第五章 行き倒れニートと畜生少女の処世術

 恐怖で意識が遠退いていくなか、影が視界に入った。手と思しきものがこちらに向かってくる。黒く靄がかかっていて判断のしようがなかった。けれど、助かるなら何でもいい。オレは最後の力を出し切って、それに縋っていた。


……

…………

………………


 パチパチという音。何かが燃えているようだが、危うい感じはなく、耳に心地いい。

 おかしい。確か、オレは――


――崖から落ちて――


「う、うがぁあああああああああっ! ――いだ……っ!」

 慌てて飛び起きる。痛みが身体中を駆け巡った。ズキン、ズキンと骨や筋が悲鳴を上げている。壊れそうなほどで声を発することも妨げられ、オレから言葉を奪い取っていった。

 痛みはなかなか引いてくれない。オレはそれを我慢して辺りを確認した。ここは家の中だった。元いた世界でいうログハウスのような造りの家だ。大きさは八畳間ほどのもので、飛び抜けて大きいわけではない。床には丸い形の絨毯が敷かれ、一つの丸い木のテーブルを挟むようにして設置された二つの大きな木のソファ。そのうちの一つにオレは座っていた。テーブルとソファを越えた正面側の壁と、それに対面する背面側の壁に窓が一つずつある。背にある方から陽の光が差し込んできていた。照らされている面積は狭い。太陽が高い位置にあるようだ。左手側に扉があり、そして、それに対面する右手側の壁にこの部屋の中で一際目立っているものが設けられている。暖炉だ。日中は暖炉が必要となる気候ではないけれど、そこに薪がくべられて火が焚かれていた。

「……どこ、ここ……?」

 死んでいてもおかしくなかった。運がよかったとしても崖の下で横たわっているのが、あの展開からして自然ではないか。それが暖かい部屋の中、しかもソファの上で毛布をかけられて寝ていたオレ。誰かが助けてくれたということなのか。

 そういえば、と思い出す。意識が薄れていく最中、誰かに手を差し伸べられていたことを。

「た、助けられたのか、オレ……?」

 ここに来て漸く、オレを人として見てくれる人と巡り会えたのかと思った。この世界に来てからというもの、言葉が通じなくて目の敵にされたり、騙されて殺されそうになったりと、オレはロクな扱いを受けてこなかったのだ。助けてくれたのならお礼をしなければと、その人を探そうとして、ふと思いとどまる。果たして本当にそうなのだろうか、また騙されているのではないかと。オレは疑心暗鬼に陥っていた。

 見渡した限り、人の姿はない。オレはその人と会う前にここから出ていくことに決めた。会わなければ騙されることもないと考えたからだ。恩を徒で返してしまうことになるかもしれないが、オレはもうあんな目に遭いたくなかった。

 そうと決まれば早速行動しようとした時、ぎぃっと軋む音が鼓膜に響いた。


 開けられた扉。そこから覗かす顔にオレは戦慄した。


――どうしてそんなに鋭い目をしているのか――

――どうしてそんなに尖った耳をしているのか――

――どうしてそんなに大きな口をしているのか――


 顔の形が人のそれとは違う。全体を灰色の毛に覆われた生き物――


――オオカミだ。


「――ひぃッ!?」

 なんてことだ。家の中にオオカミが入ってくるなんて。食べられる。絶対に食べられてしまう。早く逃げなければ。それはわかっているのに、腰が抜けて動けなかった。

 この家にある窓は二つ。扉はオオカミが陣取ってしまい、どちらかまで行かなければ外へ出られない。近いのは背面にある窓だ。そこへ向かおうとした。ところが、焦ってソファの背凭れに蹴躓く。オレは派手に転倒してしまった。

 何度も崖から落っこちていて、既にズタボロの身体にはこの程度の転倒であっても堪える。激痛に襲われて立つことは不可能だった。大事な場面でオレはしくじった。オオカミの顔が距離を詰めてくる。

「あ、あわぁあああああ! オ、オレを食べる気か!? や、やめろ……っ! そ、そうだ、オレなんて食べても美味しくないに決まってるっ! お腹を壊すぞ、きっと……いや、絶対だ!」

 無駄な抵抗。この世界で言葉なんて通じないと散々経験してきたではないか。ましてや相手は動物だ。

「や、嫌だ……! 来るなよ……っ!」

 駄目だ。終わった。悪いことは重なったけれど、それでもここまで生きてこられた。全体的に不運であっても、死なかったのはやはりラッキーだったといえるだろう。その悪運も到頭尽きたらしい。声がどんどん小さくなっていく。それでもオレは声を発し続けた。伝わらないのはわかっている。ちっぽけな抵抗なのもわかっている。それでも、やめてはならない、そんな気がしたのだ。やめてしまったら何も変わらない、そう思ったから。

 オレはずっと目を閉じて、腕で頭をガードしていた。やめろと呟きながら。


 どうしたのだろう。いつまで経っても痛みを感じなかった。言葉が通じたとは思えないが、恐る恐る確かめてみる。

「――あ、あれ……?」

 目の前まで迫っていたオオカミの姿が消えていた。部屋の中を探すも、どこにもいない。疲れていたから悪い夢でも見たのだろうか。オオカミに襲われる幻覚を見るなんて、オレの精神は相当イカレてしまっているらしい。

 とりあえず、オレ自身がどうなっているのか、何でこのような建物の中にいるのかを把握しようとする。扉に近づく。そこで目にした。

「……ん? タオル? なんでこんなところにぐちゃぐちゃに置かれてるんだ? ……って、濡れてんじゃん……」

 湿っているということは干そうとしていたのか、もしくは使っていたのか。これはここについさっきまで誰かがいたことを示している。恐らく、オレを助けてくれた人だろう。疑問なのはどうしてこんな状態で放置されているのかだ。部屋は綺麗に整えられており、ズボラな性格には見えない。部屋の中に洗濯物を干している様子も見受けられない。この大きなタオルだけが異様さを放っていた。

 調べようとして、硬直する。それに、ついていた。毛が。


――銀色の。


 あの動物を思い起こされて不安を掻き立てられる。それだけに終わらない。オレは続けざまに追い打ちをかけられることになる。見つけてしまったのだ。


――扉が僅かに開いているのを。


 夢ではなかったのか。現実だったということは、まだこの付近にオオカミがいるということになる。外に出るのは危険なように思われた。この部屋で様子を見た方がいいのではないか。いや、オオカミは一度ここに入って来ているのだ。隠れていても安全ではない。

 しかし、何故オレは無事だったのだろう。あと少しで食べられそうな距離まで迫られていた。あそこまでいってオオカミが獲物を見逃す理由はない筈なのに。

 どうしてもわからない。あまり時間を費やしていられないので深く考えることはやめにする。きっと、猟師か何かが銃声でも響かせたのを耳に捉えたとか、そんなところだ。オレの陳腐な脳みそではそれくらいの発想しかできなかった。

 それよりもこれからどうすべきか、それが大事だ。オオカミが戻ってくるかもしれないし、待ち伏せをしているかもしれない。ここに留まるべきか、それともここから出るべきか。選択を誤れば折角拾った命を無駄にすることになり兼ねない。

 時は一刻を争う。悠長に考えている猶予はない。判断の遅れが命取りになる。


「……よし、出よう……!」

 オレはそう決断した。逃げることを選んだ。留まっていた方が自ら死地に向かうことはなく、安全かもしれない。けれど、留まっていては助かりもしないのだ。ずっと隠れてはいられないのだから。人は食べ物がなければ生きていけない。ここに食料がない以上、いずれは外に出ることを強いられる。いつかは出なければならないなら体力があるうちに脱け出す方が建設的だ。このことはゴブリンたちとの戦闘で学んでいた。それに、いつまでも怯えて暮らさなければならないというのも嫌だったから。

 あとは脱出する方法とタイミングだ。開いていた扉から出ていくほどオレは馬鹿正直ではない。オオカミとのエンカウント率を少しでも下げたかったので近くにあった窓から脱出することにした。開ける前に周囲を警戒する。見える範囲に何も潜んでいないことを何度も、何度も念入りに確かめてから、オレはそーっと窓を開けた。

 物音を立てないよう細心の注意を払う。その甲斐あって、枠を越えて地面に着地する瞬間まで静かに遂行することができた。幸先のいい切り出しだ、そう思ったのに、どうしてオレの人生は上手くいかないのか。

 再度、用心して辺りを見回した、そんな折。


「――ッ!? ウソ、だろ――っ」


 あり得なかった。窓から見える範囲は調べていた。それはもう過剰なまでに調べていたのだ。その筈なのに。出たすぐそこに――


――オオカミがいた。


 ちょうど壁との死角になっている部分に。予測して先回りされたのか。わざわざ正面を避けたというのに出くわしてしまうだなんて完璧に読まれていたのだろう。悔しい。悔しくて堪らない。というか、待ち伏せをするくらいなら最初に襲ってきたあの時、一思いに仕止めてくれればよかったものを。期待させるだけさせておいて希望を摘み取るなど質が悪いにもほどがある。命を弄ばれているみたいで気に障った。


 怖いという感覚は確かにあった。むしろ、怖いという感情しかないくらい頭の中の殆どを占領されていた。それでも、オレはファイティングポーズを取る。足ががくがくと震えていて何とも不恰好だったけれど、それでも、オレは構えた腕は下ろさなかった。

 逃げられないというのは瞬時に察せられた。人の足では大抵の大型、中型動物に敵わないのだから。それならば闘う他にない。非力なオレがオオカミに勝てないことぐらい百も承知だ。でも、目的は勝つことではない。怯ませること。それが唯一の活路だ。烏滸がましいかもしれないが、できると信じさせてもらう。

「魔物と闘ってきたんだ……。大丈夫、大丈夫……! 絶対に突破させてもらうからな……っ!」

 心臓を鷲掴みにされているようで自由がきかない。肺が押し潰されているみたいで息も苦しかったし、身体中から変な汗が噴き出してもいたし、正直、まともに闘えそうになかった。戦闘になっていたら負けは濃厚。死は避けられなかっただろう。


「いあさづけてまy……っ! いあさづけぢあにそとかぬおbなr!」


「は、はいぃっ!?」

 喋った。オオカミが喋った。この世界は動物も喋ることができるのだろうか。全てがそうなのかはわからないが、少なくても目の前のオオカミはこの世界の言葉を話せていた。魔物は下級モンスターであっても魔法が使えるは、動物であるオオカミが言葉を話せるはで、人間のオレより上をいっていた。この世界におけるオレの階級はどこまで低いのだろう。


 喋ることができるオオカミは頭を抱え、蹲っていた。今まで恐怖の感情が先行していたものだから勝手に凶悪なイメージを投影してしまっていた。大きさはオレの倍近くある巨大なオオカミのように見えていたのだけれど、実際はオレよりも小さく、幼さの残った顔をしていたのだ。そして、普通のオオカミと明らかに違っていたのがその身体。頭と脚、尻尾はオオカミのそれだが、胴体と腕は――


――人のものと同じだったのである。


 このオオカミは人と混ざった姿をしていた。普通のオオカミではない。小説やマンガなどによく登場する魔物、または亜人であるとされるオオカミ人間だった。ワーウルフとも呼ばれている。それなら人の言葉を解したことも理解できる。「人間」とついているのだから話せても不思議ではない。オレが動物より性能が下回っているわけではないと知って一安心した。動物にまで負けて、生物におけるヒエラルキーの底辺になっていたら立ち直れなくなっていたところだ。こっちの世界に来てから未だにイヌやネコといったものの姿を見てはいないけれど。

「そ、それにしても本当に人そっくりな身体だな……。色だってそんなに変わらないし……、いや、ちょっと白いかな? あ、あと、全体的にオレより柔らかそうというか……? あ、あれ? もしかしてこの子って――っ」

「あくせどにあなをもおちうらうぃとみこうぃさたわわたな、あ……?」

 オオカミが顔を上げて、オレの顔を窺う。その時、膝を抱く腕と顔の隙間から見えてしまった。オレの身体とは違う、控えめな膨らみが。


――この子は女の子だった。


 考えるよりも先に身体が動く。咄嗟に顔を逸らした。オレも男なので興味は大いにあるのだが、小心者のオレにはその空気が居た堪れなかったのだ。オオカミだから普通のことなのかもしれないが、彼女は何も着ていなかった。横目でちらっと見てはすぐに視線を外すことを繰り返す。オレの挙動が不審になったことに、初めのうちはきょとんとしていたオオカミさん。しかし、オレの視線を追って自分の姿を確認したオオカミさんは慌ててその部分を隠した。そんな様子を見てしまったら、途方もなく悪いことをしてしまった気がしてくる。顔はオオカミなので表情はよくわからないが、恥ずかしがっていることだけは確かなように思えた。

「うさみあぎt、いt! あじゃkんあんなしあtんえはうぃさたうぇちっせk、えだらかちえっちあひのるほえだみっかさうぇろk! うさみけちこうくh、うh!」

 オレにはわからない言葉を発して、オオカミさんはどこかへ走っていってしまった。オレはぽつんと取り残されることになったのだった。


 オオカミといえば狡猾なイメージがある。ところが、あのオオカミさんにそういった印象は受けなかった。話すことができるし、感情の表現も豊かなようで、まるで人と接しているみたいだった。あのような子なら初めから襲うつもりなんてこれっぽっちもなかったのではないだろうか。それなのにオレはあんなに怯えて暴言まで吐いてしまうだなんて。悪いことをした感覚がオレの中で渦巻いていった。

 オオカミさんを傷つけたかもしれないと一度考えてしまったら気が気でなくなってくる。ちゃんと謝りたいのだが、オレは対人恐怖症だし、そもそも言葉が通じない。勇気を出して謝罪しても伝わらないかもしれないと思うと臆して断念しそうになる。だからといって、諦めてしまうのは違う気がした。もし、オレがオオカミさんの立場だったなら、逃げ帰ってほしくはない。伝わらなくても謝ってほしい。そうだ、言葉では無理でも態度では示せる筈だ。一度、城下町でやって上手くいかなかったけれど、オオカミさんに酷いことを言ったのはオレなのだからオレが覚悟を決めなければならないのは至極真っ当なことである。

 いざ、謝ろうと思ったはいいものの、オオカミさんのあの恰好が悩ましい問題になってくる。まじまじと見てしまっては誠意が伝わらない。かといって、全く見ないというのもそれはそれで真剣さが伝わらないのではないか。

 そもそも、何故彼女は裸だったのだろう。恥ずかしという感情があるなら服を着るという発想があってもおかしくないと思うのだが。頭を悩ませていると小さな足音が聞こえてくる。

「おゆせどぬりえちかをむち、おって? えならkんえさみらあうぇdんあしあtんえh、いさたw、おな……?」

 オオカミさんが戻ってきた。スカートタイプのオーバーオールに身を包んで。

 服を持っていたのか。それなら何故さっきは着ていなかったのか。しかし、それにしても、こんな可愛いオオカミ、見たことがない。愛おしささえ覚えて頭を撫でたくなる衝動が湧き起こってくる。手を伸ばした瞬間、オオカミさんがびくっと身体を縮こまらせた。違う。怖がらせてどうするのだ。オレがしなければならないことはそうじゃない。

「あ、あああああ、あのっ、さ、さっきはすみませんでしたっ! か、勝手な思い込みでこ、怖がったりして……っ!」

 謝った。平謝りだ。平身低頭、渾身の謝罪だ。謝罪に渾身がつくはおかしいが。

「いさたw、あくせどぬりえてららまや、おって? おでれくせどにあならかわこぬりえったhっそおうぃなながたな……。」

 オオカミさんは小首を傾げている。やはり通じなかった。思いが伝えられないというのは胸にぽっかりと穴が開いたみたいで凄く切ない。それは彼女も同じなのか。オオカミさんが何を言っているのかもオレにはさっぱりで。あの時、翻訳の魔法を教えてもらえなかったことが悔やまれる。まあ、やつの本性を知った今となっては向こうから頭を下げられたとしても願い下げなわけだけれど。


 こうなったら覚えるしかないだろう。この世界の言葉を。オレは魔法を使えないのだから。

 そう意気込んでみたはいいのだが、どうするべきか。この世界の言葉を勉強するには言葉が通じる人を探さなければならない。けれど、日本語がわかるだけでは駄目なのだ。それに加えて、この世界の言葉も理解している人という過酷な条件がつく。この条件に該当する人物を見つけるところから始めなければならないなんて前途は多難、早くも挫けてしまいそうだった。

「……これ、もう終わってるんじゃ……」

「あくせづぶおじあd、あd……?」

 頭を抱えるオレの顔をオオカミさんが心配そうに覗き込んできた。


――か、可愛い、癒される……じゃなくて!――


 気遣ってくれたようなので、これ以上、そんな表情をさせてはならないと思い、オレは笑顔をつくって大丈夫であることを告げた。

「だ、大丈夫だよ、大丈夫! DAIJOUBU、大丈夫……って、え? な、なに……?」

「ダイジョーブ? ……ディー・エー・アイ・ジェイ・オー・ユー・ビー・ユー……。あくそどのまぬおよのってばふらえってろs。いあちむりえdんおyいなまさかさかdんあん……」

 何気なく思いつきでアルファベットに直してみたのだが、殊の外反応がよかった。前のめりになって何かを聞こうとしている。どうやらオオカミさんはアルファベットに興味があるみたいだ。食いつきのよさが半端ではなかった。

 どの部分に引かれたのか、オオカミさんが使っていた言葉を思い返して考察してみる。すると、少し違和感があった。初めは同じなのだと思っていたのだけれど、ケーマを除いて、この世界で会った人たちは発音さえどうやっているのか不明な言葉が多かった。ところが、オオカミさんの言っていることは意味はわからないにしても、その音はほぼ全て聞き取ることができていたことに気づいたのである。

 間違いない。彼女が使っている言葉は彼らとは別のものだ。種族や国によって異なるということなのだろうか。元いた世界で地域や場所によって言語が変わっていたように。

 解読しようと努めたが、とっかかりも何もないのだ。異世界人にも理解できるようにこの世界の言葉の指南書みたいなものがあればいいのだけれど、そんな都合のいいものは生憎持ち合わせていない。というか、この世界は異世界人が来ることを想定しているのだろうか。いや、考慮されているのならオレがこんなに悩むこともなかったと思われるので、異世界人向けに翻訳された辞書の類が存在している可能性は希薄だ。

 悔しい。漸く心が通じ合えそうな人(?)と出会えたのに打つ手がないなんて悔しくて歯噛みする。いや、発音は日本語と似ているのだ。ゆっくり話してもらえれば、もしかしたらということがあるかもしれないと考えて、試してみた。

「え、えっと、ゆ、ゆっ・く・り・は・な・し・て・も・ら・え・な・い・か・な……?」

 心に訴えかける。手を合わせてお願いし、真剣な眼差しで彼女を見据えた。真似をしてほしいという意思を伝えようとしたのだ。オレ自身がゆっくり発することで察してもらおうと精一杯の工夫をして。ところが、オオカミさんに顔を背けられてしまう。こんなことでさえ上手くいかなかった。

 ここでオオカミさんと言葉が通わせられたなんてことが起こったなら、それは奇跡だろう。誰にもわかってもらえないなかで、オレを受け容れてくれそうな子と話すことができるということなのだから。今のオレにとって、これ以上に嬉しいことはない。しかし、オレは異世界に来てからというもの、不運の連続だった。奇跡とは縁遠い星に生まれていたのだ。そのことを改めて思い知らされる結果となった。


 往生際の悪いことに、何か手はないものかと思案を巡らせる。唸っていると、オオカミさんの方から尋ねてきた。

「えのゆせづzーおぽにあげのあをなみ!? んえさめりそまくらわつたらんーあyつせj、うせづおs、あ……!」

 オレに何かを聞いている。その際、明るい表情で両手をポンと合わせたオオカミさん。妙案が浮かんだ仕草のように捉えられる。会話の問題を解決することについてだろうか。それならばその方法を是非とも拝聴したいところだが、こっちから説明を求めることは不可能だった。それにもし、オオカミさんの方から伝えようとしてくれたとしてもオレには理解することができない。言葉が違うから。この言葉の隔たりは取り留めもなく大きな障害だった。

 ほとほと困り果てていると、オオカミさんが突然、両手をすっと前へ出す。両方とも人差し指だけが立てられており、右手と左手は向い合せになっていた。右手に視線を送り、左手にも目を向ける。手に注目させたいらしい。オレが見ていることを確認したオオカミさんは両方の人差し指の関節を曲げたのである。

 何を意味しているのか正しいことはわからない。けれど、オレの目にはその手がお辞儀をしているように見えた。彼女はオレに挨拶をしているのではないか。


――『どうも』と――。


 オレは彼女の手の動きを見よう見真似でやってみる。挨拶したいという思いを込めて。すると、彼女の顔がぱあっと華やいだ。彼女はもう一度、同じように動かす。彼女の嬉しそうな様子に釣られて、オレも同様の動きで返した。

 ちゃんと伝わっているのかは定かでないけれど、通じているような気はしていた。どうしてか、揺るぎない自信がある。それはぴょんぴょんと跳ねて喜ぶオオカミさんの姿がオレにそう思わせているのだろう。

 ジェスチャー。これならオオカミさんと意思の疎通が可能かもしれない。活路が見出せて、オレも顔が綻んでくる。


 人差し指の関節を曲げるお辞儀のし合いは暫くの間、何度か繰り返された。ただ、『どうも』と言い合っているだけ。だけれども、やっと交わせた唯一の言葉なのだ。オオカミさんと会話らしい会話ができたことが楽しくてつい時間を忘れてしまっていた。

 挨拶だけを一体何時間やっていたのだろう。辺りが暗くなり始めて、漸くオレたちは正気を取り戻した。確か、オレが目覚めた頃はまだ明るかった筈なので少なくても二、三時間は続いていたことになる。この世界が元いた世界と同じ時間の流れなのかは知らないけれど、羽目を外しすぎて時間を無駄に浪費してしまったことは事実だ。まさかこんな時間になるまではしゃいでしまうとは思ってもみなかった。オオカミさんの大切な時間を割いてしまって申し訳なく思う。ただ、彼女がどうして止めなかったのかは少し疑問ではあった。


 もう夕暮れ。この世界の夜は兎に角冷える。どうやって寒い夜を越そうかと考えていたら、オオカミさんがログハウスの端へと移動した。そこで右手をひょいひょいと動かしているのが目に入る。『こっちに来て』とオレを呼んでいるようだった。

 建物の陰に消えていったオオカミさんを追い駆けると、彼女は扉の前に立っていた。オレが数時間前に出てきたログハウス、その入り口に。手を引かれ、中へと案内される。このログハウスはオオカミさんの家だったようだ。


 何かに足元を取られた。何かと見下ろしてみると、それはあの濡れていたタオルだった。そういえば、ここにあることが不可解だった。中途半端に乾いたそれを拾い上げて、謎を解こうとする。そんなオレの手からオオカミさんはタオルを奪い取った。それはもう大慌てで。耳が寝て、尻尾が垂れ下がり、元気を失った彼女。動揺する彼女の反応を見て悟った。どうやらそのタオルは洗って干そうとしていたものではなく、オオカミさんが使っていたものらしい。タオルにはオオカミさんの銀の毛がついて、サイズは大きかった。ということは、彼女は風呂に入っていたのではないか。だからあの時、服を着ていなかったのだ。彼女をそんな恰好で来させたのはオレの悲鳴が原因だと考えられる。

 何も言えなくなる。バツが悪くて黙り込んでいると、再度オオカミさんに腕を引っ張られた。部屋の中にあるソファに座るよう促される。オオカミさんは座らず、外へと出て行こうとした。ついていこうとしたのだが、オレは止められてソファに戻される。

 オオカミさんは何も言わずに出ていった。機嫌を損ねてしまったのだろうか。いや、怒られて当然のことをオレはしでかしている。この家がオオカミさんの家なら、あのタオルはオオカミさんのものだ。彼女が使っていたという可能性を考えられた筈なのに、それなのにオレは触れてしまった。デリカシーがなさすぎた。

 オオカミさんは外で何をやっているのだろう。まさかとは思うが、辱めを受けたことが許せなくて、オレに何かを仕掛けてくるなんてことはないよな? いや、ないとは言いきれない。オレは、オオカミさんとは出会ったばかりで彼女のことをよく知らないのだ。そんな彼女のことをどうして推し測れようものか。そう考えると一気に不安感が押し寄せてきた。

 オオカミさんは本当に優しいのか。オレのことを騙そうとはしていないか。疑い出すと、その疑念を拭えなくなってくる。

 ハラハラしながらオレは待っていた。逃げなかった、というより逃げられなかったという方が正しい。オレがここで目を覚ましたということは、崖から落ちたところを助けてくれたのはオオカミさんなのだ。そんな彼女が人を欺くわけがない。けれど、もし裏切られたら、ということがどうしても頭を過ってしまう。信じたい。でも、騙されたくない。その二つの思いが鬩ぎ合い、どちらにも傾かずに行動ができなかったのである。

「ど、どうしよう……! 待ってようか? でも、それで嫌な思いはしたくないし……。じゃあ、逃げる? けど、それだとオオカミさんが本当に優しかったらあの子を傷つけることになるし……。ああーっ、どうすれば……っ!」

 そうしている間に数十分。彼女は戻ってくる。手に――


――二枚のお皿を持って。


 オオカミさんは夕食をつくっていたのだった。彼女が何か仕掛けてくるというのは完全にオレの邪推だったらしい。


 テーブルに置かれたお皿。野菜がゴロゴロと入っているシチューのような白いスープだ。立ち込める湯気が嗅覚を刺激する。いい匂い。食欲がそそられる。ぐうっと身体が欲しがる。このところ食事と呼べるほど食べ物を摂取できておらず、何とか食い繋いでいた状況だったものだからお腹の主張は激しいものだった。何もオオカミさんの前で鳴らなくてもいいのに。逃げたくなるほど恥ずかしい思いをした。

 くすっと笑ったオオカミさんがお皿を差し出してくれる。

「えっ!? た、食べていいの……!?」

 どうぞ、どうぞとお皿を更にオレの方へ近づけたオオカミさん。一瞬、言葉がわかったのかと錯覚するほどの対応の早さだった。今まで言葉には散々苦労させられてきていて、簡単に交わせられる筈はない。オレがあまりにもわかりやすい表情をしていたのだ。

 もう我慢できなかった。こんなに美味しそうなものを目の前にして待っていられるわけがない。

「い、頂きますっ! あむ……っ!」

 合掌を早急に終わらせて、オレはスプーンで野菜を掬い上げる。それは見たことがなく、少し躊躇いはあったものの、空腹の前では瑣末なことだった。口の中へと運ぶ。


――お、美味しい!――


 ホクホクの触感と噛まずともほろほろ崩れる柔らかさ。中までスープのしょっぱくてコクのある旨味が浸みていて病みつきになりそうだ。元いた世界で例えるなら見た目はシチューだが、味は味噌汁のようで不思議な感覚だった。

 まさか、異世界に来て味噌汁の味に出会えるとは何とも感慨深かい。スプーンが止まらなくなる。オレは堪らず、皿に乗っているものを口いっぱいに入るだけ掻き込んだ。

「はふっ、あむっ、はぐっ、……んぐ!? ゲホ、コホッ、ゴホッ、おぇ……っ!」

 がっつきすぎた。そんなに急がなくてもなくなりはしないのに焦って食べた所為で食べ物が変なところに入ってしまった。咳き込むオレ。心配したオオカミさんが慌てた様子で飛んでくる。彼女は手で優しくオレの背中をさすってくれた。

 ここまで気を遣ってくれているのに疑ってしまったなんて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。その上、心配をさせるなんてあってはならない。もう迷惑はかけないようにしなければ。だからオレは、まだ咽ていたけれど、大丈夫であることをアピールした。少し苦しかったので、右手で額を押さえてから、その手のひらを左隣にいる相手に向けて。

 『こっちは大丈夫、気にしなくていい』というつもりでやったのだが、上手く伝わらなかったのか。オオカミさんから謎のジェスチャーが返ってくる。右手の小指だけを立てて、自身の顎をつんつんと二回突いたオオカミさん。その仕草が何を意味しているのかオレには理解できず、ジェスチャーが完璧でないことにもどかしさを覚えたのだった。


 それから、オオカミさんは料理をご馳走してくれただけにとどまらず、風呂も用意してくれて、更に泊まってもいいと毛布を差し出してくれた。お風呂は厚意に甘んじて頂いたが、この家は風呂もトイレも台所でさえも外にある一室しかない造りになっていた。流石に女の子と同じ部屋に泊まるのは問題がある。それなので断ろうとしたのだが、オオカミさんは譲らなかった。半ば強引に同じ空間で寝ることが決定してしまう。オオカミさんには頑固な一面があるらしい。

 その夜。オレはソファの上で毛布に包まり、縮こまっていた。当然だが、眠れるわけがない。取って食われる可能性はないにしろ、何かの間違いが起こっては大問題だ。目はギンギラギンに冴えてしまっていて、寝ようにもなかなか寝付けず、夜は更けていった。


 朝日が差し込んできて、何も起こらず一夜を乗り越えられたことにほっとしたからか、油断して睡魔にやられてしまった。はっとして目を開けると、窓から角度の浅い光が差して狭い面積を照らしていた。

 いけない、うっかり眠ってしまった。もう一つのソファで寝ている筈のオオカミさんを確かめる。しかし、そこに彼女の姿はなかった。部屋中を見回したが、オオカミさんを見つけられない。オレは昨日のことが夢だったのではないかと不安に駆られ、彼女を探すため家から駆け出した。


「あくせどなったさぬおd、おd……?」

 オオカミさんはいた。家から出て数メートルのところに。

 昨日は余裕がなくてよく見ることができなかったが、オオカミさんの家の周りには開拓された土地があり、その畑のような場所にオオカミさんはいたのである。彼女の存在が現実であったことに、オレはほっと胸を撫で下ろした。

 広大な土地にいるのはオオカミさんただ一人。他に人の影は確認できない。

 この辺りにはログハウスが一件と風呂やトイレの小屋、屋根はあっても壁と床のない台所スペースが一か所あるだけ。奥の方はどこも四方八方、鬱蒼とした木々に囲まれていた。その木々は斜面に立っており、ここが山の一部であることがわかる。オオカミさん以外、この場所に誰も住んでいる様子はなかった。

「ど、どうして、こんな極地みたいなとこに一人で――」

 尋ねようとして、オレは慌てて口を噤んだ。はっとしたのだ。彼女があの時、どうして止めなかったのか。オレが燥いで、何時間もジェスチャーでの会話に付き合わせていたあの時。あの時、彼女も同じように喜んでいたのだ。彼女も長いこと誰とも話せていなかったのではないか。

 こんなことを思うのは失礼かもしれないが、色々としっくりきてしまう。会話ができて喜んでいたこともこんなところに一人で暮らしていることも。全てはきっと――


――彼女の容姿が関係している、と。


 彼女の身体はオオカミと人間が混ざった姿をしている。街の人々に受け容れてもらえなかった、そう捉えれば、喜んだこともここでの一人暮らしも得心がいく。ただの思い過ごしなのかもしれない。けれど、もし本当にオレの想像した通りだったとしたら? 彼女はオレを救ってくれたのだ。放っては置けなかった。

「え、えっと、その……っ。な、なにかありませんか……? お、オレにできること……っ!」

 頭を下げる。深々と。今度はオレがオオカミさんの力になりたい。ただ、それだけだった。

 言葉が通じなくてオオカミさんを困らせてしまう。オレは懸命に会話をしようと努めた。それでも、限界がある。ジェスチャーならわかり合えるとしても、その表現の仕方の知識がオレにはなかった。

 オオカミさんが寂しいなら近くにいる。他の人たちに認めてもらいたいならその方法を一緒になって考える。困っていることがあるなら協力する。伝えたいのはそれだけなのに、気持ちだけではオオカミさんを戸惑わせてしまうばかり。これでは本末転倒だ。オレがオオカミさんを悩ませる原因になってしまうように感じられた。

 言葉を交せないオレが近くにいても相談にも乗れないし、話し相手にもなれない。むしろ、わからない言葉をかけられては、それが心配や労いの言葉であったとしても却ってストレスになり得る。一緒にいては迷惑をかけるだけだ。

「あ、いや、やっぱ、い、いいです……。忘れてください……」

 オレは去ろうとした。オオカミさんの元を。彼女に苦労はかけさせたくない。オレが近くにいても何のメリットもないとわかったから。

 オオカミさんに背を向けて歩き始めたオレ。そんなオレの手が引っ張られる。


「おななyいあうぃろちふおm……! いあげの、いあさづけちいぬかきt……っ!」


 腕を掴まれた。オオカミさんに。震えていた。俯いて。これはオレの勝手な妄想なのだろうか。離れていってほしくない、そう言われているかのようで――。

 彼女は放さなかった。オレは漸く理解する。彼女は本当に寂しがっていた。あれこれ考えすぎて見当違いな心配をしてしまった。ただ、彼女の気持ちだけを考えていればよかったのだ。オレは今度こそ決心する。彼女を救いたいと。


 この日からオレはオオカミさんと一緒に過ごすこととなった。オオカミさんが働いているのに、傍にいて何もしないのは嫌だったので手伝いをすることを申し出た。少しでも役に立ちたくて。

 まずは畑仕事。これは引き籠もりで体力がなかったオレには重労働だった。農具は重いし、草を毟る体勢はきついし、虫は多いし。けれど、取れた野菜を食べるのは充実感があった。ただ、この世界の野菜は口には合うものの、身体には合わないようで慣れるまでの一週間、腹部に酷いものが襲ってきて大変苦しい思いをすることになったわけだが。

 取れた野菜を売りに行くことにも同行した。オオカミさんの家がある山の中腹から市場まで出かけるのだが、この時、オオカミさんは顔を隠していた。やはり、姿が違うために受け容れられていないのだろうか。

 この世界の言葉がわからないオレは専ら運搬や商品の受け渡しをすることがメインだった。オオカミさんは言葉がわかるようだけれど、違う地方の言葉は喋れないようで、手で値段などを伝えて売買を成立させていた。手に入れたお金は魚や肉類、日用品などの買い物に使われる。

 ちなみに、魚と肉は野菜よりも身体に合わず、食べると悲惨なことになる。スープなどにしてその身を食べなければ大分マシになるのだが、それでもつらい。栄養を考えると取らなければならないのが悩ましいところだ。

 家事も手伝い、二人で協力して生活していた。家電なんて便利なものはなく、ご飯を炊くのにも、風呂を沸かすのにもまず、火を起こすところからという原始的な生活だったけれど、オオカミさんと家族になったみたいだった。暖かい。こんな時間がずっと続けばいいのに。そう思える。しかし、幸せな時間というものは長くは続かない。破滅の足音が刻一刻と迫ってきていることを、この時のオレは知る由もなかった。


――――――


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