第二十一話
昨日と今日で世界が変わっていると聞かされて、「はい、そうですか」と納得いく人がいるだろうか。少なくとも俺は納得がいかなかった。俺は確実に昨日を生きて、世界を見ていた記憶があるのだ。そこは疑いようがない。
一方、目の前にいる符浦栞は、妙に怖い目でこちらを見つめ、「あなたの記憶が間違っている」と言っている。自分は狂っているのだろうか、それとも彼女が。
分からない。目の前で見せつけられた超能力の存在は信じられても、世界が変わってしまったことはどうにも理解が追いつかない。変わったとして誰が、何故変えたのだ。そんな俺の疑問に対して、彼女は何も答えられない。
全ての始まりは、符浦栞の「火傷大丈夫だった?」という質問だった。土曜日という休日の朝に珍しく早起きして、符浦栞とともに朝食を食べているときのことだった。申し訳なさそうに、こちらの顔色を伺っている。
しかし、俺にはその質問の意図が分からなかったのだ。火傷をしようにもキッチンに立って調理するのは、決まって妹か符浦栞だ。洗い物は俺がしていたが、火傷する理由はない。先日のことを思い浮かべて見るも、やはり心当たりはなかった。
とにかく「火傷のしようがねぇわ」と適当に答えると、彼女の口から「え」という声が漏れる。そして、震える声と共に、
「覚えてないの?」
と。まるで何かに縋るような、不安に駆られたような声色で、俺は驚かされる。これまでの冷たい表情が嘘のようだった。
「何をだよ」
しかし、答えようがない。覚えていないことは分からないのだ。
「あなたが学校を燃やしたことよ」
「は?」
学校を燃やす? どうして俺が? つまらない冗談だと思ったが、どうにも本気であるらしい。そこから先は質問攻めで、昨日あったことを根掘り葉掘り訊ねられる。すると、彼女と俺の記憶の間には、どうしようもない齟齬があることが分かった。
中田が普通じゃないとか、鞄に拳銃やナイフを忍ばせているとか、放課後に俺が校舎を燃やしたとか、どう考えても彼女がおかしい。もしそんなことがあったならば、覚えていないはずがないだろう。
「あなたのお父さんは? 学校で会ったでしょ?」
「お父さん? 何言ってんだ。俺に父さんなんていないぞ」
そんな時、あくびをしながら妹が降りてきた。だらんとしたジャージに身を包み、髪の寝癖もそのままで、かき消えそうな「おはよう」を口にする。ついでに妹に質問を投げかける。「なぁ、俺たちに父さんなんていなかったよな」
まだ頭が働いていないのだろう、「んー?」と間延びした返事らしき何かを言って、だらしなく口を開けたまま、何もない天井を見上げていた。一見すると薬吸ってラリった後に見えなくもないが、いつも通り朝の弱い妹の見慣れた風景だ。しかし、だからといって彼女の返答がおかしくなる訳ではない。頭の回転が遅いだけで、導き出す結論は至って正常。
「うん、物心ついた時には……」
目を擦りながら、「ご飯」と呟きつつ洗面所に消えていく。そっちにご飯はないですよ、と心の中で突っ込みを入れた。そんな和やかとも取れる団らんの中、一人だけが混乱して頭を抱えていた。
「……何がどうなってるの? 記憶を書き換えられたのは結城だけじゃない? 最初から、いなかったことになってる?」
符浦栞が額に手を当て、唇を噛みしめている時、彼女の携帯が鳴った。どうやら電話であるらしい。その音で現実に引き戻され、彼女は元の無表情に戻っている。
「はい、栞です」
電話の内容までは聞こえない。しかし、良い知らせではないことだけは、隣にいる俺にも分かった。なにせ時計の秒針が進む度に、彼女の表情は青ざめていくのだから。こんなにも彼女は表情豊かだっただろうか。
「……分かりました」
電話を切った瞬間、彼女は俺の腕を掴んだ。その力は痛いほどに強く、されるがまま俺は引っ張られていく。拒絶しようと身をよじるも、それ以上の力で押さえつけられる。「何なんだよ」と俺は言うが、彼女の耳には届かない。玄関で急かされる形で靴を履き、外に出る。
土曜の太陽に照らされた。室内とは打って変わった強い日差しに目を細め、符浦栞の顔に影ができた。夏の訪れを告げる熱く湿気た風を感じる。彼女の黒髪の中に、染め残しの青髪を見つけた。
「……由香里先生が死んだの」
「え?」
「死ぬことのできない彼女が、首の骨を折られて死んだ。中田と同じ死因。……確かめないと……私は戦わないといけない。この世界で、私しか知ることのできない敵……」
彼女の目は覚悟に満ちた。
〇
自転車に俺と彼女がまたがった。漕ぐのは俺で、彼女が後ろ。つまりは法律違反の二人乗りだ。ただでさえ暑いのに、人一人という荷物を乗せて道を進む。背中にしがみつく彼女の腕が、俺の腰を掴んでいる。
自動車がすぐ隣を抜けていく。額の汗が頬を伝って服を湿らせるのを感じた。特別でも何でもないママチャリには、ギアなんていう便利なものはついていない。坂道が少ないことが不幸中の幸いか。
向かう先は、毎日通う学校である。符浦栞には確認したいことがあるらしい。質問をすることは止めた。するだけ無駄だ。世界を救おうとしている電波少女の話は、聞くだけ聞いても頭痛が酷くなるだけで暇つぶしにもならない。
世界を救うというならば、この夏の人を殺しかねない猛暑をどうにかしてくれ。あと、面倒くさいテストも消して欲しい。
学校には自転車だったらすぐに着く。しかし、熱気と疲れは時間感覚を狂わせるようだ。楽しければ早く進む時間も、嫌で辛い時間は長く思える。そんな俺の疲れは露知らず、「遅くない?」という不要な一言をぼそりと呟く。「うるせぇ」自然と口も悪くなる。
学校に着けば、何も変哲もない校舎が建っている。築何年か知らないが、相当古いことだけは分かる。廃校舎ですと説明されても、納得するだろう。車が数台しか駐まっていない駐車場には、野生の野良猫がたむろしている。ゴロゴロという猫なで声で、足下に擦り寄ってくる。
「確認したいことって、何もないじゃねぇか」
「何もないことがおかしい」
玄関前の地面に座り込み、彼女は地面に触れる。その手に猫が寄っていった。しかし、彼女は気にせず周囲を見渡す。俺もそれに習って、何か変化がないか見てみるも、やはりおかしなことは一つだってない。
「……校舎が燃えたこともないことになっている……死体もないし、血の一滴も……何を変えた? どうやって……」
見上げた校舎の窓ガラスが、朝日を反射して煌めく。どこか遠くでは運動部の掛け声が聞こえる。こんな大事な休日を部活に捧げる高校生諸君に敬礼。一方、俺は何に何を捧げているというのか。悲しきかな。
運動部でもない学生で、土曜の朝から学校に行く物好きなんて……。
「あれ、結城?」
物好きなんていない。全言撤回だ。一人いた。
「坂本さん。どうして」
坂本杏が学校に来ていた。手で掻き上げた短い黒髪が、夏の風に揺れている。
学校で数え切れないほど会っているのに、初めて彼女の私服を見た。白い袖無しの服に、膝上の黒いスカート。制服に比べて、かなり肌面積が多い気がする。男子高校生の精神衛生上、非常によろしくない。
「ん? そうだなぁ……忘れ物? そういう結城は?」
なんで疑問系なんですかね、坂本さん。そして、俺がここにいる理由は彼女に聞いて欲しい。俺は辺りを見渡す不審者らしき女性を指さした。彼女もこちらに気がついたのか、猫を抱えてこちらにやって来た。結局、猫の誘惑には負けたらしい。
「あれ、なんで坂本さんが?」
符浦栞は首を傾げた。「忘れ物」と坂本さんは繰り返す。「忘れ物……」と符浦栞はさらに言葉を繰り返した。三人が集った校舎前に、湿気た風が抜けていく。汗で服が肌に張り付いた。
「忘れ物って何?」
「うーん、それって言わないと駄目かな?」
「……じゃあ、昨日はなんで忘れ物を取りに来なかったの?」
「え?」
「わざわざ土曜の早朝に取りに来た理由を聞いてる」
確かに、言われてみればそうだ。金曜日の放課後にでも取りに帰れば、わざわざ土曜日に学校に来ることもない。
「……気付いたのが、ついさっきだった。それだけのことだよ? 何か、探偵みたいだねぇ。栞さん」
彼女は思い切りの良い笑みを浮かべた。
「そう……分かった。帰ろう、結城」
「……もしかして、帰りもか」
俺は深くため息をつく。また、あの長い道のりを走り抜けるのか。
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