第十四話

 陽が傾き地平線の彼方へと沈もうとしている。風はさらに冷たくなっていく。むせかえるような血と肉の焦げた匂いが漂っている。鼻でしか息ができないためか、だんたんと慣れていく自分がいた。

 符浦栞と中田が相対する。間には椅子に縛り上げられた俺がいて、口を挟むこともできず、ただそこにいるだけの置物と化していた。ただ二人の会話を聞いている。

「栞さん。こうして話をするのは初めてかな?」

「そうね、あなたは中田祐一……だったかしら」

 彼女はちらりと死体に目を向けた。しかし、表情は変わらない。腕を組み、冷たい目でこちらを見ている。

「栞さんとこうして話をできて光栄に思いますよ。……いや、超能力対策課の秘密兵器と呼ぶべきですか?」

「なんでも良い。好きに呼んでくれて構わない」

「そうかい。では、栞さん。俺はあんたがた組織と取引がしたい」

「取引?」

「そう! 俺たちが欲しいのは、あんたらが長年かけて集めた超能力者に関する研究資料さ。あぁ! ついでに歪みを検出するという機械も是非とも欲しいねぇ」

「取引と言うからには、何かしら見返りが必要」

「それはこいつさ。どうやらこいつは世界を救うらしいじゃねぇか」

 ナイフが俺の首筋に少し強く押し当てられる。小さな痛みとともに、かすかにだが血が出ている。

「何だかよく分からんが、こいつが必要なんだろ?」

 そんな中田の言葉に対して、符浦栞は何も答えない。ピリピリと緊張した空気が流れ、静寂が屋上を支配する。自身の心臓が鼓動する音だけが、いやに大きく聞こえている。

「あなた、死にたいの?」

 彼女の声は異様なまでに冷たく、それでいて淡々としていた。彼女の目の前に広がっている光景はきっと、彼女にとっては日常なのだろう。血が床を汚し、命を賭けた取引。死が目前に迫っているという恐怖が、背筋に這い寄ってくる。

「……は?」とこちらもまた、冷たく見下したような声で答えた。

「もし彼が死ねば世界は滅びる。滅びずとも、かなり大きな何かが起きることは確定的」

「へっ、こいつが世界を救う? そんなことありえねぇよ」

 能力もない、特別頭が良いわけでもない。何もかもが平均か、それ以下。そんな一般人が世界を救うのか? そんなこと出来るわけがないだろう? 中田は笑いながら、そんなことを言う。俺もそう思う。

「そんなことは分からない」

「いや、分かるさ。世界を救うのは神に愛された勇者と相場が決まってんだ。生まれながらにもった能力か、与えられた能力を使って無双する……そうだろ?」

 なすすべなくスタンガンで気絶させられ、縛り上げられている男が救世主だって言われても説得力はないだろう。よっぽど中田の方が主人公らしいのではないか。だんたん何故ここにいるのが俺なのか、よく分からなくなってきた。もしかしたら同姓同名の誰かと間違ったのでは? と思ったが、桜庭なんて名字を間違えようがないか。

「話を戻そう……栞さん。この話に乗るのか? 乗らな――」

「もう一度聞く。あなたは死にたいの?」

「あのな、もう一度言うが、こいつが世界を救うとかはありえ――」

「それだけじゃない。私たちの組織を敵に回して生きていけると思ってるの?」

 符浦栞は言葉を遮るように言葉を返した。中田は小さく舌打ちする。ナイフがさらに強く押しつけられる。頼むから、無駄に逆なでしないで欲しい。

「貴様ら組織が、いつまでも大きな態度してられると思うんじゃねぇよ!」

「例え組織があなたの要求に従い、情報を渡したとしても、いずれあなたたちは潰される」

「そんなこと――」

「無理だと思う?」

 ぐっと言葉を飲み込むような声。手の震えがナイフ越しに伝わってくる。そんな彼の様子が、符浦栞の所属する組織の大きさを物語っている。

「予知能力。肉体再生。電波操作……それ以外にも能力者を多数抱えている。情報の多さも武器。そして何より、能力無効の私がいる」

「……噂では聞いていたよ。能力を無効化する能力者がいるって、青髪の乙女なんて言われてな。だが、所詮はそれだけだろ? 由香里先生みたいに銃で撃たれて平然としている訳でもなし、俺みたいに記憶を操作できる訳じゃない。何故そこまでお前が恐れられているのか俺には理解できないね」

「確かに、私は銃で撃たれれば死ぬし、記憶操作もできない」

 彼女は一歩、こちらに歩みを進める。そこに躊躇いも迷いもない。

「でも、あなたの能力は私に通用しない。由香里先生はあなたよりもっと早く倒すことができる」

「それ以上、近づくな!」声を荒げる。ナイフが首元から離れ、符浦栞に向けられる。ナイフにべっとりと付いた血が滴っている。その血は徐々に固まりつつあった。

 ゆっくりではあるが、彼女は距離を詰めている。そして、俺は気付く。嘘だろ。そんなことがあるのか。真っ先に浮かんだ感情は恐怖だった。ガムテープで口を塞がれていなければ、きっと悲鳴を上げていたことだろう。縛り上げられていなければ、どこか遠くへ駆けだし、逃げていたことだろう。

「一つ良いことを教えてあげる」

 中田は気付いてない。彼の目はまっすぐに符浦栞を捉え、向けたナイフの切っ先は細かく震える。「来るな! 近づくんじゃねぇ!」焦りが見える。再びナイフが首元に触れる。そのナイフはひどく冷たい。

「後天的に能力を得た人間は、自身が書き換えたルールを理解できぬまま暴走させることが多い。おそらく、これまで生きてきた常識に囚われてしまうから。自身が書き換えたルールを上手く扱えない」

「それがどうした!」

 中田の声は枯れていた。やはり意識は符浦栞に向いている。

「あなたもきっとそう。だから、望先生の記憶操作もミスをした。能力者の存在を感づかれ、その能力が記憶に関するものだと相手に教えているようなもの」

「さっさと答えろ! 要求を飲むのか! 飲まないのか!」

 俺の頭が乱暴に掴まれる。その手は血で濡れている。

「私は要求を飲まない」

 彼女はあっさりとそう答えた。その声色に迷いはなく、恐れもない。

「チッ……じゃあ、ここでこいつは殺す!」

 ナイフが振り上げられた。視界の端で赤いナイフの刃が見える。その刃先は自分の首筋に向いていることが分かった。首筋にチリチリとした緊張感が走る。

 俺は確かに死を覚悟した。死んでも良いとすら思っていた。もしかしたら、今死ぬことこそが、世界を救う布石なのではないかとすら想像した。理屈は分からない。感情がそう告げている。

 しかし、ナイフは振り下ろされなかった。実は、そんな予感はしていたのだが。

「ッ! お、お前――」

「眼球を回復させるだけの時間をくれてありがとう」

 由香里先生が視界の端で、ゆっくりと動いていたのだ。血塗れの女性が地を這っている光景は、正直かなり怖かった。

 由香里先生が中田の腕を掴んでいる。彼女の目元では眼球が再生している。心臓に突き立てられたナイフはそのままで、喉元からは、未だ血が流れ出ている。微かに覗かれる歯は、血で赤く染まっている。すぐ近くまで迫っている体からは、肉が焦げたような匂いがしていた。

 普通はもう死んでいる。しかし、彼女は動いていた。

「動物はどうして死ぬか知ってる?」

 由香里先生は笑いながら、そんなことを言う。

「心臓が止まったら? 脳が死んだら? 残念。それは一般論。私はみんなと死というルールが違うのよ。肉体再生はあくまで副産物よ」と極めて明るい声で言った。

「形勢逆転ね。中田裕一」

そう言う符浦栞の声は、変わらず淡々としていて冷たい。

 呆然としているのか、動かないでいる中田の腹に、由香里先生は重い一撃を喰らわせる。くぐもった声と共にナイフが地面に落ちる。先生はそれを、符浦栞の方へ蹴り飛ばした。

 中田は腹部を押さえ、ふらつきながらも腕を振り切り距離を取り、鞄からスタンガンを取り出して構える。その間に、俺の口のガムテープが剥がされる。咳き込みながらも口から息をする。自然と呼吸が荒くなる。勢いよく剥がされたことで口元が痛い。

「大丈夫?」

「……いや、先生の方が大丈夫じゃないですよね」

「ん? うん、まぁ、そうかな。何発か銃弾が体の中に残ってて気持ち悪いんだよね」

 ため息と共に、それは致命傷ですよと呟く。そう? と言いながら教師は笑った。笑うと血塗れの歯が怖いので止めて欲しい。唾の代わりに血が飛んでいるのが見えた。

「で、取引はどうするのかしら? 中田裕一」

「……取引……取引ねぇ……ハハハ、あれで死んでねぇとか卑怯だろ。どうしろってんだよ」

 渇いた笑い。目は完全に光を失い、上がった口角もどこか弱気だ。

「こっちこそ、どうするのよ栞。連れてく?」

「記憶操作の能力はかなり厄介。だけど組織のことは聞き出しておきたい」

「了解、あぁ、その前に……桜庭はどう思う?」

「え?」

「中田の扱いについてよ。桜庭はどうしたい?」

 その質問の意図をかみ砕けないまま、改めて中田の今の姿を見る。全身に返り血を浴び、肩で息をしている。夕陽で頬が赤く染まる。「そんなこと聞いても意味はない」と符浦栞は言っている。

「いや、意味はあるさ。桜庭、あんたはこっち側に付いたんだろ? つまりは仲間になった訳だ」

「……仲間」確認するかのように呟く。

「そう。だからこそ聞くわよ。あなたは彼をどうしたい?」

 つい先日、いや今日の放課後になる前までは間違いなく親友だった中田は、俺をスタンガンで気絶させた。ナイフを首筋に突きつけた。交渉が決裂した時、ナイフを迷わず振り下ろそうとしていた。俺と彼の関係は、この放課後で大きく変わった。

 しかし、しかしだ。友人として過ごして来たこれまでの思い出が、思考の片隅をよぎる。

 俺の一言で全てが決まるのか? その覚悟が俺にあるのか? いや、栞達は彼に何をする気なんだ。栞は「組織のことを聞き出す」と言っていた。

 そのために何をする?

 様々な思考が展開される。喉が痛いほどに枯れている。飲み込む唾もとうにない。

「……彼は交渉が決裂した時、あなたを迷わず殺そうとした。結城、あなたに迷う理由はない」

 そうだ。そうなのだ。しかし、

「待ってくれ」かすれた声を、やっとのことで出す。

「何を?」と符浦栞は素っ気ない。

 次の言葉が出てこない。俺は何を待って貰っているのだ。自分でもよく分からない。色々なものがごちゃごちゃと脳内で巡り巡って、答えは出口を見失ったかのように彷徨っている。自分が何をしたいのか、何をすべきか。

「あなたの日常はもう終わっている。私に出会った夜から」

 青髪が靡く昨夜が思い返された。日常が音を立てて崩れ去っていく感覚。

「そうだ。中田にスパイになって貰えば良いんだ。そうすればいいだろ?」

「彼が私たちに従う理由がない。いくらでも裏切れる」

「でも――」

「彼が『世界の敵』かもしれない」

「そんなの――」

「これは世界を守る戦い。敵が分からない以上、疑わしい相手は皆、消し去る。情報を得る手段は選んでいられない」

 俺は押し黙って、ただ下を見つめる。何となく、考えることを拒んだ。由香里先生はため息をつく。

「由香里おばさん、彼は連れて行く。方法は任せた」

 おばさんじゃないわよ、という声が小さく聞こえた。

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