第二十四話

「死にましょ」と可愛らしく告げられても、俺は「はい、そうですね」と頷けなかった。当然だ、俺は死にたくないのだから。彼女は明日まで待つと言った。やりたいことをやるなら今のうちよ、と。あっさりとした死刑宣告だった。こんな理不尽な死があるかと言いたい。

 しかし、俺は死ぬ覚悟をした。

 そんな俺を見て多くの人は笑うのだろうか。首を傾げるのだろうか。

 土曜日という華の休日を、いつも通り過ごしつつ、久しぶりに作った野菜炒めを妹に不味いと貶された。洗い物をしながら、手際が悪いとさらに追い打ちを掛けられる。当番制の風呂掃除をし忘れて、代わりに妹が済ませていた。駄目だねぇ、と妹に横腹をつつかれる。

 そんな妹が寝静まった後、符浦栞と二人きりの自室で死んでも良いと話を切り出した。

 彼女はそんな俺を不思議そうに見つめている。

「死んでも坂本さんが生き返らせてくれるんだろ?」

「……」彼女は何も答えない。ついさっきまで自信ありげに語っていたくせに、いざとなれば動けずにいた。こっちとしては死ぬならばできる限り苦しませずにあの世へ送って欲しい。今か今かと死を待つ時間は精神的によろしくない。

「生き返った暁には、三途の川の景色を教えるよ」

「なんで……そんな簡単に死ぬ覚悟ができる?」

 彼女は声を震わせて言う。そして、俺は改めて考える。

「なんで、と言われてもな。世界と俺の命を天秤に掛ければ、迷わず世界を取るべきだろ」

「……」

 彼女は何も答えない。そうね、と嘘でも言って欲しかった。

 彼女に手を引かれ家を出る。夜の坂道に街灯が立ち並び、雲一つない空には空には丸い月が浮かんでいる。向かった先には一台の車が駐まっている。闇に紛れる黒い車だった。それに俺は乗り込む。運転席には見知らぬ男が座っていた。

 向かう先は分からない。渡されたコップ一杯の水を飲み、俺は意識を失ったからだ。


   〇


 目を覚ますと、俺は未だ車の中にいた。もしかすると、三途の川を渡る際には車が使われるのかも知れない。これは世紀の大発見だ、という俺の発想むなしく、「あ、起きたのね」と符浦栞が顔をのぞき込んでいた。まつげが長い。肌が白い。腕には青い血管がはっきりと見える。

「おはよう」

 と運転席には由香里先生が、

「え? 死んだんじゃ……」

「あ、記憶残ってる」と符浦栞が言った。

 そうだ、由香里先生は死んだはずだった。でも生きている。世界が変わったことに、俺は気付けないはずじゃなかったのか。

「栞が嘘をついた訳じゃないよ。というか、彼女は嘘をつけないし」

「え? え?」

 意味が分からず、脳内で疑問符がぐるぐると回り、半ば混乱する。

「……彼、混乱してるわよ。栞、説明してあげなさい」

「あなたの着ている青い服、それで能力を無効化してる」

 自分の体を見てみれば、見慣れない青い服を着ていた。これは確か、符浦栞と初めて出会った時に、彼女が着ていた服だった。

「世界に一つだけしかない、私の服。大切にして。汚したら怒る」

 洗濯はしてるから匂いはしないわよ、という不要な一言を彼女は付け添えた。「別に興味ねぇし」というか俺は着替えさせられたのか? という俺の疑問は無視された。

「ようは彼女の服で改変される前の記憶も保持し続けられているって訳。あぁあ、それにしても私が死んだねぇ、しかも首を折られてって……今でも信じられないわ」

 はぁ、と由香里先生は深いため息をつく。そんなことよりも、だ。

「でも、俺って死ぬはずじゃ……」

「作戦変更。あなたは死んだということにして、ずっとそのたままにする」

「……へ?」

「殺すのはもったいないという栞の判断よ」

 死ぬ覚悟をしていた俺は拍子抜けだった。どうやら青い服が通用するかどうかをチェックするために生かされ、何度も殺すより死んだことにして、そのまま放置しても同じではないかということで死ぬ必要はなくなったらしい。

「じゃ、私は帰るから。死んだことになってる桜庭は出ちゃ駄目だからね」

 そうして由香里先生は車外へと消えた。薄暗い室内から外が丸見えだが、おそらく外からは見えないようになっているのだろう。備え付けられたモニターからはテレビを見ることができた。見飽きた恐怖映像にあくびをしながら、符浦栞と二人きりの時間を過ごす。車ということもあって、とても狭い。足を伸ばせば彼女に当たる。横になれば自然と膝枕になる。まぁ、そんなことはしないが。

「ずっと考えていた。あなたが死ぬ覚悟がすぐにできた理由を」

 よく顔を見たことがある司会者の声に混じって、彼女は話し始めた。

「言っただろ? 世界と彼女なら世界を取るって」

「嘘」

 彼女は冷たい目でこちらを見ていた。その声も同様に冷たい。

「あなた、彼女と一緒に死のうとしたんでしょう」

 心臓が止まるかと思った。驚きで頭が真っ白になる。

「何も言わなくて良い。その表情が答えだもの」

 車内に気まずい沈黙が降りた。

「そんなに顔に出てたか?」

「えぇ、あなたは嘘が下手でしょう?」

 そうかもしれない。深く長く吐いた息が窓ガラスを濡らした。

「そういう栞も、嘘が下手なんじゃないか?」

「私は嘘が下手なんじゃないわ。ただ付けないだけよ」

 何が違うんだという俺の問いに、彼女は何も答えない。そこから先の会話はなかった。二人きりの夜は時間だけが過ぎていった。


   〇


 来る日も来る日も俺は車内で丸くなっていた。俺の知らない場所で、計画は順調に進行していく。車から一歩外に出れば、俺が死んだことになっている世界に出る。改めて、もう俺は日常に戻れなくなったのだなと実感した。

 符浦栞も由香里先生も学校へと行っている。俺は出ることのできない車の中から、古びた校舎を見つめていた。地震一つ起これば、あっさりと倒壊しそうな校舎。金網で囲われた屋上に人影は一つも見えない。

 学校近くに停められているということもあり、横を制服を着た学生が通り過ぎることは珍しくなかった。その誰もが幸せそうな笑みを浮かべている。校内の誰かが死んでいるということは知っているのかも知れないが、そんなことは些事に過ぎないのだろう。

 俺だってそうだ。

 昨日、符浦栞は能力者を坂本杏だと確定させた。毎晩、彼女は自室で能力を使っているようだった。その能力は俺のために使われたのだろうか。生き返らせようと必死になってくれたのだろうか。

 俺の告白をなかったことにしたのは、彼女なのだろうか。

 いや、分からない。何一つ俺には分からない。神様は理不尽だと符浦栞は言っていた。確かに、それは真実なのだろう。世界のルールを変えられるカミサマが、この世界にはいて、世界をいつの間にか動かしている。それに抗おうとする人々もいる。

「ただいま」

 符浦栞が戻って来た。制服を着込んだ彼女の片手には、コンビニの袋が握られている。取り出された冷たい水を流し込む。車のエンジンは付けたままで、クーラーも付けっぱなしと言えど、喉は渇くし退屈で死にそうになる。ペットボトルのラベルの文字を読むことが息抜きの一つだった。「暇人」「誰のせいだ、誰の」

 誰かと通信が行えるネットは御法度。出歩くなんてもっての他。彼女に聞かされる一方的な話が、唯一まともと思える暇つぶしだった。彼女曰く、坂本杏は限界であるらしい。

 そんな時だった。

 校舎から一斉に、異常とも思える学生と教師の群れが出てきた。誰もそのことに疑問を思わず、まっすぐに帰路につく。それだけではない。周囲の家からも人が飛び出し、まるで蜘蛛の子を散らすかのように一斉に。

 そして、すぐに誰もいなくなる。

「……由香里先生は?」

「連絡がつかない」

 符浦栞は携帯を片手に言う。

「この能力は……でも生き返ってない」

 唾を飲み込んだのは、俺か彼女か定かではない。何かが始まろうとしている緊張感が、車内を漂った。

「あ」

 彼女が何かに気付く。指さした先は屋上。金網の向こうには、一人の女子高生が見えた。彼女が歩を進めると、金網が彼女を避けるように穴が空いた。何が起きているのか、理解が追いつかない。

「……坂本杏?」

 符浦栞が首を傾げる。それだけで俺が動く理由には十分だった。

 俺は外に飛び出した。不思議と扉は閉じられていなかった。杏、これもお前の能力なのか。

 分からない。分からない。俺は知らなければいけない。

 とにかく走った。彼女がいる場所へ。

 地面を蹴ってとにかく走る。外の世界の光はまぶしく、クーラーの温度に慣れた体を厳しく責めた。階段を駆け上がる足はもつれ、転げてしまいそうになる。それでも、必死に足を動かし続けた。

 誰一人として人がいない校舎は、毎日通っていたそれとは違い不気味に思えた。静かな校舎に、激しく床が軋む音が響く。埃が舞ってむせ返る。息をするたびに肺が、心臓が、体中の節々が痛い。

 辿り付いた最上階。扉を押し開け、俺は叫んだ。

「杏!」

 まだ彼女はそこにいた。目に溜まった涙がきらりと光った。

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