第十一話

 望先生は定義を大切にする人だ。いや、定義が好きな教師というべきかもしれない。

 数学で用語が登場すると、決まって定義の重要性を説いた。ただ覚えるのではなく、理解し、それぞれの繋がりを意識しろ。そうすると、問題の意図や目的が分かるのだという。頭の悪い自分は、その域にまだ達していない。

 誰かと会話をする際、同じことについて話しているつもりでも、その定義が違えば会話はすれ違う。数学だけでなく日常生活においても定義は大切だと、耳にタコができるほど聞いた。

 そのせいか、自分も定義とやらを気にするようになってしまった。

 “世界の敵” その定義を考える。「そんなことは無駄」と布浦栞は言うが、俺は考えずにはいられない。世界の敵と言うが、世界とは何だ。そんな哲学的な問いが繰り返される。

「……話は終わったから、教室へ戻りましょう」

 あなたは変わり者ね、といらない一言を添える。いくらかの自覚がある分、何も言い返せず黙って屋上を出て、階段を下る。滅多に人の登ってこない階段は、埃がたまっている。陽に当たり変色した木造階段は、うっすら白い。本当に久しく、誰も屋上まで登ってこなかったのだろう。

 教室へ戻る最中、由香里先生とすれ違う。望先生ほどではないにしても、目の下に隈ができ、疲労困憊といった様子が伝わってくる。しかし、記憶の混濁は見られない。そう何人もおかしな人間が現れても困るが、能力者がいるとすれば、あり得ない話ではないと思う。

「……あぁ、栞。放課後に望先生が呼んでたわよ」と由香里先生。

「何故ですか?」

「伝えたいことがあるとか」

 私も詳しいことは分からないけど、話は聞くべきじゃない? と早口に言う。

 伝えたいこととは何なのか。俺は腕を組み考える。やはり自身の記憶についての話だろうか。だが、なぜ符浦栞に。脳内における妄想は止めどころが分からず、続いていく。

 教室に戻ってくると、坂本杏が恨めしそうな顔で弁当に食らいついていた。昼休みの時間は大分過ぎているが、弁当の残りはそれなりに多い。「……もしかして二人で食べちゃった?」その言葉でまだ何も食べてなかったことを思い出す。「まだ食べてない」

 教室に漂っていた一限の緊迫感は大分薄れ、徐々に近づきつつあるテストの話題や、夏休みの予定の話が飛び交っている。いつも席でやかましくしている中田の姿はなかった。トイレか何かだろうか。

 自分の机に座ると、前に座った坂本杏は無理やりに体をこちらに向ける。手には食いかけの弁当が握られている。プラスチックの箸がカチャリと音を立てた。

「結城の今日の昼飯は何かな? いつもの焼きそばパン?」

「……あ。そういえば買い忘れてた」

 昼飯を買いに行こうとして符浦栞に呼び止められ、屋上に行って、帰ってきて……つまり俺は昼飯を買っていない。時計を見れば、残り時間は二十分もない。買いに行って戻ってくるまでに十数分。食べる時間が確保できなさそうだ。それに売店にはもう何も残っていないだろう。

 昼飯抜きということを実感すると、腹がぐぅとなった。

「……ふぅーん、どうやら昼飯はないようですねぇ」

「なんで嬉しそうなんだよ」

 目を細め、クククと悪役じみた演技をする。胸を張り――ちなみに彼女の胸はそれなりに大きいらしい(中田談)――私に任せ給え、とカバンをあさり始める。「あれ、確かに入れたんだけど」

「結城。昼飯がないなら、これを食べて」

 このクラスの女子は足音を消す癖でもあるのだろうか。隣に立っていた符浦栞は、妙に大きくて丸いおにぎりをこちらに差し出していた。売店があるということを知らなかった彼女が、朝起きて作ったらしい。ちなみに中身は不明。彼女の味覚が電波じみていないことを願おう。

「ありがとう栞さん」

「どういたしまして」

「……んんんん? ちょっと待って」

 何かに反応して、鞄をあさる手を止める坂本杏。待ってと言われたので待ったのだが、彼女の二の句は繋がらない。

「そういえば坂本さんは何を出そうとしたんだ?」

「……うん、そうだよね。私のことは坂本さんって呼ぶよね」

 何度も語感を確かめるかのように「坂本さん」と呟く彼女は、正直少し怖かった。とりあえず栞さんが作ってくれたおにぎりを食べる。中身は日本人が大好きな梅干しだった。現実でメシマズ系ヒロインは受けないよな、などと適当なことを考えていると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。慌てて残りを口に放り込む。

 中田はチャイムが鳴り終わった後に教室に帰って来た。額に流した汗が光っている。

 そうしている間にも、放課後は近づいてくる。時計はチクタクと一秒、一秒を刻んでいた。


   〇


 やはり授業は退屈だった。教師のためになる話は右から左に抜けた。板書を書き写したノートは落書き帳と化している。『超能力』『世界の敵』といった言葉が散見されるため、誰にも見せることはできない。

 放課後になると、一部の学生たちが我先にと廊下へ出ていく。部活によるグラウンドの場所取りか、その他何かしらの理由があるのだろうが、帰宅部である自分には理解しようがなかった。そんな集団の中に、坂本杏が混じっているため驚く。彼女は自分と同じ帰宅部だったはずだが。

 符浦栞は望先生に呼び出されているため、そそくさと職員室へ向かった。二人で歩いて帰ることを約束しているため、次々と高校生が帰っていく中、俺は一人寂しく教室で待つ。窓の外では部活に勤しみ、青春を謳歌する学生がいくらでも見ることができる。とくにすることもないので、それらを眺めた。転がるボールを目で追いかけ、制服でも学校指定の体操服でもないクラスメイトの姿を新鮮に思う。

「どうした、帰らんのか?」

 帰る準備はすっかり整ったといった様子で中田が話しかけてくる。気づけば、周りにはほとんど人がいなくなっている。

「栞さん待ちだよ」

「栞さんねぇ……なぁ、結局のところ。転校してきた理由は何だったわけよ? 理由聞いたんじゃないのか?」

「別に」

 彼の目から逃れるように目線を反らし、彼の言葉に答えていく。唾を飲み込む回数が、いつもより多い気がする。

「……なぁ、久しぶりに屋上に行かないか」

 きっといい風が吹いているぞ、と彼は言う。外に立つ木々の葉が、風にこすれる音が聞こえた気がした。置き勉を見極め、鞄に教科書などを詰めていく。重くなった鞄を片手に、俺は頷いた。

 屋上への階段を、中田が先導して進んでいく。薄く白い層のように積もった埃が、歩く度に落ちていく。

「最初にここに来た時のことを覚えてるか?」

 中田はこちらに顔を向けることなく呟く。俺は記憶をゆっくりと手繰り寄せる。

「……確か、あの時も放課後だった。良いところ見せてやるよってお前が言ってた気がする」

「そうそう、普通は閉鎖されている屋上……すぐ近くにあるのに、ファンタジー世界への入り口って感じがしないか?」

 彼は楽しそうに話す。ファンタジーかどうかは分からない。それでも屋上で弁当を食べたりといった創作では良く見られる一風景に対する憧れは否定できない。

「あぁ、だから紹介されたとき、俺も楽しかったよ」

 その時、この屋上から新しい物語が始まるような気がしたのだ。新たな出会いが生まれるか、はたまた見てはいけないものを見てしまうのでは、などと夢想したこともある。その夢物語は青春物語か、はたまた現代ファンタジーか。恥ずかしながら、そういった幼稚な物語を考えることから、卒業できていない自分がいる。

「そうだろ? やっぱり、俺とお前は似てるんだよ。だから、こうして友人として続くことができてるんだろうなぁ」

 屋上の扉が見えた。固く閉ざされた扉を開けることが実は簡単で、その方法を知っているのは俺と中田――いや、今日から符浦栞も知ったことになるのか。

 ――彼女はいつまでいるのだろう。

 ふとそんなことを考える。自分の生まれた理由は何なのだろう、と思考が飛ぶ。

 扉を開けると、どこまでも続く空が広がっている。雲の数がいくらか増え、太陽は地平線へと近づいている。心地よい風が吹いていた。

「なぁ、非日常への憧れはあるか?」

 彼の話は唐突だった。非日常への憧れ? 彼の言葉を自分の中でうまいこと飲み込めない。

「いや、お前はあるはずだ。何せ、俺と似てるんだから」

 俺の返答を待つことなく、言葉を続ける。語気が徐々に強くなる。

「俺にとっての非日常は唐突だったさ。知らない世界を見せつけられて、これまでの日常が音を立てて崩れていったんだ。それからというもの、その世界が、俺の生きる世界になった……分かるか? 俺も、お前も。ずっと憧れ続けた非日常だ」

「なぁ、何を言ってるんだ?」

「符浦栞の正体は分かってる」

「……は?」

 どういうことだ。理解が追い付かない。ずっと隣で馬鹿話ばかりして、ここぞという時に頼れる友人が、符浦栞の正体を知っている? 正体とは何だ? 能力を無効化するという彼女の能力のことか? 疑問符が脳内で駆け巡る。

 開いた口はふさがらず、ただ喉の渇きだけが増していく。飲み込む唾すらなくなった。

「能力を無効化する人間なんて、一人しかいない。そうだろ? まさか聞かされてないなんてことはないよな? 一緒に住んでるんだろ? お前はどっち側に付くんだ?」

「ちょっと待て! 意味が――」

「あの女が送りこまれた理由は何だ! 俺を殺すためか! 桜庭! お前はどうなんだ!」

 中田の目が、まっすぐにこちらを見つめてくる。思い出すのは穴の開いた眼球。目線を反らし金網を見る。太陽の光が目に染みる。

「……まぁいい。聞いた俺がバカだった。俺としては、聞く必要性なんてこれっぽっちもないんだわ」

 中田は鞄を投げ捨てる。手には黒く小型の物体。バチッと閃光が走るのが見える。声を上げる間もなく、とっさに距離を詰められ、

 ――バチッ

 意識が沈んでいく。最後に見たのは、彼の寂しそうな顔だった。

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