第二十五話

 呆然と彼女は俺を見つめた。涙を拭った彼女の袖は、しっとりと濡れて色が変わった。今にも何もない虚空に踏み出しそうだった足が、こちらに向いて、よろけながら動いている。また、彼女の目から涙が溢れた。

「どうして……? 死んだんじゃなかったの?」

「死んでたまるか」

 駆け寄って、地面に崩れ落ちた彼女の肩を抱きしめた。初めて触れた彼女の体は、今にも壊れてしまいそうな程に小さく感じられた。彼女の吐息が耳にかかって、流れる涙が首筋を濡らす。

「ねぇ、どうして?」

「あぁ、話したいことがたくさんあるんだ」

 俺は早口に話した。これまでの日々のこと、符浦栞が能力を無効化する力があること。だから世界が変わったことに気付けたということ。坂本杏を殺すために、俺が死んだことにされていたこと……全ては語り尽くせないけれど、その話はいずれゆっくりできるだろう。

「……もう、よく分かんないよ」

「それでいい。とにかく逃げよう。杏を殺しに、彼女が来るんだ」

 きっと彼女は殺しに来る。世界を救うためならば、殺しに慣れた秘密兵器が、足音立ててやって来る。自然と彼女を抱きしめる力が強くなる。不安に押しつぶされそうになりながら、ゆっくりと息を吐いた。

「……どうして、そんな私のために――」

「好きだから」

 あぁ、やっと言えた。ずっと言いたかった一言を。その言葉のためだけに、一体なんど心が折れたか。今度は誰にも、何にも邪魔はされなかった。

「……駄目だよ、結城」と彼女は言う。酷く震えた声で、首を力強く何度も振った。

「私はね。どんな観望も実現させる力を持ってるんだ」

 彼女は静かに語り始めた。世界を変える方法は簡単なんだ、と。ただ強く願えばいいだけなんだ、と。ただそれだけで天候も人の行動も、感情も現実さえも。全てを一変させることだって、何の苦労もない。

 まさしく神に等しい力。世界のルールなんてものは彼女の掌の上だった。

「人を殺すことだって……幼い頃にお父さんに「死ね」って言っちゃったんだ。前後の詳しいことは覚えてないけど、私は本気じゃなかった。でも、お父さんは公園で首を吊っちゃったんだ」

 私って性格が悪いんだ、と彼女は言う。

「ねぇ、結城はさ。なんで私のことを好きになったの?」

「それは――」と答えようとする俺を、彼女は片手で遮った。

「ううん、きっとね。私が願ったからだよ。私が願ったから、あなたは私を好きになったの」

 私、性格が悪いの。彼女は再び、そんなことを言った。

「私ね、どこからどこまでが私の願望でできているのか分からないんだ」

 いつしか涙は止んでいて、声の震えも消えていた。ずっと怖かった、意識していなくても心に抱いたちょっとした思いすら、世界は受け止め叶えようとした。

「結城、あなたは私のことを忘れるべきなんだよ」

「違う」

 俺の感情を決めつけるな。

「俺がお前を好きであるという感情が作られたもの? 馬鹿を言うな。話を聞いていたのか?」

「え?」

「俺は能力を無効化する符浦栞と生活していた。この青い服だって、能力を無効化するためのものだ。分かるか? それでも、俺はお前が好きなんだ」

 彼女は息を飲んだ。

「なぁ、二人で逃げよう」

 見慣れた町並みを背に、俺は彼女に告げるのだ。敵は人一人死んだことにするなんて容易く行う国家ぐるみの組織だ。でも、二人ならば逃げられる気がした。彼女は頷く。そして、

「うん、私と結城なら、世界を敵に回したって良い」

 その時、俺は理解する。世界の敵は誰なのか。なぁ、符浦栞。俺は救世主って言ってたな。その予言は外れそうだ。


   〇


 正面玄関から外に出ると、符浦栞が立っていた。黒かった髪が青くなっている。彼女の片手には黒光りする拳銃が握られていた。彼女の足下で丸くなっていた猫が、どこか遠くへ駆けていった。

「そう……そうなるのね」彼女はこちらを睨む。

 一方、俺の手には杏の手が握られている。杏は拳銃を見てしまったのだろう、手が酷く震えていた。そんな手を強く握り返す。彼女もそれに応えて、小さく頷く。

「大丈夫」俺は無理矢理にでも笑って見せた。

「何も大丈夫じゃないわよ」と符浦栞は言ってのけた。彼女が向けた銃口は、まっすぐ坂本杏に向いている。

 拳銃にはサプレッサーが着いていない。見渡す周囲には誰も人はいなかった。走ったところで背を見せることになるので意味はない。隠れるような壁もない。あまりにも俺が馬鹿すぎた。もっと慎重に行動すべきだったという後悔は時既に遅い。

 しかし、最善を尽くせ。最悪、彼女だけでもどこかへ。

 杏を背中の後ろへ。これで撃たれて彼女が死ぬことだけは免れる。

「なぁ、俺って救世主なんだよな?」

「えぇ、そうね。そういうことになってるわ」

「だったら、俺を殺すわけにはいかないんじゃないのか」

「それは二度目よ。桜庭結城」

 二度目? 記憶にないが、おそらく坂本杏が変えてしまった世界の話だろう。

「だが、事実だろ。こうして俺と彼女が逃げることは世界を救うことに直結するかもしれない。予言者はそう言ってたんだろ?」

「えぇ、そうね。でも、どうやら坂本杏が世界の敵だということは間違いないみたいじゃない」

 彼女はトランシーバーのようなものを取り出した。

「これは受信器よ。あなたの服に仕込んであるマイクを聴くためのものね。それで全ての会話は聴いてるわ。彼女の能力に関する話も、世界を敵に回したって良いって言葉も全てね」

 俺は慌てて服に触れるも、「そんな触った程度で分かるようなものじゃないわ」と言ってのける。最初から図られたことだったのか? いや、そんなはずは……。

「それにしても、世界の敵の意味がこういうことだったとは驚きだった。ただ強いだけの能力者と、世界の敵を見分ける方法はどうするのだろうって考えてだのだけど、考えるまでもなかったみたい」

 彼女は一発撃った。背後の下駄箱に穴が穿たれる。どうやら正真正銘、本物の銃であるらしい。微かな希望も砕かれた。

「さぁ、救世主さん。彼女を殺して」

 彼女はナイフを転がして、こちらによこした。腕ほどはあるのではないか、と思うほどに太く長い刃渡りで、光を反射して鈍く光った。おそらく人の命を容易く奪うために特化したのだろう造形をしている。

「さぁ、あなたの救世主としての役割よ」

 俺はナイフを拾った。包丁なんかより、ずっと重たい。刃渡りに触れただけで指から血がにじんだ。彼女の顔を見てみると、状況には似つかわしくない笑顔だった。しかし、目元が潤んでいることを俺は見逃さない。

「いいよ、あなたになら殺されてもいい」

 彼女は目を瞑り、首を差し出した。背中には銃口が向けられているのを感じる。

 しかし、しかしだよ。符浦栞。俺は一度死を覚悟したということを忘れてないか?

 ナイフを構え、振り返りながら地面を蹴った。符浦栞の目は酷く冷たくこちらを見据え、迷うことなく引き金を引いた。耳につんざく銃声と、腹部に走る痛み。踏み出そうとして足がくじけ、地面に顔から突っ込んだ。ナイフは足下に転がり、触れた腹部は濡れている。手を汚した赤い血は、とても温かい。

「結城!」

 坂本杏が駆け寄ってくる。あぁ、辞めてくれ。それじゃあ、お前も撃たれるだろう。

 痛い、彼女の声が遠くに聞こえる。

「こんな傷治って! お願い!」

 しかし、俺の傷は治ろうとはせず、ただ意識だけが遠のこうとしていた。そんな中、最後の最後に俺は聴いた。

「あなたこそが……あなたこそが世界の敵よ!」

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