第三章 初っ端から詰んでる話せない制約

「え、えくすきゅーずみー? きゃ、きゃんゆーすぴーくいんぐりっしゅ……?」

 伝わってくれと祈る。英語なんて殆ど喋れない。けれど、わけのわからない言語よりか断然マシだ。

「q@と、ういえZwyq@Zwげwyq@9! ……3yq、mdtどぇpてd@yt? j+いえ>yq@9う、3yqjくぇうk。……ぇgy、66えう。ぜpyd@zm6ゆkvst@っびgqp@?」

 駄目だ、全く通じない。これはもしかするともしかして、異世界転生始まって以来、最大の試練にして最悪の事態なのではないか。あのダークエルフに続いてここの店主もわけのわからない言語を使っていた。ということは、他の人も同じなのではないか。まさか、この世界の全ての人と話せないなんて言わないよな?

 青ざめる。さーっと血の気が引いていくのがわかった。運動もしていないのに息が切れる。動悸も激しくなる。頭の中が真っ白になる。

 オレの言葉がわかる人に会いたかった。誰でもいい。話がしたい。

 店主に詰め寄って、オレがいた世界の言葉を話せる人がいないか尋ねたかった。しかし、この状況で、いや、この状況だからこそか。激しい目眩に襲われる。立っていることもできないほど世界がぐらついたような酷い感覚だった。

 崩れ落ちる。気持ち悪ささえ覚えていた。しかし、倒れている場合ではない。安心したい。その思いがオレの身体を動かした。

 気力で立ち上がり、店主を見た時だった。


「3yq、びゅks@bw@うぃえ+qyq@9! cえzいfz9え*@ythx94t@3>ZwどうえktZ!?」

 なんの前触れもなかった。

 突然、店内は異様な空気に包まれる。

 何かが顔の真横を高速で移動していった。

 瞳で追って確認する。

 それは壁に刺さって、ビィーンっと振動していた。


――矢だ。


 店主の方を向き直る。彼の手には握られたT字型のボーガン。矢はそこから発射されていた。オレを狙って。

 わからない。何故、店主がオレに向けて武器を構えているのか。おかしな真似をしたつもりはないし、変なことを言った記憶もない。それなのに店主はオレを睨みつけてきていた。それだけで人が殺せそうなほどの形相で。怒っていた。何に対してなのかは知り得ないが、明らかに怒っていた。

 レジのカウンターの下から矢が取り出される。弦がぎちぎちと張られ、装填された矢の先がギラリと光った。

 また、狙われている。両手を上げて敵対する意思がないことを示そうとするが、店主の指は引き金へ伸びていく。やめてくれる気なんてまるで感じられない。このままじゃ、殺される……!

「う、うわぁあああああああああっ!」

 オレは一心不乱に走り出す。転がるようにして店を出た。

 平静さを欠いていて、何度も転んだ。背中の方でカチャカチャと騒がしい。刀だ。蔦で縛っていなければ鞘から抜け出ていたことだろう。


 周りの人々に助けを求める。アイテム屋の店主に殺されそうだと訴えた。しかし、ここにいる全員の反応が鈍かった。パニックになってもおかしくない筈なのに誰一人として取り乱さない。落ち着き払っていた。やはり、言葉なのか。これだけ危機迫った表情をしていても言葉が通じなければわかってもらえないのか。

 もう一度、彼らの心に訴えかけようとした時、異変に気づく。

「――ななっ、な、なんで、みんな……っ! うわぁああああっ、く、くるなぁあああああああああっ!」

 怯える。足が竦んだ。恐怖に息が詰まる。胸が苦しい。どうしてその顔を向けられなければならないのか。眉間に寄った皺、尖った口、浮き上がった青筋。怒りの顔。一人ではない。誰も彼もがオレのことを敵視していた。

 がさがさがさ……。

 服や鞄の中から物騒なものを取り出す彼ら。剣や刀、槍や弓、槌や棍棒、斧や鎌、エトセトラ。全員が全員、手に凶器を所持していた。

 何が原因で彼らが急変してしまったのか。考えたいのに猶予は与えられなかった。迫りくる民衆。オレは必死になって生に執着した。生き延びる術を模索した。首をあちこちに向かわせる。そうすると、狭い路地が目に入った。


 走った。走った。走った。走った。兎に角走った。追いつかれないように。

 隘路に入って物陰に姿を隠す。ばたばたばたばた。騒々しい足音が耳にこびりつく。残響となって消えてくれない。落ち着けない。バクバクバクバク。心臓が早鐘を打つ。息を殺して身体を縮める。注意しているのに、この胸の音が漏れ聞こえてしまうのではないかと気が気でなかった。

 視界がぶれる。口の中が乾く。居場所がばれたくなくて微動だにできない。長時間、同じ体勢だったのが祟った。足が痺れてプルプル揺れ始める。不味い――


 ゴトンッ


 隠れていた樽のようなものに体重が掛かる。音が出てしまった。心臓が口から飛び出そうなほど暴れ回る。万事休す。今の音を彼らに聞かれてしまったら、足の感覚がなくなっている今の状況で助かるなんて不可能だ。

 思考が停止する。身体も音を発したその状態のまま固まっていた。

 終わった。オレは彼らに見つかって殺されるに違いない。あとは時間の問題だ。すぐさまやられるか、散々、なぶられた末にとどめを刺されるか。そのどちらかになるものだとばかり思っていた。しかし、音が消えてなくなっても、恐怖で忘れていた麻痺の感覚が戻ってきても、彼らがここへやって来ることはなかった。

 恐る恐る陰から顔を出してみる。その位置から見える通りを覗き見た。まばらに往来する人たち。その人たちだが、先ほど遭遇した人たちとは様子が異なっていた。武器を手にしていない。顔つきも穏やかで全然血眼になってはいなかった。オレを見つけ出して排除しようといった感じは見受けられない。むしろ、探そうとすらしていない気さえした。

 この人たちにならわかってもらえるかもしれない。そう判断した。けれど、彼らに頼みに行こうとして、踏みとどまる。思い出したのだ。オレが店を出て、広場で遭遇した「彼ら」も、最初は和やかな雰囲気だったことを。言葉を発したオレを見るなり態度を豹変させていたことを。この人たちも同じである可能性は充分考えられる。オレを見つけた途端、襲いかかってこられては堪らない。だから、慎重に見極める必要があった。

 様子を窺っていると、彼らの元に別の人物が大童で馳せつけてくる。その人物が身振り手振りもまじえて何かを伝えていた。やはり機械みたいな言葉でオレにはさっぱりだったが、話を聞いた彼らは血相を変えて教えに来た人物とともに走っていったのである。オレのことを話していたように受け取れた。これは誰にも見つからないようにして脱け出すしかなさそうだ。


 オレはチャンスを待つ。できるだけ人が少なくなるタイミングを待っていた。結構、時間がかかって小腹が空いてくる。こういう時のために食料をストックしておいたのだ。オレは腹拵えをすることにする。ポケットに手を突っ込んだ折のこと。


「――え? ない……! ない……っ! ない! 実がないっ! なんで――ッ」


 はっとして口を覆う。今は身を隠している状況だ。騒いだら見つかってしまう。そーっとばれていないことを確認すると、オレはポケットの中をまさぐった。

 なくなっていた。苦労して採った実が。引っ繰り返しても出てこない。

 あの時だ。店主から逃げる際に派手に転倒したあの時、ポケットから飛び出してしまったのだ。そうに違いない。ポケットの大きさが徒となった。いっぱい入る分、口もそれなりに大きく開くタイプだった。その上、ボタンやファスナーといった類の留具はついていなかったのである。

 取りに行きたいが、あそこは人が多く行き交う場所。見つからないで回収に向かうなんて困難だった。

「……最悪だ……。食料を落とすなんて……っ!」

 惜しいけれど、実を取りに戻るのは諦めた。誰にも見つからずにそこまで行けたとしても、あれからかなり時間が経っている。もう他の人に取られているかもしれないし、大勢の人がオレを追うために動き回っていたから踏み潰されているかもしれない。無事に残っている保証がない以上、リスクが高すぎる。命が懸かっているこの状況で骨折り損の草臥れ儲けになり得ることは避けた方がいい。


 日が高く上った頃、オレは街からの脱出を試みた。最善を尽くすなら真夜中か明け方を選択するべきだが、そこまで待っていられない。食料を持っていないオレは可能な限り早くここから出ることを強いられていたのである。幸いにも天候はオレの味方だった。暑くはないけれど、日差しが痛く照りつけており、外に出ている人は全くと言っていいほどいなくなっていた。

 これなら実を取り戻すことも可能なのではないか。オレの足はアイテム屋の前へ向いていった。

「……ない……。やっぱダメだったか……」

 しかし、店の前に実は残っていなかった。果汁が飛び散っていないところを見ると、誰かに先を越されて持っていかれてしまったのだろう。悔しくて地面を睨む。

 なかなか踏ん切りがつかなかったが、店内からガタンという物音がして、オレは咄嗟にその場を離れた。


 街の中心部は難なくすり抜けられたわけだけれど、ここからが一番の難所だ。オレは門に差しかかった。天候のお蔭でここまで順調に来れたものの、日差しが痛い程度で門番がいなくなっては役目が務まらない。入ってくる際に番人を二人、見かけているが、上手く通り抜けられるだろうかと不安が押し寄せてくる。

 あれだけ塀の中が広く見えたのだから他に道がないとは考えにくい。けれど、どこにあるかわからない別の出口を探している時間はないのだ。日が陰れば多くの人が外に出てきてしまうのは必然的。それにすぐ見つけられたとしても、敷地が広いならその分警備もしっかりしている筈である。違う門にも番人が配置されていて然るべきだろう。天候の援護がなくなってしまう前に目の前の門を突っ切るしかない。門は門でも鬼門でないことを切に願った。

 門番の隙をついて、そーっと脱け出そうとした。しかし、こういう場面では逆に堂々としている方がよかったりする。オレの行動が怪しいと思われたのだろう。

「あ)Zせえw@rt? cbkvs」

 やばい。止められた。何を言われたのか解読できないが、それをしている場合でもない。止められたのだ。こんな時、採るべき選択は一つ。

「ひ、ひひひひひ――、


――人違いですーーっ!」


 オレは門番の脇を抜けて、城下町を脱した。突然、走り出したオレに門番たちの反応は遅れたようだった。

 何度も後方に目を配る。追手は来ていないようだったけれど、それでも安心できなくて、塀が見えなくなるまで城の方を気にしていた。


 ここまで来たら大丈夫だろう。城下町から出られたはいいが、悩みは尽きない。歩きながら考える。これからどうしたものか。食料もない。お金もない。力もなければこの世界の知識もない。何よりも誰とも話せないというのが一番つらかった。街の人の会話も門番の言葉もわからなかったのだ。誰にもオレの言葉が通じないというのがいよいよ現実味を帯びてきた。

「外国に一人で放り出されたような気分だ……。いや、それよりも酷いんじゃないか、これ?」

 外国なら、運がよければ話の通じる人と出会えるかもしれない。お金が用意できれば自分の国に帰ることだって叶うかもしれない。けれど、ここではそれを望めないのだ。どうやったって心が通じ合えないのだし、どうすれば帰れるのかもわからない。

「……はぁ、帰りたい……」

 立ち止まってしゃがみ込む。思わず、愚痴が零れた。自らこの世界に連れてこられる原因をつくったのにおかしな話だ。オレはホームシックになっていた。

 そもそも、帰る方法などないのではないか。オレは地面に落書きをし始める。何気なく不貞腐れ気味に「元いた世界」から「今の世界」へ矢印を引いた、その一瞬。何かが頭の中に下りてきた。閃いたのだ。ある可能性があることに。

「オレがこの世界に来てるってことは――」


――他にもオレのいた世界から来ている人がいるんじゃないか?――


 あり得る。オレだけが送られてきたと考える方が不自然だ。世界には多くの人が存在しているのだから。

 希望はまだ残っている。捨てたものではない。オレと同じようにこの世界へ送られてきた人を探すのだ。独りではない、そう思えたら勇気が湧いてきた。絶対に見つけ出してやる。オレはそう心に決め、立ち上がった。


 城下町にオレと同じ境遇の人がいるかもしれない。どのくらいの人数がこっちにやってきているかもわからないので戻って探すのが妥当な判断なのだろうが、あの街に再び足を踏み入れたくはなかった。先ほど体験した恐怖が向かうことを拒ませるのだ。元いた世界から数えるほどしかこっちの世界に来ていなかった場合、もし、あの街にいたのなら大きな痛手となるのは承知している。それでも、戻ったらあの人たちがまた襲いかかってくるかもしれないという懸念があり、どうしても足が進まなかった。

 別の街へ赴いて、オレと同じ異世界人の捜索をすることにした。あの城下町に目的の人物はおらず、違う街にオレの求めている人物がいるのだと信じて。オレは結局、城下町へ戻りたくなくて逃げたのだった。

 城下町が道の終着点だった。通路は分かれておらず、他に道はない。ここに来るまで一本道だったが、オレは道を見つけた時、右を選んでいた。あの時、左にも道が伸びていたことを思い出す。だから、オレはドラゴンに注意を払いながら来た道を帰っていくのであった。

 地図がなく、文字も言葉も理解できないオレは場所を尋ねることも叶わない。そのため、左の方向へ進んでいった先に街があると信じるしかなかった、オレにとってこの道だけが手掛かりであり、それを辿っていくことが唯一の希望となり得るものだった。それ以外に他の街へ行き着けそうな手段はなかったのである。

 一度目にした景色を反対に見て進んでいく。百八十度方角が変わっているため新鮮さはあったけれど、何分昨日から歩きっぱなしなのでもうくたくただ。加えて、門番から逃れる際に激走したものだから体力の消耗が著しい。道に沿っていることを確認するだけがやっとだった。風景を楽しめる状態ではなかったのである。こうなってくると分かれ道を選択した時に何故右を選んだのかと悔やまれる。左へ行っていれば体力を無駄に削ることもなかった。街の人たちに襲われる目にも遭わずに済んだというのに。

 休憩を挟む回数が増えてくる。武器は重いし、足は痛いし、喉は乾いたしの三重苦で進み具合は頗る悪い。ちょっと歩いては休んで、休んではちょっと歩くことを繰り返していた。

 到頭限界がきて、オレは刀を下ろした。地面に寝転がる。

「……はぁ、ああー、もう、無理だぁー……。……み、水ぅうう……っ」

 武器の重さや足の痛さは我慢すればいい。だが、水ばかりはそうもいかない。本当にあの実を失ったのは痛恨の極みだ。何も入っていないポケットが恨めしくてキッと睨む。そんなことをしても事態が改善されるわけではない。わかっている。わかっているけれど、ポケットに当たってしまう。そんな自分が惨めで空しくて泣きたくなった。

 瞼が重くなってくる。進まなければならないのに、こんなところで倒れてなんていられないのに。身体は全てを放棄し始めた。感覚が、聴覚が、視覚が、全てがはっきりしなくなっていく。


……

…………

………………


 ぴちゃっ


 何かが落ちる音。頬に触れる感触。湿った大気と大地の匂い。一滴、また一滴。ぱらぱら落ちてくる。

 意識が覚醒する。開けた視界に飛び込んできたのは鼠色の空。街にいた頃の快晴が嘘のように、そこから小さな水滴が形成され、大地に降り注いでいる。雨だ。

 オレはどこか雨宿りのできる場所へ避難しようとする。ずぶ濡れになってこんなところで風邪でも引きようものならバッドエンドへまっしぐらだ。ゲームならゲームオーバーになるだけ。コンティニューをすれば済む話だが、生憎これは現実でやり直しなんて利かない。いや、異世界に来たのだから、もしかしたらオレもゲームでいうコンティニューができる能力が備わっているのかもしれない。試そうと思った。けれど、もし、普通に死んでしまってコンティニューできなかった時のことを考えると怖くなる。それに痛覚はなくなっていないのだ。だから、実践なんてできなかった。

「本降りになる前に移動じなぎゃな……」

 カラッカラのしゃがれた声。声を発して思い出した。喉がいがいがするほど口の中に水分がなかったことを。

 気乗りはしないが、背に腹は代えられない。オレは舌を出して雨粒を受け止めようと試みる。雨は大抵の場合、空気中の塵や埃を含んでいるため飲むことはお勧めできないのだけれど、どうしても喉が渇いて、渇いて仕方がなかったのだ。

「んべー……。だ、ダメだ、ごんなんじゃ全然潤わない……」

 舌で集められるのは微々たる量。こんなものでは危機を回避するなんてできやしない。オレは探した。喉を潤すことのできる方法を必死で探した。

 ちょうどいいものが傍にあった。それは今まで背負ってきていたもの。鞘として使っていた巨大なカニモンスターの脚の殻だ。つけ根の方に穴を開けてしまっているが、これなら水を溜めることができる。こんなところで役に立つなんて、人生、何が起こるかわからないものだ。あの時、これを作った自分を称賛してやりたい。

 ここまで来たら何が何でも水を飲んでやるという意志が強くなってくる。辺りを隈なく見て回ったオレは独特な枯れ木を発見した。枝が雨樋のようになっていて、幹に雨水を集めている。願ってもない構造をした木だった。なんてラッキーなのだろう。やはり天候はオレの味方のようだ。オレはその木に鞘を仕掛け、水がいっぱいになるのを近くにあった木の下で待つことにした。

 暫くして雨が止む。仕掛けた鞘を確かめに行くと上手くいっていた。計画通りに水が得られたのである。それを目にした瞬間、オレの口は吸い寄せられるように脚の断面へ向かっていった。我慢できずに水を求める。本当なら煮沸をしたいところだが、もう抑えきれなかった。

 気づいた時には飲み干していた。名残惜しく見つめるは空っぽになった鞘。一メートルほどの刀を収められる大きさの器だったが、小さかったようだ。物足りない。とはいえ、とりあえずは急場を凌ぐことができて安堵する。風邪を引くのと同じくらい、今のオレにとって脱水症状は大敵なのだから。あわよくば今後のために水をストックすることができたなら尚のことよかったのだが、贅沢は言っていられないだろう。

 無事に喉を潤したオレは再び街を目指して歩き出した。


「……あれ? 随分雰囲気が変わったな……」

 歩くのを再開してからほどなくして、見える木々に枯れているものが多くなってきていることに思い至る。身の危険に晒されて、飲み水を探すことに夢中になっていたので今まで気づかなかったけれど、オレは見たことのない場所に来ていた。初めて見る風景。ということは、いつの間にかあの時に選ばなかった左の道に入っていたということだ。これまでは選択のミスを挽回するためだけの労力だったが、やっと進展した。この世界に来てからというもの、ずっと停滞していたものだから前へ進めるかもしれないということが嬉しかった。ただ、この景色にはどうにも不気味さを覚える。寂れていて、何とも怪しげな空気がオレの周りに漂っていた。

 カサ、カサ、カサ……。

 踏みつけると粉々になる草。

 バキッ。

 腕で押すと簡単に折れる枝。

 どこにも栄養が行き届いていない。進むにつれて、まるで死んでしまっているかのような灰色の世界へ成り果てていく道を只管進んでいく。

 土壌はカピカピに痩せこけ、雑草ですら元気がなくなる。風も止み、空気も澱んできた。前にいた世界の荒野や砂漠といった風景が思い返される。それくらい死に向かっていっている土地になっていった。専門的な知識がないオレでも見てわかるほど酷い環境だった。この先に街なんてあるのかと不安になるくらい。

 街がないかもしれないという危惧を抱いても、道は続いている。他に頼れるものがないのだから、これに沿って行くしかない。なかったらなかったまでだと半ば自棄になっていた。

 景色は益々酷くなっていく。枯れた木すら姿を消しつつあった。もう、街はないと決め打って違う場所を探索した方がいいのではないかと考え始めた頃、唐突にそれは現れた。いくつも交差している木の棒。自然では絶対にそういう形にならない、人工的に造られたものだ。

「さ、柵? ……っ! 家もある! まさか本当にこんなところに人が住んでるなんて……」

 街、というよりは集落と言った方が適切な規模だが、そこには確かに人が住んでいる形跡があった。期待と不安を胸にオレはその集落へと急行していった。


「あ、あああああ、あの、す、すすす、すみませーん……!」

 ヒヨッている場合ではないのだ。コミュ障を発動させていたら事態の改善など望めない。もしかしたら言葉が通じるかもしれないし、オレと同じ世界から来た人がいるかもしれないから。


「t@えbhd@yk6g’hxyて? /r@おで<。5Zs、うえ4&えZwえ>kつ?」


「――ッ!」

 ところが、待ち受けていたのは城下町の時と同じ、高い、高い壁だった。それはもう高すぎて雲を突っ切るようなほどの。よじ登ることもできなければ、分厚くて頑丈で壊すこともできない壁。心が打ち砕かれそうになる。勇気を出して殻を破ろうとしたのに、この結果では逆効果になってしまう。

 どうすることが正解なのかわからずに戸惑って、頭の中が白く、白く染まっていく。もう、何も考えつかなかった。目の前が真っ暗になる。

 そんな時、耳が捉えた。


「アナータ、ベツセカイカラキタデースカー?」


 理解できる言葉。幻聴かと思った。意味のわかる言葉なんてこのところ自分の声しか聴いていない。だから、誰かと話したいという願望が強くなりすぎて、到頭耳が馬鹿になってしまったのかと思ったのだ。けれど、それは夢でも幻でもなくて――。

「ンー? ワターシノイッテルコト、ワカリマースカー?」

 また、理解できる言葉。慌てて俯いていた顔を上げた。

 そこには白いローブを着た分厚い本を持つ男。背は高く、音楽バンドでも組んでいそうなルックス。シャープな眉毛、長い睫毛、切れ長の目、筋の通った高い鼻、薄いが色気のある唇、パンクっぽい奇抜な色の長い髪。何だかチャラそう。加えてイケメンという、どっちかといえば苦手な部類の人種だ。そんな彼が話しかけてきていた。

「ンンー? チガウデースカー? ンー、ドーシマショ? ワターシガオカシナコトイッテルナリマースネ……。ニゲマショーカー?」

 不味い! 反応ができなかった所為で折角会えた話の通じる人が遠くへ行ってしまう。もう二度とないかもしれないチャンスを逃してしまう。それは駄目だ。オレは声を振り絞った。

「い、いえ……! わ、わかります! ちょ、ちょっと驚いてただけで! え、えっと、あ、あなたも異世界から来たんですか……!?」

 去ろうとしていたその人に向けて何か話しかけなければと懸命に言葉を紡いだ。それは相手に届き、立ち止まらせることに成功する。振り向いた彼はとてもにこやかだった。

「オー、ヤッパリデースカー! ワターシモベツセカイカラキマーシタ! 『ンオヒン』トイウクニデース! アナータハドコカラキタデースカー?」

 『ンオヒン』? 聞いたことのない国名だった。世界には約二百の国が存在しており、オレの知らない国があっても不思議ではない。そもそも、オレは世界の国についてそんなに詳しい方ではないのだから。とはいえ、世界広しと言えど、「ン」から始まる国なんてあるのだろうか。彼の国での呼び方かもしれないので一概に否定はできないが、違和感は覚えた。

「え、えっと、お、オレは日本から……」

「『ニホン』? ソレハクニノナマエデースカー? オカシナナマエデースネー、アハハハハ!」

 笑われてしまった。こちらからしてみれば彼の国の名前の方がおかしな名前なのだが。

 それにしても彼が日本を知らなかったことに驚かされる。話しているのは紛れもない日本語なのだ。冗談だろうとツッコミを入れたくなる。日本語を知っているのに日本は知らないというのは極めて不可思議だった。

「い、いや、日本語喋ってるじゃないですか……。お、お上手ですけど、ど、どこで覚えたんですか?」

 オレは一番の疑問を投げかける。はっきりいって世界から見れば日本語はまだまだメジャーとはいえない言葉だ。覚えたのだから興味があったに違いない。調べたにしても人から教えてもらったにしても、その言葉が使われている主な国の名前くらい聞いたことがある筈だ。だというのに、彼はそうではなかった。

 この問いに対して返ってきた答えにオレは絶句することになる。


「ノンノン! コレ、チガイマース! 『tセンオc《トゥセンオック》』! マホウデース!」


――魔法。彼はそう言った。

 『tセンオc』。話したい人と話すことができるようになる魔法らしい。使用者の口から発せられる言葉が対象の人物に理解できる言語へ、使用者の耳に入った対象の人物の使用する言語が理解できる言葉に翻訳される効果があるそうだ。

 何とも羨ましい。魔法が使えることもそうだが、誰とでも話せるというのが今のオレにとって一番望むものであった。それがあれば孤独を味わうこともなく、城下町であんなに苦労することもなかったのだ。

「う、羨ましい……っ! そ、そうだ! お、オレにもその魔法、教えてくれませんか!? お、お願いしますっ!」

「ハハハハハッ! イイデショー! ワターシガツクッタ『tセンオc』、アナータニオシエテアゲマース!」

 スルーできない台詞が混じっていた。私がつくった――? 度肝を抜かされる。魔法を使えるだけでなく、つくることまでできてしまうだなんて、もしかしてオレは今、物凄い人物と話しているのではないか。そんな人が協力してくれるとはこの上なく心強い。しみじみ思う。この集落に来るのを空気が怪しくなってきた時にやめなくてよかったと。それと同時に、オレは胸に刺さる痛みも覚えていた。彼は小説やマンガの主人公のような立ち位置になれている。それに比べてオレは力もなく、魔法も使えない。どう考えてもモブのポジション。同じ異世界から来た人間の筈なのにどうしてこうも差があるのだろう。惨めに感じて悲しくなってくる。

「ハハハハハッ! ワターシタチハベツセカイカラコノセカイニキマーシタ! ココデアッタノモ、ナニカノエンデース! ナカヨクシマショー! ワターシノナマエハ『ケーマ=ラタイラターハ・モヒーノ』デース!」

 ケーマと名乗った男性。笑顔で手を差し伸べてくる。苦手な風貌をしていたため勝手に取っつきにくそうなイメージを持っていたのだが、気さくな感じで悪い人ではないようだ。

 オレは出された手を握り、自己紹介をする。

「こ、小守風太郎です」

「オー、ワカリマーシター! 『プータロー』デースネー!」

 嫌な間違え方をされてしまった。元いた世界でプー太郎というのは無職でぷらぷらしている人のことを指す言葉だ。オレに使うのは九割方当たっているのだけれど、なりたくてなったわけではないし、あまり言ってほしい言葉でもない。

「えっ、い、いや! あ、あの、『ぷう』じゃなくて『ふう』です! 風太郎――」

「アハハハハッ! ヨロシクデース、『プータロー』!」

 訂正しようとしたのだが、ケーマは聞いちゃいなかった。やっぱりこの人のこと、苦手かもしれない。


 色々と話したいこともあったが、街からこの村へ移動するのに時間がかかっていた。辺りは暗くなり、人の顔も認識しづらくなっていたのだ。薄気味悪い荒野のど真ん中で野宿はしたくなかったため、只管人が住んでいるところに着くことだけを考えて歩き続けてきたけれど、今考えれば自分でもよくこんな夕暮れに通ってこれたものだなと思う。下手をすればモンスターの恰好の餌食になっていてもおかしくなかったのだから。

「キョウハモウオソイデース。べじ^74&94えd\。オオー、ヨカッタデースネー! ソンチョウガトメテクレルソウデース! マホウハアシタニシマショー」

 もう夜になる。オレの方はこれから魔法の特訓をしてもよかったのだが、ずっと歩きっぱなしで疲れているのをケーマに見抜かれてしまった。休むことを余儀なくされる。

 ケーマが集落の人たちに話をつけてくれたお蔭で、オレは村長の家に泊めてもらえることになった。とはいえ、この村は城下町と違って貧しいところのようで、急な客人をもてなすことはできないらしい。まず、電気が通っておらず、光が貴重なものとされている。そして、村には畑があるが、それでも村人が生きていくだけの分を賄うことはできず、狩猟をしてやっと食い繋いでいるのだそうだ。斯く斯く云々、そういう理由でオレはご飯にありつけなかったわけだけれど、それでも水分は取らせてもらえたし、風呂もトイレも使わせてもらえた。元いた世界のものしか経験したことのないオレからしてみれば相当不便ではあったものの、外でするよりは遥かにいい。

 オレは用意された部屋にいった。雨風を凌げる屋根や壁、底冷えのしない床。そして布団。今夜はゆっくり眠れそうだ。

 布団の中は極楽だった。やはり家って素晴らしいと改めて実感する。こんなところで夜を過ごせるなんて夢みたいだ。元いた世界では当たり前だった家の中での生活。そのありがたみをオレは噛み締めるのだった。

「……明日には魔法を教えてもらえる。そしたらもう城下町であったようなことにはならないよな……?」

 ケーマは明日になったら翻訳の魔法、『tセンオc』を教えてくれると言っていた。その魔法を早く覚えたい。習得できればもう、わけもわからずに追われることもなくなるのだから。

「……ふふふっ、異世界に来たんだから、どうせなら英雄になりたいよな。なれたらエルフのお姉さんやケモ耳少女と自然に仲良くなれるだろうし……! ふ、ふふふふふ……」

 オレは力もなく、言葉もわからないという最弱な転生をした。何もできないという事実を突きつけられた際は打ちひしがれた。けれど、オレはケーマに会った。初めは能力の差を僻んだが、よくよく思い直してみるとオレは相当ついていたのだ。偶々話せた人が魔法をつくれて、翻訳の魔法を編み出し、それを授けてくれるなんて幸運であるという以外に何だというのか。迂闊に早計な真似をしなくてよかった。ここからだ。オレは今、漸くスタートラインに立てた。ここからオレの新しい人生が始まるのだ。

 夢が膨らむ。

「……早く明日にならないかな……」

 気分はさながら遠足前の子どもだ。

「……早く魔法を覚えたい……」

 そして異世界に来た意義を見出したい。

「……凄いことをして……」

 前の世界では無理だったけれど、転生した今の世界ならなれる。


――誰かに必要とされる人間に――


 そう強く、強く決意しながら、オレは久し振りの温かさと安心感に包まれて深い眠りへと誘われていった。


……

…………

………………


 ここはどこだ?

 確か、オレは村長の家に泊めさせてもらっていた筈だ。

 その筈なのに、今、オレの目の前にあるのはおにぎりや惣菜パン、弁当などが入れられて山積みにされている籠。

 困惑し、辟易するオレを余所に、あの苦手な人物の声が響き渡る。

「遅いっ!」

 びくっとして声がした方を向くと、そこにいたのは正社員の先輩。

 理解が追いつかない。

 オレにとって嫌な過去だから、この場所に寄ることは絶対にないのに。

 それ以前に、オレはこの世界にはいない筈で――

「いつまでやってんだ! もっと早くやれ! そんなんじゃ日が暮れるぞっ!」

 怒られた。

 オレが。

 意味がわからない。

 オレはもうバイトを辞めているんだ。

「おら、ボケッとしてんじゃねぇ! 動けっ!」

 トラウマが蒸し返される。

 怖い。

 従わなくてもいいのに身体が突き動かされる。

 呆れられたくなくて。

「丁寧なのはいいが、時間をかけすぎだ! 時計を見ろ、時計をっ!」

 速くしなくちゃ……!

 叱られる……!

 怖い……!

 怖い……っ!

「違う! ミスしてんじゃねぇ! もっと丁寧にできないのか、お前はっ!」

 間違えちゃダメだ……!

 どやされる……!

 怖い……!

 怖い……っ!

「だから遅いんだよ! 何度も言わせんな! 速く、丁寧にやれよっ!」

 怖い……!

 怖い、怖い、怖い、怖い――ッ!


 そして、言われる。

 あの蔑んでいるように見える顔で――


「はぁ、これじゃあ俺がやった方がいいわ……」


………………

…………

……


「あぐぁああああああっ!」

 飛び跳ねるように起きる。息が乱れる。右手で頭を押さえた。左手は布団を握り締めていた。

 廊下と部屋を隔てている障子のような戸から薄らと光が差している。今のは夢だったようだ。嫌なものを見た。転生してくる前の記憶を再現されるなんて気分がいいものではない。それは、全く頼りにされなかった世界での記憶なのだから。

 呼吸を整え、首を振って蘇ってきた言葉を外へ追い出そうとする。しかし、忘れようとすればするほど頭の中に居座り続ける。付き纏われたくなくて、更に激しく首を振った。そんなことをしているうちに戸が開けられる。

「オー! ハヤオキデースネー! ソレデハ、トックンニイキマショーカー、『プータロー』!」

 入ってきたのはケーマ。そうだ、今日から特訓が始まるのだ。彼のお蔭で気持ちを切り替えられる。悪夢から脱け出せた。

「よ、よろしくお願いします、け、ケーマさん……!」


 魔法の特訓はこの集落では行わないらしい。村を出て十分ほどのところにある山を目指すことになった。翻訳の魔法を練習するのなら村に被害が及ぶわけでもないし、わざわざ移動する必要はないように思うのだが。ひょっとしたら、それ以外の魔法も教えてくれるつもりなのだろうか。そういう理由なら移動するのも頷ける。オレにとっては願ってもないことなのでウキウキ気分で山へ向かっていった。

 ここら一帯は枯れた土地だったが、山だけには緑が見られた。魔法の特訓はこの山の頂上で行うのだという。まあまあな高さがある。引き籠もりだったオレには少しきつそうな山だった。

 登っている最中、オレはケーマに色々と質問をしていた。この世界に来て日の浅いオレはこの世界がどういうところなのか知りたかったのだ。

「け、ケーマさんはこの世界に来て、ど、どれくらい経つんですか?」

「ンンー。ニネンクライデース!」

 二年。日数にして七三〇日。時間にして一七五二〇時間。その期間、ケーマはこの世界にいた。彼にはその分のアドバンテージがあった。ということは、オレも同じくらいこの世界で過ごせば彼みたく魔法をつくれるような凄い存在になれるということか。やはり来たばかりの人間が活躍できるわけではないらしい。オレは自分が強くなれるという安心材料がほしくて、ケーマにも弱い時期があったのか尋ねようとした。確認したいのにケーマの口は止まらなかった。

「コノセカイ、ゲームミタイニマオウガイマース! ソノマオウグンノカンブ、ワターシノマホウデヤッツケタデース! ワターシ、アルクニノオウサマニミトメラレタデース! オヒメサマ、モライマーシタ!」

「お、王様に認められたんですか!? し、しかもお姫様をもらったって……、す、すごい……!」

「タイシタコトナイデースヨー! ベツセカイカラキタヒト、ミンナトクベツデース! スゴイチカラモッテマース! アナータモソウデショー? ハハハハハッ!」

「えっ!? え、ええ、まあ……」

 質問はしていないが、答えは得られてしまった。固まる。求めていたものとは違っていたから。

 期間なんて関係なかった。ケーマによると異世界から来た人は誰しも特別な力を持っているとのことだが、オレにはそれがない。何もないのだ。そんなこと、口が裂けても言えなかった。この世界でも必要とされなくなるような、そんな気がして。

 彼は転生した時点で特別な力を持っていたようだ。翻訳の魔法がつくれたことから、それは魔法の作製能力だと考えられる。喉から手が出るほど羨ましい。魔法がつくれるということは魔王やその部下たちに有効な魔法を創作することも可能なのではないか。それを使えば、英雄になることも容易い筈。現に、ケーマは王様に認められてお姫様の婚約者になっている。オレとはえらい違いだ。

「……ん? 『みんな』? も、もしかして、オレたち以外にもいるんですか!? お、オレたちと同じ境遇の人が……っ!?」

 ケーマは確かに口にしていた。それも『みんな』と。それはオレやケーマの他にも異世界から渡ってきた人が複数いるということを意味していた。もし、そうなら、会ってみたい。

「あ、会ってみたいな……。お、同じ異世界出身の人なら打ち解けられるかもしれないし……! い、一緒に冒険とかできたら、楽しいんだろうなぁ……」

「……スグニアエマースヨ? アナータナラキット、ナカヨクナレマース!」

 発言からして他に異世界から来た人たちがいるのは間違いない。

 すぐに会えるということは誰か、もしくは数人がこの山にいるということなのだろうか。一緒に魔法の特訓をするのかもしれない。それが、仲良くなれるという言葉が指している意味なのではないか。そう解釈すると最高にわくわくしてきた。この世界で初めて、友だちというものができそうだったから。


 それはそれとして、オレには少し気になっていることがあった。あの集落に住んでいる人たちが数人、ついてきていたのである。狩猟をしていると聞いていたので、その目的地がオレたちの特訓をする場所と近いだけなのかと最初は思っていた。けれど、村を出てからずっとだ。村長と若い男性が二人、ずっとオレたちの後を追ってきていたのだ。彼らは一緒に行動するわけでもなく、少し離れた位置でオレらの動向を窺っていた。彼らの目的は何なのか。一緒に魔法を覚えようとしているという感じではない。不穏な気配がして、オレはケーマの注意を喚起しようとした。

「……あ、あの……っ! む、村の人たちがついてきてるんですけど……っ。そ、それも、ちょっと様子がお、おかしいっていうか……っ!」

「ンー? アー、カレラハ、カリヲシニキテルデース。キノウ、イイマーシタヨー? ワスレタデースカー? ソレヨリ、ソロソロチョウジョウデース!」

 ケーマは全く気に留めようとしなかった。オレの気にしすぎだったのだろうか。魔王軍の幹部をやっつけている彼が大丈夫だと判断したのなら、そっちを信じるべきだ。どうして村人たちがここにいるのかについては深く考えないことにする。


 斜面が途切れる。その先に空が見えた。頂上だ。あともうひと踏ん張りで頂に辿り着く。

「つ、着いたー……。ええっと、異世界から来た人って……あ、あれ?」

 山を登りきったオレは早速同胞の姿を探した。山頂はあまり広くはない。元いた世界の八畳一間くらいだったのだが、一人も見つけられなかった。

「え、えーっと……。ケーマさん、異世界から来た人たちがいるんじゃ……?」

「……。マダ、キテナイミタイデースネー。カノジョタチハ、ワターシタチトハベツノミチカラキマース。エット、アー、アッチカラデースネ。チョット、ミテキテクレマセーンカー?」

 ここにいる予定だったけれど、まだ来ていないということらしい。ケーマに頼まれて、オレは指を差された方へ向かっていった。彼女たち、ということは女の人が多いのか、或いはみんな女の子なのか。実質的に女性と話したことなんてここ三年間なかったものだから仲良くできるか心配だ、などと考えながら。


 グラ……っ!


 足を踏み外しそうになる。崩れた足場が真っ逆様に落下していった。高い。咄嗟に後退したため最悪な事態は免れたが、冷汗三斗の思いをした。言われて来てみた場所は崖だったのだ。しかも、岩肌が剥き出しになった断崖絶壁と呼ばれる類の。

「――ちょっ、けけけけけけ、ケーマさん! ほ、本当にこっちから来るんですか!? 崖ですよ、こっち! か、彼女たちって言ってましたけど、誰だって流石にこれは――」


「――zg6sp!」


「――ッ!?」

 背後から力が加えられる。

 押されていた。

 あの集落の人たちに。

「や、やめ……っ! 落ちたらどうすんだよ……ッ!」

 抵抗する。

 けれど、彼らには伝わらない。

 力の差も歴然で。

「け、ケーマさん! た、助けてください! ケーマさ――!?」

 彼ならこの人たちを説得できる。

 オレは援護を求めた。

 それなのにケーマは――


――笑っていた。


 口角を吊り上げていた。突き落とされそうになっているオレを見て。理解できなかった。こんな崖、落とされたら死んでしまうというのに。

「スミマセーン。ベツセカイカラキタヒト、イキテイテモラッテハコマリマース。トクベツ、ワターシダケデイイ。ホカニエイユウハイラナイノデース。ダカラ、ハイジョサレテクダサーイ!」

 こいつは最初から知っていたのだ。彼女たちという存在が来ていないことも、彼女たちという存在がここへやって来ないことも。そして、今いるこの場所の先に道はなく、危険な崖になっているということも。全て、全てわかった上でやっていたのだ。

 辻褄があった。魔王軍の幹部を倒したのに、この三人の異様な視線を全く気にしていなかったのは取るに足らない存在だったからではない。こいつが村長たちを連れてきた張本人だから気にならなかったのだ。オレがついてきているけれど大丈夫かと尋ねた時、意識を別のことへ逸らそうとした。もし、ケーマが連れてきたのでなければ、オレよりも先に気づいていただろうし、捲くなり何なり対処をしていた筈だ。オレはこの違和感を見逃してしまっていた。

 何故、こんなことをするのか信じられなかった。いや、こんな状況になったことを受け容れられなかった。

「お、オレは特別なんかじゃないって……! なんの力もないし、言葉だってわからなかったんだから! それはあんただって知ってるだろ!? オレを殺しても意味はないんだよ! だから、お願い……助けて……っ!」

「……ソウヤッテ、エイユウニナルキデースネー? エイユウハワターシダケデース! ソシテ、エイユウノワターシガ、コノセカイノカワイイオヒメサマ、ミンナモラウデース!」

 駄目だ。聞き入れてもらえない。そんなことでオレは殺されるのか。全てのお姫様を娶りたいから、その邪魔になる英雄候補は力がつく前に潰しておこうっていう、そんな理由で。それだけのことで殺されなければならないのか。


 必死に抗った。

 しかし、三対一では勝ち目はない。

 追いやられる。

 足場がなくなる。

 身体が傾いていく。

 下は遠すぎて底が見えない。

 そんな奈落に落ちていく。

 落ちていく……。

 落ちていく…………。


「――ケーマ=ラタイラターハ・モヒーノォオオオオ――ッ!!」


 許せなかった。

 力の限りの怒号を発する。

 それが届いたかどうかは聳え立つ崖に遮られて、オレには知る由もなかった。


 このままだと確実に死ぬ。何とかしなければ。オレは考え得る策を講じた。コートに風を受けさせたり、絶壁に手を伸ばしたり。ところが、上手くいかない。風にあおられて絶壁にぶつかった半身は打撲。崖の岩を掴もうとした手は落下速度に堪えられなくて血塗れ。おまけに手首まで故障。散々な結果だ。

 考える。考える。考える。頭が痛くなるほど考える。それでも、妙案は浮かんでこない。こうしている間も着々と地面は近づいてくる。頭を振る。余計な思考は払い落としたかった。

 その時、音がした。金属と何か硬い物が当たる音。刀だ。オレは縛っていた蔦を解く。刀を手にし、そして――


――絶壁に突き刺した。


 重々しい衝撃が腕に響く。足も擦らせてスピードを殺そうとする。けれど、止まってはくれない。刺さりが甘いのか壁を斬るように滑り落ちていく。

 手は限界だった。足も摩擦で焼けるようだ。痛い。熱い。それでも抗った。昔のオレだったら諦めていただろう。けれど、今は、そうはいかない。あいつにぎゃふんと言わせるまで、それまでは死にたくなかった。

 止まれと必死に祈る。


 カンッ


 急に腕が軽くなる。

 壁から離れていた。

 弾かれたのだ。

 固い石に当たって。

 

「う、うわぁあああああああああああああっ!」


 無情にも地面まではまだ距離があった。

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