第十六話

 中田裕一と由香里先生が亡くなったことが、朝のホームルームで告げられる。二人とも事故死したようだ。それが嘘であることは、このクラスの中で俺と符浦栞しか知らない。

 彼はこの学校の屋上で、腹部にナイフを突き刺され死んだのだ。しかも、その犯人は由香里先生で、由香里先生を殺したのは符浦栞で……そんな彼女はクラスの端っこで船を漕いでいる。

 隣の机はぽっかりと空いている。誰もがその机に目を向けた。じっとりと重い空気支配する。その空気に絶えられず、俺は教室を飛び出した。背後で教師が何やら言っている。それを無視してトイレに駆け込む。

 脳裏には二つの死体。同時にこれまでの馬鹿みたいな会話も、眠い授業もありありと思い返される。そんな二人も放課後という短い間にあっさりと死んだ。自分の目の前で。

 心臓が痛い。俺は便器に吐いた。何度も何度も……吐く物すらなくなる。鏡を見れば、死んだ目をした顔がある。目の下には隈ができて、血の気が引いて青白い。

 教室に戻っても責める者はいなかった。教師の「大丈夫か」という声に頷く。座った椅子は冷たくなっていた。人はいるはずなのに、気配が消えたかのように静まっている。

 いつのまにかホームルームは終わって、気付けば教卓には誰もいなくなっていた。

 時計の針が回っている。一周、二周と何もしていないのに時間は進んでいくことに苛立ちを覚える。二人が死んでも授業は進むらしかった。

 由香里先生が担当していた国語は、よく分からない男の人が担当した。前の方に座った学生が、これまでの範囲を伝えながら授業を進めていく。クラスメイトの名前を覚えていないからだろう。名簿に目を向けることが多かった。

 その間に色々なことを考えた。例えば予知能力者の言葉――自分が守りたいものを、自身の感情に従って守ればいい――そう電話の男は言っていた。どんなに考えても、その言葉の真意は理解できなかった。俺が守りたいものとは一体何なのか。自分のことであるはずなのに分からない。考えれば考える程、泥沼に嵌まって溺れていく。息が苦しい。

 授業なんて頭に入ってこない。用語が右から左に流れ、ノートの文字は虫食いが酷い。唯一書いた文字群も、解読不能となっている。そうして、ただ座って過ごす時間はあっという間に過ぎ去って、知らぬ間に昼休みになっていた。

 ふらつく足で教室を出て行く。自分が行くべき場所も定まらぬまま、廊下を進み、階段を上る。辿り付いた最上階。そこにある扉を開けると、何の変哲もない屋上がある。

 地面には一滴の血すらない。風に揺られ、金網がかすかにガシガシと鳴っている。その耳障りな音を、金網を掴んで止める。強く握った指が痛い。見下ろせば、外で昼食を取る学生や、グラウンドを駆け回る学生などが見える。

 頬に当たる風が冷たく、どこか重たい。見上げた空は、分厚い雲が覆っている。ぽつりと鼻先が濡れた気がした。冷たい、と心の中で呟く。

「死んじゃ駄目だよ」

 背筋にゾワリと悪寒が走る。振り返ると、そこには坂本杏がいた。ほっと胸をなで下ろす。彼女も扉の開け方を知っているのだろうか。

「屋上の扉って空いてたんだね。知らなかったよ」

 黒髪が風で靡き、スカートの端が風で揺れる。パカパカとスリッパを鳴らしながら、距離を詰めてくる。煌めく瞳がこちらをまっすぐ見つめてくる。白い頬がほんのり赤らむ。

「俺は死ぬつもりなんてないよ」

「嘘つき」即答だった。

「……何でそんなこと」

 彼女の手が俺の頬に触れる。

「だって泣いてるもの」

「……え」

 彼女の指が濡れている。それは俺の涙であるらしい。

「何で……」

「声も震えてるよ」

 彼女は俺の横に並んで、景色を眺める。家々が立ち並ぶ町並みと、車が走る道。どこまでも続く地平線。

 小雨が降り出す。雨の冷たさに体が震える。風が体温を奪っていく。

「結城君みたいな顔した人がね。外に出てって……公園で首を吊ってたことがあったんだ。夢かと思おうとしてたんだけど、あれは現実なんだよね」

 彼女は無理に口角を上げたかのような、不自然な笑みでこちらを見つめる。

「結城君には、私、生きてて欲しいんだよ」

 そういう彼女の声も震えている。しかし、俺を見つめるその目だけが力強い。

 彼女の髪がしっとりと濡れた。滴る水が制服までも濡らしていく。自分は目元を袖で拭った。濡れた袖の水滴は雨か涙か、もはや分からない。

 雨の勢いが増していく。肩が徐々に重くなっていく。

「晴れない雨はないんだよ」

 そんな彼女の言葉に呼応するように、雨が止む。ふと見上げた天上に、ちょうど雲の切れ間ができて、優しい光が差してくる。吹いていた風もいつしか消え失せ、冷えた体がゆっくりと暖まっていく。

「大丈夫、明日は来るよ」

「中田と由香里先生には明日が来ない!」

 拳を握りしめ、声を振り絞った。声はきっと震えていない。涙も多分出ていない。

「……大丈夫」と坂本杏は小さな声で呟く。

「気休めはやめてくれ」

 彼女は何も知らない。中田が事故死ではないことも、由香里先生が符浦栞に殺されたことも。だから、そんな気休めが言える。

 一晩経った今だからこそ、冷静に状況を見ることができた。結局の所、昨日の二人の死は何の意味もなかったのだ。だってそうだろう。中田は世界の敵ではなかった。由香里先生だってそうだ。死んだことによって、新たな情報が浮かんできた訳でもない。

 二人はどうして死ぬ必要があった?

 予知能力者は結末に必要な死だと言った。そんな死があってたまるか、と俺は奴に怒鳴りたかった。こんな道筋が辿った結末を、俺は望んでいない。

 二人の死について、符浦栞は何も語らない。ただ淡々と、事態に対応していた。まるで二人の死なんて些事であるように。

「明日も学校に来てよ」

 彼女の手が、俺の頬を撫でた。その手は、雨ですっかり冷えている。

「私は、結城君に死んで欲しくない」

「……俺は――」

「中田君だって、由香里先生だって。昨日会った時は普通だったよ。それでも死なないなんて断言できる?」

「……」俺は何かを言おうとして、何も言えず言葉を飲み込む。

「ほら、何も言い返せない」彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。

 空を覆い隠していた暗雲が消え、青空と照りつける太陽が顔を出した。熱いほどの光が髪を、肌を、服に当たる。水滴が頭から伝って顎から落ちていく。

「結城君、大丈夫だよ。明日になれば、全て解決してるから」

 そう言いながら、彼女は変なステップを踏みながら入口へと去って行く。俺もそんな彼女の後ろについて教室へと戻った。下る階段は彼女の足の動きに合わせて軋んだ。彼女の踏んだ場所には濡れて跡ができている。

 制服が濡れたことにより下着が透けたことを、教室に戻ってからクラスメイトの女子に指摘され、胸を隠しながら俺を睨んでくる坂本杏。売店に行き損ねたために、再び符浦栞が握ったおにぎりを食べながら、冷たい視線から必死に逃れようとする。しかし、目の前の席に座る彼女の視線から逃れる術を俺は知らない。

 坂本杏は不器用なりに俺を励まそうとしてくれたのだろう。きっと、そうだ。そうに違いない。せめて彼女のそんな優しさに応えていこう。

 例えどんなに嫌であろうと、明日は来るのだ。せめて死にそうな顔をさらさないようにすることだけは、俺にだってできるはず。最低限、俺にとっての日常を守るために。

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