世界の敵

とある少女の話8

 桜庭結城と由香里先生が死んだことを、朝のホームルームで告げられた坂本杏。その時、彼女の目の前は闇に包まれ、頭が理解を拒んでいだ。背後を振り返ってみれば、中田は生きて学校に来ている。しかし、いつも後ろにいた彼はいない。

 嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。気付かぬうちに手が震えている。

 ――どうして?

 彼女は考える。思い浮かぶのは土曜日の朝、学校に符浦栞と来ていた桜庭結城の姿だ。どうして二人が来ていたのか。結局、彼女は聞かずじまいだった。彼が死んだとすれば、その後である。彼女が見た中田の死や、火事は関係がないと結論づける。

 符浦栞は、中田の死や火事の調査をしに来たということを彼女が知るはずもない。

 そして、彼だけでなく由香里先生までも死んでいるという事実が、彼女を酷く混乱させた。これはどういう繋がりなのか。変わる前の世界の記憶をたぐり寄せれば、中田と由香里先生が何度も殺されていることが確認するまでもなく分かる。

 ――二人を殺そうとする誰かがいる?

 しかし、彼女は望んだはずだ。中田を殺した犯人の死を。もしかすれば死ななかったのだろうか。彼女は不規則になっていた息を整えつつ、思考を進めていく。

 彼女は中田を殺した犯人が、由香里先生であるなど予想の域を超えていた。

 ――結城と由香里先生が亡くなったのは偶然?

 由香里先生を殺したのは彼女自身だと気付くはずもない。

 彼女のような理不尽な能力を振りかざす存在を、殺すための組織があるという電波的な事実でさえ、彼女は知らない。能力を無効化する人間が、存在するという発想も欠如している。

 彼女の知っている世界が終わろうとしていた。

 しかし、彼女はどこか落ち着いていた。私には生き返らせることができるのだと、明日になれば全てを元に戻すことができるのだ、と。彼女は死に慣れつつあった。

 そんな彼女を見つめる符浦栞の視線には気付かずない。戻せない時計の針が一秒を刻んでいた。


   ●


「え」

 思わず驚きの声が漏れる。由香里先生が生き返り、当たり前のように教壇に立っていて、中田も学校に来ているのに対し、後ろの席の桜庭結城は空いたままだった。机の上には弔いの菊が生けられた花瓶が置かれている。

 クラスメイト達もどこか暗く、まるで誰かが死んだみたいな状況だった。「嘘だ」と彼女は呟く。そうだ、体調が悪くて休んでいるに違いがない。後ろの花は何かの間違いだ。先生に尋ねてみれば、きっと明るく答えてくれる。

「先生……結城君はどうしたんですか」そう聞く彼女の声は震えている。

 そういう彼女の言葉に、答えに詰まる教師。彼女を見る目には、同情が浮かんでいた。「そんなはずは……」と彼女は呟く。

 どんなに否定しようとも、彼女の前の現実は変わることはなかった。

 桜庭結城だけが死んでいる。夢だと頬を摘まんでみても、痛みで醒めることはない。

 ――夢なら醒めて!

 彼女は願う。しかし、醒めない。

 ――まだ……まだ明日が……

 時計も授業も進んでいく。学生は皆、思い思いの行動をしていた。陽は沈み、夜を越え、再び新たな今日を迎える。


   ●


 彼はやはり死んでいた。

 蘇ることはない。「どうして?」という彼女の疑問に答えてくれる者などいるはずがなかった。相談できる相手だっていなかった。「彼が生き返ってくれないんです」と言ったとして、話を聞いてくれる人はいないだろう。

 彼がいない世界で、彼女は孤独だった。誰一人として、この心の隙間を埋めてくれる者はいなかった。

 ――あぁ、やっぱり好きだったのかな。

 自分の思い描いた理想の幻想と、現実の境が分からなくなる。どこからどこまでが私の望んだ世界なのだろうか、と自問自答する。しかし、答えが出るはずもなかった。

 ――何度目の今日だろう。

 毎日毎日、彼が来ているのではないかと学校へと向かった。それでも彼は来なかった。気付けばクラスのみんなは、彼のことを忘れたかのように静かに授業を受け、グラウンドを駆け回り、廊下や教室で騒ぐ。彼女は、彼がいなくとも回るこの世界が嫌いになりそうだった。

 一言も発することなく、放課後を迎え、誰もいない教室で、無理矢理にでも身体を後ろに向けた。開け放たれた窓ガラスから入ってくる風が頬を撫でた。触れた机は、花瓶の水で少し濡れている。

「……」

 彼女は席を立つと屋上へと向かった。たった一つ、彼女の足音だけが響く廊下を進み、階段を上る。掃除の行き届いていない階段は酷く埃っぽい。軋むたびに埃が舞って、窓から差す光を照り返した。

 屋上の扉は本来閉じられているらしい。しかし、坂本杏の前には無意味だった。

 久しぶりに来た屋上には何もない。ただ風だけが吹いている。群青色の空に、濁った雲が浮かんでいた。

 彼女は彼が涙を流していた日のことを思い出していた。世界を変えることはあまりにも簡単だった。その変わった世界の中で、誰も変わったことに気付かぬまま日々を過ごす。もしかしたら、中田と由香里先生が死んだことは夢で、みんなが生きている世界が現実なのではと彼女は思った。

 もう分からない。

 こんな能力なんて欲しくない。

 彼女は金網へと近づいていく。彼女の体を避けるように、飛び降りを邪魔しないように、金網はひしゃげて大きな穴が空く。そんなことを気にも留めずに、さらに歩を進めた。屋上の端から見下ろした地面は遠い。きっとすぐに死ぬ。

 天国はあるのだろうかと、息を吐きながら考える。いや、行くならば地獄かなと目を瞑る。なにせ彼女は能力を使って二人(・・)殺した。この世界で彼女の罪を知り、断罪できる者はいないのだから、きっと天にいる誰かが罰を与えてくれるだろう。

 彼女の背中を緩やかな風が押す。目から零れた涙が階下へ落ちた。

 ――でも、最後に彼に会いたかった。

 そんな後ろ髪引かれる思いも、すぐに消える。だって彼は死んだから。

 ――ずっと好きでした。

 彼女の思いは心の奥へと沈んでいった。

「杏!」

 そんな彼女の意識が引き戻され、振り返ってみると、会いたい彼が立っていた。青い服を着て、息を切らせながら。

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