第十五話

「……まぁ、そうなるよな」

 中田は鞄を投げ捨てる。スタンガンがバチバチと音を立てた。もう一方の手には定規やペンが握られている。ナイフが奪われた今、あれが武器のつもりなのだろうか。肉を切り裂き、骨を削るナイフよりもかなり見劣りする。

 さっきみたいにはいかないわよ、と由香里先生は告げた。もうすっかり傷は癒えているようだ。血で汚れた服が、コスプレじみて見える。

 由香里先生は左胸に突き立てられたナイフを自分で引き抜く。胸元にぽっかりと穴が空いている。血液が止めどなく溢れ出た。

「あぁ……やっぱ心臓は再生に時間がかかりそうね。刺したままの方が良かったかも」

「ハハハ……規格外だな。心臓なんて生死に関係ねぇってことかよ。じゃあ、どうすりゃ死ぬってんだ」

「そんなこと教えるわけないじゃない。もう一度言うけど、死の定義が普通とは違うだけのことよ」

 さて、と軽く伸びをして、由香里先生は中田に歩み寄る。一定の距離を保ちながら後ずさる中田。符浦栞は俺の拘束を解こうと悪戦苦闘する。

「あれ、意外と固いわね」

「……」

「ナイフ使ってもいい?」

 怖いから止めてくれ、という俺の意見は無視された。かなり手こずっているらしい。椅子がかなり揺れる。

「……このナイフ、切れ味が落ちてるわね」

 緊張感の欠片もない符浦栞の声。それとは裏腹に、血にまみれた教師と一人の高校生の間には、一瞬ですら気の抜けない空気が張り詰めている。

 由香里先生が血だまりを踏む音がした。中田が長く息を吐き出す。

 先に仕掛けたのは由香里先生だった。しかし、攻撃よりは牽制という方が近い。屋上の唯一の出入り口から二人は遠ざかっていく。ナイフが中田の鼻先をかすめ、後ろにのけぞりながらも、それを避け続けた。度々体勢が崩れるも、由香里先生は一気に追撃しない。中田の手元にはバチバチと走る閃光が見える。

「……さっきよりもかなり冷静じゃないですか。やっぱ電撃が弱点なんですか?」

「電気はビリビリするから嫌いね」

 予備動作なしに突き出されたスタンガンをかわし、ナイフではなく、固く握られた拳が、中田の顔面を打った。中田は受け身をとることもできず地面に転がされる。同時にスタンガンが手を離れた。

 舌打ちが聞こえる。この機会を逃さぬと、由香里先生は距離を詰めた。

 中田は転がり、地面を這いながらスタンガンへと近づく。しかし、その動きは酷く緩慢だ。立ち上がり大股で進む由香里先生が、先回りしてスタンガンを蹴り飛ばすのは容易だった。

「あなたの武器はもうなくなったわ」

 中田はゆっくりと立ち上がり、血走った目で教師を睨む。

「抵抗せずに私たちに付いてくれば、命だけは助けてあげる。なにせ、あなたは一応私の教え子だもの。ねぇ、栞」由香里先生は符浦栞に目を向けることなく話しかける。

「えぇ、そうね」と栞も答える。

「……へっ、どうだか」

 中田は悪態つきながら、シャープペンシルを握り直した。

 次に動き出したのは二人同時だった。互いの動きが交錯する。

 中田がペンを振り下ろし、由香里先生の肩に突き立てる。その痛みを感じさせぬ動きで、頭頂部をナイフの柄尻で打ち、続けざまに蹴り飛ばす。男の体は、軽々と二メートルほど飛んで、地面に強く打ち付けられた。殴られた頭頂部から血を流しながら、蹴られた腹部を押さえ、痛みを堪えている。

「骨が何本か折れたかしら?」由香里先生は明るい声色で言う。

 中田は立ち上がろうと腕に力を込めるも、途中でがくりと崩れた。声にもならない嗚咽が漏れた。これまでの疲労と、的確で重い攻撃の数々が、彼を追い詰めたのだろう。見るからに限界だった。

「さて……栞、どうする? 縛る?」

「……そうね、縛る物があるなら、そうしたいけど――」

 そうして符浦栞に話しかけようと視線を外した、そんな些細な隙だった。符浦栞は俺の拘束を解くべく格闘し、由香里先生は笑みずら浮かべている。

 歯を食いしばり中田は立ち上がったのだ。迷いない力強い動きで、由香里先生へと突っ込んでいく。俺はとっさに声を出そうとするも、「あ」という気の抜けた言葉しかでてこなかった。その間にも、二人の距離は縮まり、中田が伸ばした腕が首元へと向かっている。

 そして――。

「あぁ、私は残念だよ」

 由香里先生の握りしめたナイフが、中田の腹部に刺さっていた。中田の目は見開かれ、自身の腹部から滴った血が作る血だまりを見つめている。

「……抵抗しなければ、まぁ、命くらいはね、と思ってたよ? 私はともかく栞は嘘をつかないわ。そんなに嫌だったのかしら?」

 返事はない。代わりに弱々しく震える手が、彼女の顔――いや、目に向かっている。また、目を潰すのか? それに意味はあるのか?

 そんな彼の手がどこに向かっているのか、由香里先生も分かったのだろう。にやりと笑い、決して避けようともせず、彼の動きを見守っていた。指が顔に触れ、目元に指がかかる。固唾を呑んで、俺はその状況を見つめる。その間の時間は、無理に引き延ばされたかのように長く感じられた。

「あ、ようやく取れたわ」全く空気を読まずに、符浦栞は呟く。そんな彼女の声と同時に――。

 眼球が引き抜かれた。どこにそんな力が残っていたのか。その手には確かに、白く小さな眼球を掴んでいる。中田は口から血を逆流させ、最後に力を振り絞っただろう腕は、無様にだらりと垂れ下がった。彼の命の灯が消えかかっていることが何となく分かる。

「まぁ、いいわ。その眼球は冥土の土産にでもしなさい」

 ナイフが引き抜かれ、中田の体は力なく崩れ落ちた。肉体の周囲には赤黒い血が広がっていく。背を向けた由香里先生に立ち上がって向かって行くこともない。彼の手元には白い眼球が一つ、転がっていた。


   〇


「ごめんね、栞。あれは連れてくのは無理だわ。もし連れてけたとしても、絶対に何も吐かないわね」

「……そう。残念ね」

 拘束が解かれたばかりの体は、固くなっていた。これまできつく縛られ詰まっていた血液が、全身に行き渡る感覚。足先に今更ながら感じた痺れ。どれもが、夢みたいなこの惨状に、現実感を与えてくれる。

 中田の死体からは目を背ける。それでも至る所に血だまりが散見された。どれも二人のどちらかの血なのだ。もう鼻で息をしても、血の匂いかどうかが分からない。すでに自分の意識から感覚に至るまでが、この状況になれつつあることが分かった。

 しかし由香里先生が生き残り、中田が死んだということに対して、自分の中で整理がついていない。つくわけがない。何も喋りたくなかった。家に帰りベットで寝れば、何事もなかったかのように明日が続いてくれるのではないか。そんな願いは絵空事だと分かっていても、考えずにはいられない。

 心臓部に穴が空いても生きている相手に、戦いを挑んだという時点で、勝敗は決していたのだ。もう彼には勝ち目なんてなかった。そんな諦めが、ただ眺めているだけの自分にすらあったのだ。

 由香里先生は眼球を抜かれたらしい左目を手で押さえている。その隙間から血がゆっくりと垂れている。今日一日で、一生分の血を見た気がした。

「いくら死なないからって、そういうことは良くない」

「ん? そういうことってどれのことかな? もしかして、眼球の話を言ってるのかな?」

「そう、これまでだって、そういう油断が――」

「はいはい、早く着替えたいし、弾も取り出したいし、さっさと帰りま……」

 突然に由香里先生の動きが止まった。これまで銃で撃たれたとは思えない普通の動きで、片目を引き抜かれたと言われても嘘としか考えられない口調だった彼女が、何もない場所で呆然と虚空を見つめ、口はだらしなく開かれている。握られていたナイフを落とし、慌てて拾い上げた。

「いまさら傷でもうずいたの?」

 符浦栞はそんなことを言う。いや、そんなはずはないだろう。肩ではまだシャープペンが突き立てられたまま揺れている。

 まさか、毒か?

「……由香里おばさん?」

「……ん? どうしたのかな、栞」

 由香里先生はナイフを構えた。敵はいない。戦いは終わった。しかし、その目には力強い光が宿り、足は地面を踏みしめる。

「由香里おばさん。私は敵じゃない」

「いや、あなたは敵よ。私はあなたを殺すために、ここまで来たの」

 その声は本気だった。明らかに何かに怒っている。しかし、その怒りはあまりにも唐突で、まるで作り上げられたかのように。

 ……まさか。

 中田の死体の方を見た。仰向けに倒れた彼は、空に赤黒い腕を伸ばしている。手には同様に赤い玉――白い眼球があった。

 ――目を五秒間見つめる。

 それは体から離れた眼球にも適応されるというのか。

「栞! 由香里先生は――」

「分かった。つまりは私たちの敵になったということね」

 由香里先生の殺意に答えるかのように、符浦栞もナイフを構えた。それと同時に、由香里先生は勢いに身を任せた突撃を敢行する。

 符浦栞は動かない。冷たい目が、相手の動きをじっと見据えている。そして、交わるその刹那、首を切り裂き、血しぶきが上がった。

 銃に撃たれようと、電撃を喰らおうと、心臓を貫かれようと生きた人が、首筋たった一撃で地に落ちる。能力を無効化するという意味が分かった気がした。

「とても残念。所詮、死なないだけだった」

 彼女の声はやはり冷たい。


   〇


 作業服の集団がやって来て、二つの死体を運び出していった。その後、「早く帰ろう」という符浦栞の言葉に従って帰ったらしい。その間の記憶はどうにも曖昧で、自分で歩いたような気はしなくて、気付けば寝間着に着替えてベットに潜ったようだった。気づけば夜も更けている。

 疲れているはずだった。しかし、目は冴え渡っている。

 目を瞑っても、思い返されるのは飛び散る血、地面に出来た血だまり。鼻を抜ける血と肉が焦げた匂い。心臓と首に穿たれた穴。そこから止めどなく溢れ出る血、血、血……。友人の手に握られたスタンガンの閃光と、自身の首筋をまっすぐに狙った赤いナイフ。

 どれも紛れもない現実。何度も何度も、まぶたの裏では光景が蘇る。

 眠れない。

 ずっと考えてしまう。自分に何かできたのではないか、と。

 自分は能力なんて持っていない。刺されれば動くことなんてできずに死ぬし、記憶なんて覗けないし、能力を無効化するなんてもっての他だ。銃なんて撃ったことはないし、ナイフを振り回したこともない。人の死体を見れば、体が震えて動かない。

 ……。

 部屋を出て、一階に降りた。弱い月明かりが窓から差している。自分の歩く音だけが聞こえる。

 明かりが消されたリビングには誰もいない。

「……当たり前か」

 つい一昨日のことだ。夜の街のコンビニで、青髪の乙女に出会う。世界を救うと言った彼女の言葉に乗せられて、見たこともない世界を知った。この二日間だけで自分の生きる世界は確実に広がった。

「由香里先生も、中田も能力者……だったんだよな」

 符浦栞に能力者だと自己紹介された時は、ただ電波としか思わなかったものだ。そこに由香里先生なんかも加わって、面倒くさくなって布団に潜り込んだんだっけか。次の日、電話をかけようとして全て由香里先生に繋がった時は本気で焦った。もしかして、自分の頭がおかしくなったのでは? と疑って――。

「……待て、ということは――」

 今、電話をかけると誰に繋がる?

 リビングの片隅に置かれた固定電話を見つめる。今ならば両親に電話がかかるのではないか。期待とも予感とも取れる感情の高鳴りを覚えた。時計を見ると日は変わっている。子供はとっくに寝る時間だ。しかし、電話をかけるとすれば、今しかない。

 受話器を取る。父親の電話番号を押して、着信音が鳴り響く。その時間はあまりに長く、思わず受話器を強い力で握りしめていた。手汗がじっとりと受話器を湿らせる。

「出ないか」と諦めたその時。

 着信の音が止まる。誰かが電話に出たのだ。驚いて受話器を落としそうになる。

「……もしもし、父さん?」

相手からの反応はない。これは誰だ? 父か? それとも別の誰かか?

『初めまして』しがれた声だ。少なくとも父の声ではない。

「……誰ですか?」

『予知能力者と言えば伝わるかな?』

 予知能力者――世界の敵が現れることを告げた張本人。この男の言葉に従い、符浦栞や由香里先生が動いた。予知能力者なんて、つい一昨日の自分ならば信じない言葉だっただろう。しかし、信じなければいけないことが何度も起きている。

『私は君に話したいことがある。何、ちょっとした雑だ――』

「由香里先生と中田が死んだことも知ってるのか。いや、知ってたのか?」

『……ん?』

「救えたんじゃないのか!」思わず声が大きくなる。この男にならば救えたはずだ。なにせ力があるのだから。その力を振るわずしてどうする。

『私が求めるのは幸せな結末だ』

「そのためなら由香里先生と中田が死んでも良いってのか」

『正確に言うならば、私が望む結末に必要な死だな』

「……何言ってやがる」

『桜庭結城。君は自分の無力さを知っただろう。自分が生きる世界の狭さを知っただろう。それこそが布石だ。私が見つけた最善の結末が、これから君の歩む物語だ』

 この男は何を言っているのか。意味は全くもって分からない。しかし、彼の声にはすごみがあった。決して冗談で口にしているようなものではなかった。

『君は自分が守りたいものを、自身の感情に従って守ればいい』

 この男には一体何が見えているのか。

『さて、私は再び長い眠りにつくことにしよう。今度は素晴らしい未来の物語が見えることを願うよ』

 電話は唐突に切られた。再び適当な電話にかけようとしても、電話が繋がることはなかった。俺の声で起き出した妹や符浦栞に「さっさと寝ろ」とどやされる。重い足取りで潜った布団の中で、死んだように夢の中へと沈んでいく。

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