第二十二話

 自転車に俺と彼女がまたがった。漕ぐのは俺で、彼女が後ろ。つまりは法律違反の二人乗りだ。ただでさえ暑いのに、人一人という荷物を乗せて道を進む。背中にしがみつく彼女の腕が、俺の腰を掴んでいる。

 自動車がすぐ隣を抜けていく。額の汗が頬を伝って服を湿らせるのを感じた。特別でも何でもないママチャリには、ギアなんていう便利なものはついていない。坂道が少ないことが不幸中の幸いか。

 向かう先は、平日は毎日のように通う学校である。符浦栞には確認したいことがあるらしい。質問をすることは止めた。するだけ無駄だ。世界を救おうとしている電波少女の話は、聞くだけ聞いても頭痛が酷くなるだけで暇つぶしにもならない。

 世界を救うというならば、この夏の人を殺しかねない猛暑をどうにかしてくれ。あと、面倒くさいテストも消して欲しい。

 学校には自転車だったらすぐに着く。しかし、熱気と疲れは時間感覚を狂わせるようだ。楽しければ早く進む時間も、嫌で辛い時間は長く思える。そんな俺の疲れは露知らず、「遅くない?」という不要な一言をぼそりと呟く。「うるせぇ」自然と口も悪くなる。

 学校に着けば、何も変哲もない校舎が建っている。築何年か知らないが、相当古いことだけは分かる。廃校舎ですと説明されても、納得するだろう。車が数台しか駐まっていない駐車場には、野生の野良猫がたむろしている。ゴロゴロという猫なで声で、足下に擦り寄ってくる。

「確認したいことって、何もないじゃねぇか」

「何もないことがおかしい」

 玄関前の地面に座り込み、彼女は地面に触れる。その手に猫が寄っていった。しかし、彼女は気にせず周囲を見渡す。俺もそれに習って、何か変化がないか見てみるも、やはりおかしなことは一つだってない。

「……校舎が燃えたこともないことになっている……死体もないし、血の一滴も……何を変えた? どうやって……」

 見上げた校舎の窓ガラスが、朝日を反射して煌めく。どこか遠くでは運動部の掛け声が聞こえる。こんな大事な休日を部活に捧げる高校生諸君に敬礼。一方、俺は何に何を捧げているというのか。悲しきかな。

 運動部でもない学生で、土曜の朝から学校に行く物好きなんて……。

「あれ、結城?」

 物好きなんていない。全言撤回だ。一人いた。

「坂本さん。どうして」

 坂本杏が学校に来ていた。手で掻き上げた短い黒髪が、夏の風に揺れている。

 学校で数え切れないほど会っているのに、初めて彼女の私服を見た。白い袖無しの服に、膝上の黒いスカート。制服に比べて、かなり肌面積が多い気がする。男子高校生の精神衛生上、非常によろしくない。

「ん? そうだなぁ……忘れ物? そういう結城は?」

 なんで疑問系なんですかね、坂本さん。そして、俺がここにいる理由は彼女に聞いて欲しい。俺は辺りを見渡す不審者らしき女性を指さした。彼女もこちらに気がついたのか、猫を抱えてこちらにやって来た。結局、猫の誘惑には負けたらしい。

「あれ、なんで坂本さんが?」

 符浦栞は首を傾げた。「忘れ物」と坂本さんは繰り返す。「忘れ物……」と符浦栞はさらに言葉を繰り返した。三人が集った校舎前に、湿気た風が抜けていく。汗で服が肌に張り付いた。

「忘れ物って何?」

「うーん、それって言わないと駄目かな?」

「……じゃあ、昨日はなんで忘れ物を取りに来なかったの?」

「え?」

「わざわざ土曜の早朝に取りに来た理由を聞いてる」

 確かに、言われてみればそうだ。金曜日の放課後にでも取りに帰れば、わざわざ土曜日に学校に来ることもない。

「……気付いたのが、ついさっきだった。それだけのことだよ? 何か、探偵みたいだねぇ。栞さん」

 彼女は思い切りの良い笑みを浮かべた。

「そう……分かった。帰ろう、結城」

「……もしかして、帰りもか」

 俺は深くため息をつく。また、あの長い道のりを走り抜けるのか。校門のすぐ側に停めていた自転車に二人で乗った。ちらりと見えた背中越しに、坂本杏が手を振っている。俺も小さく振り替えした。彼女にその手が見えたかはよく分からない。

 結局、この時間は何だったのだろうか。俺は同級生の私服姿を見て、符浦栞は猫を撫でただけではないか。そう考えてみると、意外と良い時間の使い方だった気がするから不思議だ。


   〇


 自転車で走りながら、背中越しに彼女が話しかけてくる。暑くて暑くて、どうしようもないほどにきつい。無視しようと思っても、彼女は言葉を続けていく。

「中田と由香里先生が死んで、二人共を生き返らせた。最初は中田の所属する組織の誰かがやったことだと思った。でも、それだと由香里先生を生き返らせる意味が分からない」

 二人がいつ死んだっていうんだ。いや、由香里先生は死んだのか。やはり彼女の話は意味が分からない。俺の見ている世界とは、彼女の世界とは違うのだろうか。帰ったら、彼女の頭にアルミホイルでも巻くべきだろうか。

「私のいる組織だって同じ。由香里先生を生き返らせる理由はあっても、中田まで生き返らせる理由なんてない」

 彼女の電波混じりの空想話は、熱と疲れで溶けそうな脳には少しばかりきつい。それでも彼女はまるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと話しかけてくる。右から左に聞き流そうと思ったけれど、すぐ耳元の声は自然と聞こえてしまうのだ。

「最初はあなたが能力を発現させたのかと疑った。でも、それだと父親の存在をなかったことにした説明ができない」

「俺には父さんなんていないぞ」

「そう、そうだったわね」

 彼女の腰を掴む力が強くなる。「いてぇ」と思わず声が出る。今更ながら、もっと運動しておけば良かったと後悔する。この後悔も、明日には忘れているだろうが。

「昨日、中田が死んだことを知ることができるのは、報道規制を引いたから、私たちの組織の人間と中田の所属する組織の人間……それと、もう一人だけいる」

「へぇ……誰?」

「一度帰った後、学校に戻ってきた女子高生よ」

 忘れ物を取りに来たという坂本杏の私服姿が思い浮かんだ。何故だろう。これ以上は聞いてはいけないような、そんな嫌な予感がする。

「すぐに周囲には人が近づけないようにした。あの現場にいなければ、中田が首を折って殺されたことを知ることはできない。もう容疑者は絞れてるの。それに彼女なら……中田と由香里先生を生き返らせたことも説明ができる」

「何なんだよ。言ってみてくれ」

「……あなたが泣いたからよ」

「俺が泣いた? いつ? どこで?」

「変わる前の世界の話よ……あなた、友人を失って泣いたの」

「そうか」

 どうなんだろう。まぁ、きっと泣くだろうな。知らんけど。

「で、探偵さん。そこまで推理できてどうするんだ?」

 意外とおしゃべりな彼女の口は、固く閉ざされて、それ以上、何も語ろうとはしなかった。俺と彼女を乗せた自転車は、まっすぐ家に向かって進む。道を走る自動車の排気ガスが目にしみる。そういえば朝から何も飲んでいない。喉が痛いほどに水分を欲していた。

 彼女の電波話はこれで終わりなのだろうか。頼む。頼むから、終わってくれ。

 俺は自転車を漕ぎながら、そう願った。だが俺は神様じゃない。願いは早々届かないのだ。

 家に帰ると、妹はどこか遊びに行ったらしくいなかった。「デート行ってくる」という殴り書きが、リビングのテーブルに置かれていた。放置されていた朝食の食器の数々がなくなっているのを見るに、きちんと目覚めた後、苛立ちながら食器を片付けてくれたことは想像に難くない。今日の夕飯は俺が作ってやろう。野菜を炒めることしか能はないが。

 リビングの窓を開け放つと、夏の日差しと共に風が吹き込んでくる。汗で濡れた服が乾いて、身体が冷えるのを感じる。彼女はというと、冷蔵庫を勝手に開けて、アイスを取り出していた。「食べる?」「ども」

 ありがたく頂戴し、俺は冷たいアイスを食べた。熱気の籠もっていた体内が、一気に冷え込む。舌がべたつくような甘さに、アイスってこんなもんだっけと首を傾げた。アイス自体久しぶりのような気がする。子供の頃は、毎日のように親にせがんでいたのだが。

「さっきの推理にならない推理の話だけど」

 俺は彼女の声を聞きながら、窓の外を見た。春と夏の変わり目の今、ただでさえ暑いのに、これからもっと暑くなる夏に思いをはせた。

「まだ、ただの推測。証拠はどこにもない」と彼女は言う。

「俺、何度か告白しようとしたことがあるんだ」

 俺はポツリと話し出す。誰に言うこともできずにいた電波的な話を。

「誰に? 私に?」

「分かってて言ってるだろ。……坂本さんに、だよ」

 人生初めての告白ってのは、とっても勇気がいるもので、一晩どころか一週間悩み抜く。そして心に決めた日に、深く息を吐いて、まるで日本一を決める決勝にでも足を踏み入れる心持ちで学校へと向かうんだ。これで振られたって人生は終わらないって、理屈では分かっていても心は違う。もう、これで人生が決まるような気がしてしまう。

「それで?」彼女はテーブルに顎を乗せた。聞く気があるんだか、ないんだか。

「でも、告白できたことは一度もない」

「……結局怖じけ付いたとか」

「違う。毎回毎回、不幸が重なるんだ」

 不幸。そうだ、あれは全て不幸と言わざるを得ない。人生で初めて書いたラブレターはどこかに消えた。メッセージで呼び出そうとしても、俺が教師に呼び出されて予定はなかったことになる。「好きです」のたった一言のメッセージは、ネットワークの障害に捕まって、ネットの海に沈んだ。それらが一度だけならば、まだ理解はできる。

「……一度、だけじゃなかった」

 彼女は急に真剣な顔になった。

「まるで、どこかにいる神様が邪魔しているようで」

 本当に神様はいるのだろうか。どこかで俺たちを見下ろしているのだろうか。

 分からない。

 神様がいたところで、きっと天高い存在で、間にはどうしようもない隔たりって奴があって、神様の見る世界を見ることは叶わない。

「あなたは、それが彼女の能力だと言うの?」

「さぁ」

 知ったことか。電波は俺の理解の範疇を超えている。

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