法が使えるのだ。その中には探知の魔法が存在しているかもしれない。

 森の出口に差しかかった時、最大の好機が訪れた。やつらの気が緩んだのである。この機会を逃してなるものか。オレは急いで距離を詰めた。

「mt@……Z!?」

 背後からケーマの口に切り札を突っ込み、首を持ち上げる。ごくん。喉を通り、身体の中へと送られていくそれ。やった。目的は達成した。オレにできることはもう何もない。後は効果が発揮されることを祈るばかりだ。

 一番の難関をクリアしたことで気が抜けていた。オレは失念していたのだ。ケーマからの反撃を。


――ドスッ


「――ごは……っ!?」

 口から真っ赤な液体が噴き出る。一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 視線を下げると胸から何か柄のようなものが飛び出ている。突き刺さっていたのだ。オレが落とし、ケーマが拾ってオオカミさんの首を切断した竹刀のような刀が。オレはケーマからの反撃を受けてしまったのである。

 肉を裂き、骨を断っている。この様子だと肺もやられているみたいだ。だから、口からも血が溢れ出てきていた。

 無理だ。立っていられない。

 崩れ落ちたオレにやつは追い打ちをかけてくる。腹を何度も蹴ってきたのだ。それだけでは収まらず、今度はオレの胸に刺さっていた刀を引き抜き、それを刺してきた。何度も、何度も――。

「クソガァッ! ナニシヤガルデースカ! テイゾクノブンザイデッッッ! シネッ! シネェェェイッ!」

 視界に鮮血が舞う。オレの周りは血の海と化していた。

 畜生。力が抜けていく。まだやつが痛い目に遭うところを見れていないのに意識がぼやけてくる。ここで終わるわけにはいかないのだ。そう強く思っていても進行していくのを止められなかった。


 もう感覚がない。視力も殆ど失った。ここで聴覚まで機能しなくなってしまったら、あれが効いているのかどうなのかがわからなくなってしまう。だから、死んでも手放さなかった。その耳が朗報を捉える。ケーマの意味不明な発言を。

「アウチッ! クッ、マダソンナチカラガノコッテ……ッテ、オイ!? ドコヘイキヤガリマーシタカ! アッ、アンナトコロニ……! シカーシ、ボロボロノカラダデイツマデモツノデショー? ハハハハハッ、タップリナブッテアゲマースヨーッ!」

 オレは一歩も動いていないのに、動けるわけがないのにオレを見失うケーマ。そして、どこかへ駆け出していく。

「*、*-jxj! s@あお^えt+>kw@rtZ!?」

「*-jxj! Cあおft@*いうZw6l、くぇ^yg*yw@Zw、33-Z! *-jxj###Z!」

「*-jxjt@6あq###Z!」

 兵士たちの狼狽えた声も聞こえてくる。どうやら効き目があったようだ。


――マンドレイクの実――


 強い幻覚作用がある実だ。ケーマにも有効であってよかった。これでオオカミさんは浮かばれただろうか。弔いになっただろうか。ただ、何も見えないため確認できないというのがもどかしい。今聞こえたものが幻聴でないことを切に願う。願いながらオレの意識は深い、深い眠りへと就いていった。


………………

…………

……


「……ん、んー……っ」

 もう覚めないと思っていたのだが、オレの目は開いた。見詰めていたのはどこか懐かしい天井。辺りを見渡すと見覚えのある場所にオレはいた。キャラもののベッドにラノベとマンガ本が詰め込まれた本棚、フィギュアが整列している勉強机、アニメのポスターが貼ってある壁、そして、枕元にはスリープモードのノートパソコン。オレの部屋だ。

 随分、懐かしい感じがしたが、パソコンの画面に表示された日付はあの日から全く進んでいなかった。この世界でオレが死んだあの日から。

「……夢……だったのか……?」

 今まで体感してきたものが全て夢だったというのか。いや、そうだとしか考えられない。よくよく考えてみたら、小説やマンガではあるまいし、異世界なんて行けるわけがないのだ。そう、あれは全て空想の物語だったのである。

「妄想の世界だったならもっと自分をカッコよくしてもよかったんじゃないか、オレ……」

 忠実に再現した自分自身に苦笑することを禁じ得なかった。


 つい、ぼうっとしてしまう。どうしても夢に出てきた女の子のことを考えてしまうのだ。夢の中だとしても助けられずに殺してしまったあの子のことが尾を引いていた。そんな折、ノックの音が響いてくる。

「風太郎、ちょっといいか?」

 父だ。久し振りに感じる父の声に少しほっとさせられる部分があった。


 扉を開けて父の顔を見る。

 ……あれ?

 その表情はどこかで見たことのあるものだった。

 夢の中で異世界に行く前に――。

 何故だろう。

 ピリピリとした感覚が全身に走った。

 凄く嫌な予感がした。

 何か取り返しのつかないことが起こりそうな、そんな予感が――。

 父の一言に戦慄が走る。


――いつまでも家にいないで働いてくれ――


「――えっ」

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