第二十話
「また立ち向かってくるの?」
符浦栞は拳銃片手に降りてくる。ゆっくりとした足取りで、しかし足音を立てながら。見慣れた制服のスカートを揺らし、透き通るような白い肌と共に。背後の窓ガラスからは、白い雲と青空が見えている。
彼女の腰元にはナイフが二本、隠されていることが微かな膨らみ、歩き方の少しの変化から予測できる。おそらく予備のマガジンはないだろう。二発撃った後、ゆっくりとマガジンを再装填したと考えて、残りの最大弾数は十七。リロードの隙を生むくらいならば、銃弾を捨ててすぐさまナイフによる近接線に持ち込んでくるはずだ。
彼女の放つ銃弾の全てをいなしきることは不可能。身体能力も含めた全てにおいて彼女の方が上。平凡な高校生である俺が、彼女に勝つために使うべき武器は何か。自分が打てる手は何か。
俺には考える脳がある。
「中田君は先に行った。そして、あなたは私の足止め……そんなところ」
俺は何も答えない。ゆっくりと距離を詰めてくる彼女の動きを見つめた。深く、大きく息をする。冷静に心臓の鼓動を感じる。
「弱ければ、守りたいものも守れない」
そんなことは知っていた。拳銃を恐れていては駄目なのだ。何かを守りたいならば、強くならなければいけない。
彼女の言葉や動きの端々から余裕を感じる。確実に俺という存在を舐めていて、何も出来ないと考えている。彼女の言うとおり、俺は弱い存在だと理解しなければいけない。
俺はポケットから取り出したオイルライターの火を灯す。名前も知らない男の死体から奪ったものだ。古びた木造建築物の室内は、意識しないと気付かないほどに、微かな隙間風が吹いていて、小さな火は激しく揺れている。その火の弱い光を見て、思わず口角が上がった。ライターなんて誕生日ケーキのろうそくに火を付ける以外に使った事なんてない。その頃だって、こんな金属製のライターなんて使っていなかったように思う。コンビニで買ったような安物で、薄い色のプラスチック製のライターだった。
符浦栞の息を飲む声が聞こえる。彼女は拳銃を投げ捨てて、必死な顔でこちらに向かって地面を蹴った。俺はためらわずライターを落とす。足下にはオイルライターの中身がぶちまけてあった。良く燃えることだろう。
そんな俺の意思に答えるように、足下で一気に炎が上がる。不思議と熱いとは思わなかった。ただあるのは歓喜。奇妙な感情だ。ふと見た彼女の目は、冷静に周囲を見渡している。きっと消火器を探しているのだろう。残念だが、隠すだけの時間的余裕はあった。
どっかの誰かがゆっくりと来てくれたお陰で。
「この周囲から人を遠ざけていた男も死んでる。この校舎が燃えているのが見つかって、大勢の人間がやってくるのも時間の問題だ」
俺にできることは符浦栞の動きを止めることだけだ。これが俺の考えた最善である。
「……あなた、その男を知らないの?」腕で顔を覆いながら、燃える炎の向こうから彼女が問いかけてきた。その距離は腕を伸ばせば届くほどの近さだ。
「……どういう意図の質問なんだ、それは?」
俺の動揺を誘うつもりなのだろうか。だったら、彼女の判断は正しい。問われているその男が誰を指しているのかすら、一瞬考えなければ分からなかったほどだ。きっと、周囲に人を近づけないようにしていて、煙草を吸いながら目の前に現れたかと思えば、何の前触れもなく死んだ男のことだろう。
「答えて!」
「知るわけがないだろう」
その間にも床から壁へと、徐々に炎は燃え広がっていく。激しく火の粉が飛んでいる。着慣れた制服が焦げて、小さな穴が穿たれた。額に浮かぶ汗が垂れ、まつげを重くし、唇を濡らす。瞼の裏の暗闇を見つめた。
そんな俺を突き飛ばすように、符浦栞は炎と煙の向こうから飛び込んできた。俺は背中を強く床に打ち付ける。後頭部は手で押さえていると言え、痛いものは痛い。彼女の白く細い腕が、俺の体を痛いほどに抱きしめている。そのまま倒れ込んだ俺と彼女の二人は、周囲の炎が勢いを増していく音を聞いている。
「どうして……どうしてなの?」
彼女の顔は見えない。ただ胸元で彼女の吐息を感じる。
「あなたは世界を救うのよ!」
「俺はさ、俺が救世主になるって話を聞いたときから……世界を救おう何て考えたことは一度もないんだわ」
世界なんて広すぎて、漠然としすぎていて、運命だとか、予言だとか言われても想像なんてできなかった。そんな中でも過ぎていく日常を過ごしていると、日常と非日常の境界線が分からなくなっていく。彼女の言葉をただの電波的としか受け止められないで、彼女の見ている世界が、自分とは違うと分かってしまう。
「正直わくわくしたんだ。俺が世界を救うなんて言われて。騙されてもいいかなって……」
「ねぇ、結城」
バチバチと校舎を燃やす炎の音とは違い、彼女の声色は優しい。
「私じゃ世界を救えないの」
彼女の視点から、世界はどう見えているのだろうか。世界は危機に満ちているのだろうか、自分の行動の一つで変わってしまう世界の動きが分かってしまうのだろうか。分からない、俺にはきっと。
「世界を救って。あなたにしかできない」
「……世界を救うったって、どうすればいいんだ」
「……さぁ、その時が来れば分かるんじゃない?」
燃えさかる炎の中で、俺と彼女は笑った。その笑いに込められたのは諦観か、はたまた心からこみ上げてきた笑いだったか。その真意は分からない。それでも、この数日という間で初めて見せた笑顔だった気がする。
「さて、ここから出るわよ」
「それこそ、どうやって出るんだ? こうしてまだ死んでいないのは、ある意味奇蹟だろ」
上も右も左も、炎が燃え広がり、逃げ場なんてないように思われた。
「……仕方ない、あまり見せたくなかったけれど――」
「お? こんなところにいたのか。探したわよ」
炎をものともしないといった様子で、由香里先生が現れた。全身を水で濡らし、ここまでやってきたらしい。「火が見えたから、急いできたよ」と笑顔で言う。
符浦栞の「中田は?」という問いに対して、由香里先生は「死んだよ」とちょっと買い物に行ったみたいな軽いノリで答える。どうやら二人は玄関を出てすぐの場所で鉢合わせし、中田はあっさりと殺されたようだ。
どうやら俺の行動は、あまり意味がなかったらしい。結局の所、何も変えられなかったのだ。そんなことを考えながら、ゆかり先生の背中に乗せられ、燃えさかる校舎を走り抜ける。背後で窓ガラスの割れる音がした。同時に天井が崩れ落ちる音も続いた。そして、
「きゃあああああああ」
女性の悲鳴が聞こえる。符浦栞ではない。もっと別の、どこかで聞いたことがあるような声だったように思う。「そういえば玄関に死体置きっぱなしだった」と由香里先生は呟いた。「でも……ここには人は近づけないはずじゃ」
今さらながら、知らない男に蹴られた腹部や、符浦栞に突き飛ばされた際の背中も痛み出す。そして全身を襲う倦怠感によって、俺が眠りにつくのは一瞬だった。
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