第四章 ゲームの世界を信じたらカオスだった点
ザザーッ
ガサガサッ
バキンッ
ドシーンッ!
「あいててててて……っ!」
宙に浮いたと実感した後は一瞬のことだった。背中には安定した感覚。オレは地面に打ちつけられたのである。酷い衝撃を受けて頭がくらくらする。目の前の世界が回っていた。
記憶はしっかりしているようだ。崖の上から突き落とされたことを覚えている。視界の端にさっきまでいた山頂の切り立った部分を捉える。二十メートルくらいあろうか。建物に換算して四、五階ほど。よくそんなところから落ちて生きていたものだ。
腕を動かすとガサガサしたものに触れる。木の枝だ。大量に葉っぱをつけた木の枝が根元から折れていた。オレが落ちてくる時に引っかかったのだろう。これがクッションとなって落下の衝撃を和らげてくれたようだ。生き延びられた要因はそれだけではない。絶壁に刀を刺してスピードを殺したことも生きることに繋がったのだと思う。あのお蔭で半分近く高さを削れたのだから。絶壁にはその跡がくっきりと刻まれていた。
とはいえ、無事だったとは言いがたい。手には傷が絶えないし、靴は摩耗して歩くとペカペカ音が鳴りそうだ。それに、いくら衝撃を押さえられたといっても、あの高さから落下してきたのだから身体はずきずきするし、くらくらするのが収まらなくて起き上がることもできない状態だった。
「生きててよかった……。けど、あいつに会わなければこんな目に遭わなくて済んだんだよな……。ホント、ついてるんだかついてないんだか……」
助かったことは運があったと言える。だとしても、ケーマという男に会ったことがこのような結果を招いたわけで、全体的に見ればやはり不運だった。あの男に会わなければ、そもそも死ぬ思いをせずに済んだのだから。
今すぐにでも仕返しをしてやりたい。その気持ちは募りに募っていく。それなのに、身体は痛くて思い通りに動かせなかった。
腕だけは辛うじて言うことを聞いてくれたため、何とかして立つ方法を模索する。身体を支えられるものがあれば上体を起こせそうだ。だから、杖になりそうなものを求めた。首はあまり自由が利かなかったので、手探りで周りを調べる。すると、左手に何かが当たった。まあまあな太さがあり、杖として代用できるのではないかと持ち上げてみる。それが視界に入ってくる。オレが拾ったもの、それは――
――骨だった。
「……ひぃっ!」
人の骨。戦慄した。思わず放り捨てる。
真新しさがあった。燃やされた後でこの場所にほかられたのか、拾い上げたものは肉も皮もついていない人骨だった。
手放した骨がからからと音を立てる。同質の物体に当たった音。心がざわつく。嫌な感覚がして、強引に身体を捻る。
尋常ではなかった。周りにあったのは骨の山。しかも、結構な数の。こっちのものはかなりの期間、手をつけられていないようで変色していた。
わけがわからなかった。どうしてこんなことになっているのか。
遭難した?
魔物に襲われた?
誰かに遺棄された?
原因を考えていると、遠くの方から嫌な声が響いてくる。
「えj、ういtgb5うtZqt?」
ケーマの声。反射的に押し黙る。発せられているのはこの世界の言葉で何を言っているのか理解はできなかった。だが、今、喋ったり動いたりするのは非常に危険であると察せられた。オレはそんなに視力のいい方ではなく、むしろ悪いのだけれど、頂上で人影が動いたのをしっかりと捉えられたのだ。
「cゆfr@ふえw@d)4。bkqtxと6あうぇぐぇお+>sf6m5jpy」
「c4q@う……。q@t@、j3、<yいf<y4&、q@」
人影が消えた。オレの生死を確認していた感じを受けたのだが、どうやら死んでいると判断してくれたらしい。助かった。仕返しをしたい気持ちはあったものの、こんな状態では返り討ちに遭うに決まっている。反撃もままならず、容易く捻り潰されて殺されるかもしれない。復讐を達成できずに死んでしまうのは嫌だった。やるなら万全を期してからだ。成功させなければ意味がないのだから。
ほっとしたのも束の間だった。
「『ぉjyw@>2+3』!」
二、三メートル先、上空に出現した火の玉。それは見る見るうちに大きくなって、直径一メートルや二メートルなんて優に超す。視界をすっぽり覆った。測り知れない。
これはオレがやりたかったこと。けれど、何度やってもできなかったこと。オレにはできなかったことをやつは簡単にやってのけた。先ほどの掛け声は詠唱だった。これはケーマの魔法だ。やつは完全にオレの息の根を止めにきていた。
巨大な火の玉が迫ってくる。
「――ッ!」
死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない――!
こんなところで死んでたまるかっ!
オレは足掻いた。
懸命に足掻いた。
我武者羅に足掻いた。
手に当たった固い感触。
刀だ。
オレはそれを取った。
振るうためではなく、支えるために。
今のオレに重い刀を振り回す体力は残っていない。だから、逃げるために刀を使った。地面に突き、這うようにして身体を引き摺っていく。身体が痛むのも押し殺して前へ、前へ。只管前へ。
そんなスピードで逃れられるわけがない。火の玉は躊躇なく襲いかかってきて、オレの左足を掠めた。これで終わってくれれば傷は最小限で収まったものを、やつが放った魔法にはとんでもない続きがあった。想定外なことに巨大な玉が今度は小さくなり始めたのである。一瞬、消えるのかと思った。しかし、ゴゴゴゴゴ……ッと呻いているのに不吉な感じを覚える。これは威力が弱まっているのとは別の現象。圧縮だ。
「ま、まさか――」
急いで頭を庇った。瞬間――
ドゴォオオオオオンッ!
爆発した。弾けるように。高い火力で。激しい爆風を伴って。
オレは強烈な熱風に弾き飛ばされた。何メートル転がされたことか。木のお蔭でやっと止められる。止められたという表現は適切ではない。正しくは痛打だ。癒えていない落下による傷の上に爆風の衝撃が伸し掛かってくる。悶絶を通り越して意識が遠退いていきそうだった。
意識が途切れてくれた方がどれだけマシだったか。オレは身体が切断されるかのような惨い痛みに襲われたのだ。声も発せられない。呼吸をすることさえ困難になっていた。
このままでは命が危ないかもしれない。そう感じるほど深い傷だった。回復魔法が発動してくれることを祈って念じる。けれど、どれだけ拝んでも回復なんてしてくれなかった。悉く失敗して空しさが押し寄せてくる。それでもオレは続けていた。続けるしかなかった。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……っ」
身動きが取れるようになったのは西日になってからのことだった。とは言ってもぴりぴりと張るような痛みは全身に残っている状態だ。無理に動こうとして力を加えると骨に来る。痛烈。折れてしまいそうなほどに。
結局、ヒールは使えなかった。オレはボロボロの身体を抱え、左足を引き摺りながらその場を離れた。
刀をまた杖代わりにして進んでいく。遠くへ、遠くへ行かなければ殺され兼ねない。あの男は危険だ。本気でオレを殺しにかかってきていたのだから。
思い返せばやつは嘘ばかり並べていた。魔法を教えてくれなかったし、仲よくする気なんて更々なかった。こんなところに連れてきたのもオレを排除するため。ただ、一つだけ、あれだけは真実だったようだ。他に異世界から来た人がいて、その人にすぐ会える、そして仲良くなれると言ったことは。崖の下にあった骨、あれらが恐らくそうなのだろう。異世界から来た人たちのなれの果て。会話の内容からして殆どが女の人だったと考えられる。きっと彼女たちもオレと同様、ケーマに騙されて墜死させられたのだ。死んでいる彼女たちと仲良くなれると言ったやつの真意は、同じようにして死ぬということを示していたのではないか。
レベルが違いすぎる。こんなのを相手にどう報復しろというのか。もう関わらないようにした方が賢明なのではないか。オレの中で騙された挙句に大怪我を負わされて許せないという思いと、殺されるかもしれないからもう関わりたくないという気持ちが葛藤を始めていた。
迷いながら移動する中、オレは数体の生き物を見つけた。それはゲームにおいて最弱モンスター、スライムに次ぐ弱さであることが多い緑色の肌を持つ小鬼型のモンスター、ゴブリンだった。
「……三体か。序盤のモンスターとしては定番――」
目を凝らして見るとお食事中のようだった。食べているのは美味しそうな野菜。ゴブリンたちの胃の中に収められていくのを目にするとああ、と惜しむ声が漏れる。こっちは昨日、いや、この世界に来た一昨日を合わせてもマンドレイクの実を二つしか口にしていないというのに弱小モンスターとされるゴブリンが食事にありつけているのは少し腑に落ちなかった。頼めば分けてもらえないだろうか。ゲームでは言葉が通じない設定であることが多い魔物であるため難しいかもしれない。それならいっそのこと倒してしまうか。
体力に不安はあったが、闘わずに街へ逃げたとしても話が通じないのだからどのみち宿屋には止まれない。騙されて襲われでもしたら今度こそ命に関わる。それならば自力で体力を回復する術を得るしかない。オレはあの野菜を奪える方に賭けてみることにした。
近くにあった木の陰に隠れて様子を窺う。
「……今の体力で三体を相手にするのは厳しいかな……。誘き寄せて一体ずつ狩ろう……!」
木に柄を当て、小さな物音を立てて一体の注意を引こうとする。ところが、そんな音でも大きかったのか、全員が反応した。三体でこっちに向かってくる。どうするか決め兼ねているうちにゴブリンたちと対面してしまった。オレは咄嗟に作戦を変更する。
「え、えっと、あの……、野菜を分けてもらえません、か……?」
何も通じ合えないと決まったわけではないのだ。ゲームの設定が間違っている可能性は充分にある。意外と心を通わせられて、食料を譲ってもらえるのでは――
「ギギィーーーーーっ!」
「のわぁあああっ! そんなわけなかったぁあああああああっ!」
取り出された金棒。どういう使い方をされるかなんて考えるまでもない。武器としてに決まっている。振り翳して向かってきているのを見ればどんなに鈍い人間でもそう判断できるだろう。オレは覚悟した。三体同時に闘うことを決心したのだ。
柄を強く握り、臨戦態勢へ。襲いかかってくるゴブリンたちを迎え撃とうとした。その時、ごうごうと熱波が伝わってくる。奥にいた一体のゴブリン、そいつが――
――火の玉を形成していた。
前方にいた二体の武器は金棒だったが、もう一体の武器は違っていた。杖だったのだ。
火の玉がオレの方に発射される。ケーマがつくった炎に比べれば小さなものだ。拳大。スピードもそれほど速くないし、これなら刀で斬って消滅させられるのではないかと考えた。オレは刀を上段で構える。スポーツは全般的に苦手なので目の前に来た球を叩き落とすイメージだ。
スパッ!
運がよかった。中心は外れたが、ばっちり斬れた。火の玉は分断される。これで消滅すると思った。けれど、二つになった一方の半球が勢いそのままにオレの頬を直撃する。
ボゥッ
「うあっちゃあ! あっつ! 熱いっ、熱いっ!」
オレは地面を転げ回った。ひりひりする。じんじんする。触れると、びりっと電気が走るような感覚。皮膚が爛れて溶けてしまったみたいで一気に怖くなる。これは当たり所が悪かったら普通に死ぬ。こんなの相手にできるわけがない。
二体のゴブリンが容赦なく金棒を掲げてくる。身体を反らしたことで間一髪、直撃は免れる。肉体へのダメージは、魔法によるものを除けばそれほどでもなかった。しかし、対して精神的ダメージは多大なものだった。弱いとされるゴブリン相手に手も足も出ないのだから。まさにリンチ状態。攻撃を躱すだけで精一杯だ。とはいえ、喧嘩が強いわけではないオレは戦闘経験もなく、全ての攻撃を避けきることなんて不可能で、何度か掠めていた。
着実に体力を削られていっている。やばい。このままではゴブリンに殺される。オレは形振り構わず、ゴブリンたちに背を向けた。死に物狂いで逃げ出したのである。
追い駆けてくるゴブリンたち。ぼてっとしたお腹をして、短めな足なのに意外と速い。それともオレが負傷している所為で遅いからなのか。距離が開かなかった。こんなことになるのなら体力が余っているうちに逃げておくべきだった。距離が稼げないから隠れることもできず、走るしかなかった。
走りながら、心の中でオレは嘆いた。おかしい。どうしてこうなった。異世界に来たのだからオレは選ばれたのだと思っていたのに。小説やマンガの主人公のように最強になれると信じていたのに。蓋を開けてみれば現実は何とも情けなくて惨めだった。物凄い怪力になるわけでも、体力が跳ね上がるわけでもない。特殊な能力が目覚めるわけでも、強力な魔法が使えるわけでもない。至って平凡、いや、引き籠もりのニートという非力なままこっちの世界に来てしまったのだ。フィクションのような体験ができたというのに全く活かせていない。こんな最弱転生では主人公になるだなんて夢のまた夢ではないか。
物思いに耽っていたオレの顔の真横を火の玉が飛んでいった。振り返って確認する。まだゴブリンたちの姿があった。全然撒くことができていなかったのだ。
頬の火傷が疼く。魔法という概念がない世界から急に魔法の存在する世界へやってきたオレに、魔法に対する耐性があるわけがない。小説やマンガの主人公と呼ばれる存在ならあの程度、なんてことない筈なのに、オレの頬には大きな傷痕。彼らが平気な理由、それはフィクションだからだ。
現実と空想を取り違えてはならない。人間、そんなすぐには順応しない。異世界に来ただけで強くなるなんてことはない。小説やマンガでは転生してすぐに戦えるようになっているけれど、あれはフィクションであって現実はそんなに都合よくはいかないのだ。そのことをオレは身を持って痛感させられていた。
また火の玉がつくられているのを目撃した。魔法に対する耐性だったり、受けてもすぐに回復するほどの再生力があれば、とつい渇望してしまう。無駄なことだとはわかっていたけれど、それでも渇望してしまうのだ。
逃げる、逃げる、逃げる、逃げる。もう限界なんてとっくに超えていた。それでも、逃げ続けた。
ガクッ
後ろが気になって、前への注意力が
「……えっ、また――!?」
踏ん張ろうとするが、支えられなかった。バランスを崩し、身体は崖の底へと引き寄せられていく。
「う、うわぁあああああああああっ!」
オレは再び高い所から転落していった。今回は断崖絶壁で直角というわけではない。そうは言うものの、勾配が緩やかな傾斜といえる坂でもなく、オレは一気に転げ落ちていった。ただ、救いだったのは前回と比べると格段に低かったことだ。
底に到達したオレをゴブリンたちが崖の上から覗き見てきた。ぐったりしているのを確認したからか、それとも、違う道から下りて来ようとしているからか、彼らは顔を引っ込める。前者であってほしいが、張り詰めた感覚が拭えなかった。楽観視はできない。油断は大敵。悪い方を想定しておくべきである。激痛に堪えながら、オレはずたずたになった身体を引き下げて逃げることを再開させた。
できるだけ茂みの深い所を探し求めた。這うのがやっとの状態だ。走ることはおろか歩くことさえ痛みに邪魔される。速く移動することができない今、敵と遭遇したら助かる術を持たない。見つかる前に姿を隠す必要がある。必死だった。
背の高い草叢を発見し、それに身を沈めて様子を見る。そうしていると、ゴブリンたちが視界に入ってきた。オレが落ちた地点をうろうろしていた。調べているのか。オレがどこへ行ったのかを。固唾を飲んで見守っていると、ゴブリンたちが暴れ始めた。文字通り、草の根分けてでも探せと言うように勢いよく草を払ってきたのである。完全にオレを探していた。
この場所から離れたい。遠くへ行って安全なところで一息つきたい。けれど、オレは逃げなかった。動けば音が出る。隠れている場所を教えることになる。それは殺してくださいと言っているようなものだ。自殺行為も甚だしい。オレは速く逃げられないのだから。
息を潜める。じっと待った。ただただ無心で。時が過ぎ去るのを。
それがよかったのだろう。オレの気配が薄れたことで悟られなかったようだ。どうなったのかと周りを確かめた時には、既にゴブリンたちは別の場所へ行った後だった。何とか生きていられたらしい。
しかし、と振り返る。ゴブリンたちは食事の妨害をされたからここまで執拗に追い駆けてきたのか。オレの計画は頓挫していたというのに、あんなに血走って捜索されなければならないなんて、なんて恐ろしい生き物なのだろう。もうゴブリンに手を出すのはやめよう、そう心に誓った。
命があったことに安堵の溜息が漏れる。緊張の糸が解けた所為か、ぐうっと腹が鳴った。まともな食事にありつけていないのだ。疲労困憊。加えて、二度も崖から転落して満身創痍。ケーマと村人たち、魔物たちに追われていることや会話ができない、文字が読めないといった諸々のストレスで神経衰弱。踏んだり蹴ったりである。
そろそろ何か食べないといよいよ不味くなってくる。空腹を紛らわそうと大丈夫そうな草を口に含んでみる。しかし――
「うぇっ! なんだこれ!? まっず……! ぺっ、ぺっ!」
不味くて食べられたものではなかった。急いで吐き出す。その後も別の植物で何度かトライしてみるも、当たりの野草は一つとしてなかった。ゴブリンたちの食料を奪っていないのにこの仕打ち。まるでそういう考えに至ったこと自体が許されないとでも言われているかのようだった。
オレはこの世界に適していない。不運ばかりが続いている。もう沢山だ。
諦めかけたその時、脳裏にあの顔が浮かび上がる。口角の上がっているケーマのあの顔が。ゴブリンたちの食料を奪おうとしたことが罪に当たってこんな罰を与えられているのだとしたら、やつはどうなのか。自分だけが英雄でいるために他の英雄候補を殺し、オレに傷害を
ケーマは咎められなければならない。それを見届けるまでオレは死ねないと思い直す。生きるためにオレはゆっくりと立ち上がった。
木の実でも野草でも動物の肉でも食べられるなら何でもいい。兎に角、食べ物を求めて山を彷徨っていた時のことだった。アイツを見つけた。食料ではないが、探していたもの。ゲームにおいて最弱とされるモンスター。
「っ! ……スライムだ……!」
こいつなら倒せるだろうと武器を構えようとした。柄を握った瞬間、ゴブリンに挑んだ時のことがフラッシュバックしてくる。あの中に魔法使いとなったゴブリン、ゴブリンメイジがいるとは知らなくて見事に大敗したではないか。同じ轍を踏んでは目も当てられない。オレは柄から手を離し、スライムをじっくり観察することにした。
周りは草が鬱蒼としているわけではないし、木が密集しているわけでもない。刀がつっかえる心配はなさそうだ。戦闘を行うスペースは充分。それに、これだけ見通しがよかったら他にモンスターが潜んでいるとも考えにくい。スライムと一対一の勝負だ。
「前回は三体相手だったからな……。数で不利だったんだよ。大体、喧嘩もしたことない戦闘の初心者がいきなり三体同時に相手しようとしたのが間違いだったんだ。でも、今回は一体。しかもスライム! ……魔法は使ってこない、よな……?」
ゴブリンでの失敗が尾を引いていた。もし、スライムが魔法を使えたならオレが負けることだってあり得る。最弱だと舐めてかかったら痛い目を見るだろう。
それにしても、弱小モンスターであるゴブリンが魔法を使えるのに、オレは使えないとはこれ如何に。弱いとされるゴブリンよりも劣っていると認めなければならないのは正直、精神的に
負けられない。絶対に負けられない戦いがここにあった。
スライムの動きを逃さず注視する。どれだけせこい戦い方でもまず勝つこと、それが最優先だ。理想としては奇襲。気づかれる前に後ろから斬りつける。反撃の隙を与えない。これが重要だ。攻撃のチャンスを潰してしまえば勝てる見込みがある。
しかし、さっきから生態を調査しているが、どっちが前なのだろうか。スライムには目もなければ耳もない。それ以前に顔や手足がなく、あの身体も胴体と呼んでいいのかは不明だ。吸水性の悪い床に水を一滴垂らしたような形をしていて、大きさはネコやウサギくらい。ゲームでは少し愛らしいような感じも受けるのだが、リアルでは何というか、そういった感覚にはならなかった。あれでどうして生きていられるのかと不気味だったし、ウニョウニョと動き回っている姿が気持ち悪かったのだ。
「……でも、生き物って感じがしないのは好都合かもな。ゴブリンとかだったら生きてるって感じがするからちょっと罪悪感があるけど、あれなら気兼ねなく斬れそうだ」
取り出した刀に力を込める。ここで戦闘の感というものを覚えるのだ。強くなれば、もうこんな思いをしなくていい。
「そうだ、いいことを思いついたぞ……! 強くなって、オレはこの世界の英雄になるんだ! 見てろよ、ケーマ……っ!」
閃いた。何も誰かがやつに裁きを下してくれるのを待っている必要はない。今は貧弱だけれども、英雄になれないと決まったわけではないのだから。オレにだってやつを罰せられる可能性はある。だったら、オレがあの男に制裁を加える。それも、やつとは接触しないやり方で。それこそ、やつにとって一番の戒めになる筈だ。与えてやろう。この上ない屈辱というやつを。
何の罪もないスライムには悪いが、そのための足掛りとなってもらおう。オレはスライムに向かって駆け出した。
今でき得る最大限のスピードで近づいて刀を振るう。斬る、斬る、斬る。切り刻む。予定通り一瞬で決着をつける。反撃の隙なんて与えない。魔法が使えたとしても使わせない。攻撃の手を止めない。オレは我を忘れて刀を振り続けた。何度も、何度も……。
気づいたらスライムはバラバラになっていた。
「……た、倒した、のか……? 水を斬ってるみたいであんまり実感がなかったけど……」
顔も四肢も臓器さえもないけれど、これでも生きていたモンスターだ。残骸となった姿を見ているのはあまりいい気がしない。これが闘うということなのかと感傷に浸った。
犠牲を払って強くなることにオレは堪えられるだろうか。そう悩むオレの前で衝撃的なことが起こる。
「――え」
硬直した。
目を疑った。
動いていたのだ。
バラバラになった小さな欠片が。
それは集まってくっつき始める。
再生していた。
スライムが。
誰が最弱だなんて決めたのだ。微塵になるまで切り刻んだのにすっかり元通りだ。こんな再生能力を有しているモンスター、魔法が使えるやつを相手にするより厳しいではないか。勝てない。勝てっこない。足の力が抜けて尻餅をつく。
ゴゴゴゴゴ……ッ
突然、地面が唸り出す。大きな揺れが発生する。何が起こっているのだと顔を忙しなく動かした。大地が乾涸びていく。草は黒ずみ、木は葉を落とす。その異変の中心にいたのは、あのスライムだった。
大きく膨れ上がるスライム。地下から水を吸い上げているようだ。
「な――っ!?」
見上げる。オレの二倍、三倍では収まらない。最早、高層ビルだ。よもやスライムを仰ぐ日が来るなんて夢にも思わなかった。そんな巨大スライムが迫ってくる。
こんなの勝てるわけがない。どう相手をしろというのだ。尻餅をしたまま手足をばたつかせる。
みっともない。けれど、恰好を気にしている暇はなかった。離れたい。懸命に距離を取ろうとした。しかし、パニックになっていて大事なものを忘れてきていることに気づかなかった。スライムがそれを呑みこむ。
「――ああ! 刀が……っ!」
唯一の武器がスライムの中に収められてしまう。取り返そうとした。手を伸ばすも届かない。間に合わなかった。刀はスライムの中心へ移動させられたのである。
スライムの中に手を入れることはできる。けれど、中は水だ。いや、水よりも重たくて圧迫感が強い。どうにかして取り出す方法はないものかと思考をフル回転させる。智慧を振り絞ったが妙案は出てこず、そんなことをしているうちに危険がすぐそこまでやってきていた。
「――ッ! ゴボガバゴボ……ッ!?」
スライムがオレを取り込もうとしたのだ。中へ、中へと送り込もうとしている。このままでは窒息死する。スライムに殺されたなんていい笑いものだ。冗談ではない。そんな不名誉なことは絶対に避けなければ。
足掻く。もがく。抵抗する。兎に角暴れた。それでも、どうにもならない。もう自棄になって自ら奥に突っ込んでみる。驚いたのだろうか。逃げようとするものは絶対に放すかと言わんばかりに締めつけを強くしていたスライムだったが、自ら飛び込んでいくとその締めつけが緩まったのである。獲物の方から食べられにやってくるということがなかったのだろう。このチャンスをオレは必死で掴んだ。
スライムから脱け出せたオレは、武器を置いて逃亡を図る。刀を取り返したかったが、今度、スライムに捕まったら脱け出せる気がしない。それに取り戻す余力も残されていなかった。命あっての物種とはいうけれど、身の安全と引き換えに、オレは最大の心の支えを失ってしまったのである。
最悪だ。生き抜くためのたった一つの可能性だったのに。オレには力もない。特殊な能力もない。魔法も使えない。言葉も文字もわからない。食料もない。お金もない。世界が異なるのだから家に帰ることもできない。そして今、武器もなくなった。丸腰だ。こんなのでどうやって生きていけというのか。
残ったのはマンドレイクの蔦と巨大なカニモンスターの脚の殻でつくった鞘だけ。水を飲むのには役に立ったが、戦闘での使いどころは見出せそうにない。武器がなくなってしまった今、これだけ後生大事に持っていても嘆かわしいだけだ。それに、これはドラゴンの討伐を約束して使わせてもらっているモンスターたちの遺された思いなのだ。けれど、ゴブリンやスライムに惨敗するようではドラゴンには足下にも遠く及ばない。彼らの無念を晴らせないということになり、約束は反故にしてしまうことになる。それなら、いつまでもオレが持っていていいわけがない。オレは穴を掘った。その中に彼らの一部を入れて埋めることにしたのだ。埋め終わった後、盛った土に向かって手を合わせる。約束を果たせなくて申し訳ない、と。
こうして何もかもを失ったわけだが、オレは強くならなければならない。あの男に復讐しなければならないのだから。けれど、弱いとされるゴブリンにもスライムにも全く歯が立たなかった。それも武器を所持していたにも拘わらずだ。強くなるには戦闘の経験を重ねる必要があるのだが、装備がただの服だけとなった今のオレに倒せる相手がいるのかは甚だ疑問だ。
先が思いやられる。ここまでどうにか生き延びてこられたが、運がよかっただけにすぎない。次、襲われでもしたら命の保証はし兼ねる。
「……武器なしでどうしろって言うんだ……! どうやって強くなればいい!? ゴブリンやスライムより弱い敵っているのか……!?」
一縷でいい。何としてでも希望を見出さなければならなかった。オレは絶望して精神がイカレてしまう一歩手前のところまでいっていた。
一種の防衛反応が働く。都合のいい解釈をしたのだ。
対ゴブリン戦ではゴブリンメイジと遭遇したことが大きな敗因なのだ。魔法のない世界にいたオレには魔法に対する耐性がなかったものだから魔法が使えるゴブリンメイジはオレにとっての言わば天敵と呼べる存在だったに違いない。それに数でも不利だった。一体三ではなく、通常のゴブリンと一対一の勝負だったなら勝てていただろう。いや、相手の攻撃を躱せていたのだから絶対に勝てていた。
対スライム戦だが、あれはゲームの設定に誤りがあったのだ。スライムは弱いモンスターなどではなかった。実際に闘ってみた感覚では、むしろ強い方に分類されるべきモンスターという印象だった。オレはゲームの設定を信じすぎていた。それが敗因だ。
恐らく、オレがやっていたゲームのクリエイターらは異世界に行ったことがないのだ。だから、スライムが最弱とされていた。彼らが本物のスライムを目の当たりにしたら何を思うだろう。嘘だろ、というのが一番に浮かぶ感想ではないか。だが、まず彼らがしなければならないのは最弱のレッテルを貼ってしまったことに対するお詫びだと思う。
これは屁理屈だ。そんなことはわかっている。けれど、そうでも思わなければやっていられなかった。魔法との相性が悪い、スライムは強敵。そう思い込まなければ戦闘の経験を積む前にオレの気力が摘まれてしまいそうだったのである。
オレは歩き回った。倒せる敵か食べ物かお金か、どれか一つでいい。何かあってくれと切に願いながら。しかし、祈った程度で叶うなら最初からこんなことにはなっていない。結論、何一つとして出て来なかった。
崩れ落ちる。傷は癒えず、不安とストレスは溜まる一方。お腹も減り、喉もカラカラ。もう、体力は完全に底を尽き、意識が朦朧としていく。
……
…………
………………
――うふふふふ――
――あはははは――
笑っている。耳元で囁くような声。それが聞こえて、オレは重い瞼を上げた。その瞳に映ったのは小さな身体に翅が生えた少女の姿――
――妖精。
到頭、迎えが来たのかと思った。そう感じるほど幻想的な光景が広がっていたのだ。
自らの身体を淡く輝かせ、飛んでいった跡にキラキラした光の線を描く彼女たち。十や二十ではない。百か千か、下手をしたらそれ以上の妖精がオレの周りを飛び交っていた。壮観だった。綺麗で、オレは暫く見惚れていた。
夢ではないかと頬を思いっ切り抓ったら想像した以上に痛かった。焼け爛れた左側で確かめてしまったのだ。しかし、これだけ痛いなら夢ではないらしい。同時に死んでもいないだろう。
この世界における妖精はどういう存在なのか。フィクションでは敵か味方か、二分されるポジションを取っている。回復アイテムとして登場するゲームもあるので割合的には味方である方が多い印象なのだが、最早ゲームの情報は信じていいものか怪しいところだ。こうなったらもう自分の直感に任せる他ないだろう。自分の目で見たものや耳で聞いたもの、鼻で嗅いだものや肌で感じたものといった五感と、第六感で決めるしかない。
「……もう限界が近い。……このまま状況がよくならなかったら、なにをしたってどうせ死んじゃうんだ。……だったら、回復させてくれるかもしれないって方に賭けてみるのはありだよな……?」
オレは信じることにした。妖精たちに助けを乞う。すると、それまでバラバラに飛んでいた彼女たちが、ある一方向を示す大きな矢印をつくるように整列したのである。案内をしてくれるようだ。
よかった。いい妖精なのだろう。これで助かる、と気分はまるで天国にいるかのよう。しかし、大事なことを忘れていた。これまで、この世界のどんな存在とも意思の疎通ができなかったということを。
オレはこの後、地獄に突き落とされることになる。
妖精たちの案内で藪を抜けた後のことだった。
ずるっ
足を滑らせる。
まただ。
また地面に足がつかない感覚。
オレはまた騙されたのだ。
――うふふふふ――
――あはははは――
笑い声が木霊する。
軽蔑の声。
やはり信じてはいけなかったのだ。
オレの直感も当てにならない。
後悔先に立たず。
身体が宙に浮いた。
下を見る。
高い。
このまま落下したら確実に――。
「――こんなもんかよ……っ! オレの人生はこんなもんなのかよォオオオオオッ!」
受け容れられない。納得なんてできようものか。前の世界では才能に恵まれず、誰からも必要とされず。こっちに来てからはドラゴンに襲われ、言葉が通じず、マンドレイクに襲われ、街の人たちに襲われ、食料を失い、ケーマに騙され、ゴブリンに負け、スライムに負け、武器を失い、妖精にからかわれる。これで終わってしまったら、オレは何のために生まれてきたのかわからない。これで死ぬなんてそんなの、いいわけがない。
オレは必死に手を伸ばした。何も掴めない右手。それでも、伸ばした手を引っ込めはしなかった。
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